25
一日の為事を終え、火の始末をし、薄い布団に潜り込む。
床の硬さが身体に伝わるが、里の寝床によく似て妙に懐かしい。日々の緊張も手伝い、黎珠が横になるとすぐに睡魔が訪れた。
夢を見る間もなく、闇に吸い込まれるように眠りに落ちる。
だから脈絡なく夜中に目覚めたとき、黎珠は即座に襲撃を予感した。
布団を撥ねて、飛び起きる。
頬が熱い。眠っていただけだというのに、軽い動悸がする。
(胸騒ぎがする。この感覚は──)
戦いの、最先の空気。
そうして真っ先に浮かんだのは、北嶽の顔だった。
考え過ぎだとは、思う。
だが、安易に気の所為だと切り捨てられない。
孝燕にも言われたが、龍討師は殺意に敏感だ。暗殺を生業とする以上、そう在らねば討師として成り立たないのも事実である。
黎珠は素早く身支度を整えると、離れの戸に手をかけた。そのまま外に出ようとし、ふと立ち止まる。くるりと反転して居間に戻ると、寝る前に手入れをした黒影を手に取った。
輝きを取り戻し、夏楠の黒影と瓜二つになった黒影を掲げる。
鞘と柄は丁寧に磨き、剣首には新品の穂を付けた。黎珠には鞘から剣を抜くことができず、剣身だけは手付かずのままだが、これは恐らく問題ないだろう。
黒影は、宝貝だ。
北嶽との戦闘でぼろぼろだった彼も、刃だけは見事な黒影だった。察するに、黒影の剣に研磨は不要なのだ。でなければ、あえて剣身以外の手入れを怠る理由がわからない。
あとはどうにかして、黒影を北嶽の手に戻す算段をつけねば。主である彼なら、黒影を抜くことができる。戦闘ではきっと、彼の力が必要だ。
「ご同行、お願いします。黒影殿」
〈────。──────────〉
今、黒影の声はまったく聞こえない。
だが、なんとなく、黎珠は彼が同意してくれたように感じた。
黒影とともに出ると、想像以上に外は暗い。空を仰ぐと、糸のように細い三日月が雲に覆い隠され、黎珠の不安を掻き立てた。
暗く、月の光りの届かぬ夜。
それは、龍討師が最たる真価を発揮する刻でもある。
周囲に気を配りながら、黎珠は慎重に先を急いだ。真っ暗な宮中は静まり返り、不寝番の数も異様に少ない。信じられないことに、中には眠りこけている者すらいる。
これはたまたまなのか、もしくは単純に、彼らが怠惰なだけか。だが、仮にも国土の四分の一を統べる州公のおわす宮に、そのような状況があり得るだろうか。
(あるいは──何者かの意図が作用している?)
例えば、その何者かに睡眠薬を盛られている、だとか。
症状を診れば、黎珠でもある程度のは可能だ。不寝番を調べてみたい気持ちはあったが、今は時間が惜しい。北嶽の安否が最優先だ。
闇に眼を凝らし、重い足取りで庭園を通り抜ける。
何事もなければと心中で祈りながら、黎珠は北嶽の寝所を目指した。
(……やはり、おかしい)
一歩進むごとに、疑念が確信へ変わっていく。
これだけ歩いて、道中誰とも遭遇しない。異常だ。いくら玄州兵がぼんくらとはいえ、さすがに不自然である。
毒を盛られたか、故意に配置を変えられたか、金で買収されたか──いずれにしても、閑かに計算された敵意を感じる。
(早く、北嶽様のもとへ)
わずかな灯籠の灯りを頼りに、闇深い回廊を急ぐ。
不自由は感じない。
討師は夜眼が利く。
龍殺には龍脈が映える夜間が、もっとも適しているからだ。
すんなり北嶽の寝間に辿り着くと、黎珠は扉の前で足を止めた。
この期に及んで、しばし迷う。
確たる証拠もなく、呼ばれてもいない主の寝間に、このまま入室して良いものか。本当に異常がないか、今一度周囲を確認すべきではないか。
北嶽は命を狙われているのだ。何事もなかった場合、罪に問われるのは黎珠である。『叛逆の意志あり』と入室った途端、頸を刎ねられても文句は言えない。
しかし幸いにも、その逡巡は長くは続かなかった。
結論を待たず、室内から家具を引き倒す騒々しい音が響く。
瞬時に張り詰めた空気を感じ、黎珠は足を踏み出した。
呑気に迷っている場合ではない。
「北嶽様ッ!」
蹴破るように扉を開く。鍵はかかっていない。
強引に寝間へ押し入り、最初に黎珠の眼に飛び込んだのは、乱れた室内だった。
天蓋から垂れた布が、ずたずたに裂けている。敵の攻撃を防いだのか、刃物の突き刺さった書卓が横倒しになっていた。
その木の葉のような形をした、柄のない特徴的な刃を、黎珠は識っている。
暗器──討師が好み遣う、隠し武器の一つだ。
「その声は莫迦女か!?」
存外近くから北嶽に呼ばれる。
声の方を向くと、夜着のまま護身用の剣を握る北嶽がいた。
怪我はなさそうだ。壮健なその姿に安堵して、黎珠は北嶽の隣に並んだ。
「はい、北嶽様! 危急の事態ゆえ、ご無礼をお許しください」
「お前がここにいるってことは、敵は別口か」
なるほど、北嶽は黎珠を疑っていたようだ。
確かにこの状況では、それが一番自然だろう。
「北嶽様、あの者に見憶えは?」
訊ねながら、敵を検分する。
寝台を挟んだ寝間の奥に、外套を頭から被った人影が視えた。顔は視えないが、華奢な手足と身体つきから女だとわかる。小柄なので少女かもしれない。彼女はその手に、複数の刃物を握っていた。
「お前、あいつが視えるのか? この暗さで」
「はい。討師は夜眼が利くのです。北嶽様はいかがですか?」
「影くらいは視える。あの小っせぇ武器はなんだ?」
「『鏢』です。木の葉型の小さな刃物で、敵に投擲します。毒を仕込むことが多いので、ご注意を」
鏢は飛刀に次ぐ代表的な暗器だが、玄州で扱う者はごく少数だ。飛刀には柄があるのに対し、鏢は柄がない。片手に乗るほどの刃を、指の間に握り込むようにして、打つ──つまり、投擲するのだ。
「あの体格、女性ですね。歳も若そうです。この気配は──」
言い終える前に、女が鏢を放った。
打たれた刃の数が多い。──まずい。
黎珠は力いっぱい、横に北嶽を突き飛ばした。
あの龍脈の強さでは、かすっただけで命に関わる。
黎珠は上体を逸らして鏢を避けたが、一枚躱し損ねた。
二の腕のあたりを鏢に裂かれ、手にした黒影を落としてしまう。
「くッ!」
傷口を手で押さえ、黎珠は床に尻をついた北嶽と合流した。
しくじった。
思った以上に、鏢の扱いが巧い。この玄州に、これほどの鏢の遣い手がいるとは意外だ。
刃に毒を塗られていなければ良いが。
「北嶽様、ご無事ですか?」
「この莫迦がッ! いきなり何す──」
悪態をつこうとした北嶽は黎珠の怪我に気づき、押し黙った。
二の腕の辺りが、布ごとぱっくりと割れている。
だらだらと出血して見た目は派手だが、傷は浅い。戦闘に支障はないだろう。
即死しないということは、即効性の毒は塗られていない。この感覚なら、毒刃ではないように思う。もし仕込まれていたとしても遅効性だ。止血も後回しでいい。
「北嶽様はご無事ですね。良うございました」
こちらは大事ないという意味も込め、黎珠は北嶽に笑いかけた。
北嶽は黎珠から眼を逸らし立ち上がると、
「賊を始末する」
と、聞くだけで息の根が止まりそうな言葉を吐く。
さすがにこの状況で、それは無謀だ。
黎珠は襲撃者から北嶽を隠すように、彼の進路を阻んで告げた。
「北嶽様、この場はわたしに任せを。どうぞお逃げください」
「ぬかせ、莫迦女。手負いは引っ込んでろ。このおれが直々にブッ殺してやる」
「なりません、北嶽様! あの者、恐らく龍討師です!」
「──ちッ」
言い合う間にも、鏢の雨が降る。
北嶽は手近にあった敷布を掴むと、自分たちの身を覆い隠すように広げた。
円舞のような回転に合わせてふわりと膨れる布に、すべての鏢が絡め取られる。
黎珠はその隙に、床に置き去りとなった黒影を手元に引き寄せた。
「北嶽様、黒影殿を!」
「やなこった!」
即答されるが、ここで引くわけにはいかない。
龍討師は、龍を殺すことだけに特化した人間だ。
ましてや今は真夜中。さらに北嶽は夜目が利かない。
逃げる気がないなら、せめて武器だけでも最上のものを持つべきである。
「北嶽様、お怒りはごもっともですが、どうか黒影殿をお赦しください。黒影殿も、お願いします。北嶽様をお護りください。わたしの顔に免じて、どうかこの場は」
かたかたと黒影を持つ手が震える。
右腕の負傷でうまく力が入らない。
気を抜くと落としてしまいそうだ。
黎珠は北嶽を──夏楠の血を引く彼を死なせたくない一心で平伏し、彼に嘆願した。
「お願いします、北嶽様。どうか、どうか!」
〈────────────〉
「糞ッ! わぁったよ! 持ってりゃいいんだろ!? 持ってりゃ!」
根負けした北嶽が、黎珠から奪うように黒影を取り上げた。
「……なぜ、庇うの? おなじ討師なのに」
討師の女が喋った。
やはり、若い。少女だ。
──既視感がある。
情の欠落した声。ぞんざいに言葉を繋げただけの語り口。それは里にいた頃の自分の口調に、よく似ている。
討師の少女は、重ねて黎珠に問いかけた。
「これは悪しき龍。だから討伐する。これは良い行い。……ちがう?」
「違います」
迷いなく否定する。
紛れもない自分の意思として。
それが悩み、苦しみながも黎珠が出した解答だ。
「龍討師は、ただのちっぽけな人間です。神ではありません。……龍討師に、他者の命を奪う権利はない」
「悪いのに、許すの? 遊びほうけて、民のことも考えない、北嶽を?」
討師の台詞に、北嶽が身じろぎをする。
しかし、黎珠は討師に一歩を踏み出した。
その問いに、退くことはできなかった。絶対に。
「罪を赦せとは言いません。けれど、そこから生まれる可能性を摘んではいけないと、わたしは思うのです」
夏楠は、黎珠を赦した。
そして彼は、常に根気強かった。
これはつまるところ──そういうことだったのだ。
「北嶽様は苗です。まだお若い。今、見限るのは早計に過ぎます。北嶽様には無限の可能性と、未来がある。手をかけ慈しみ、根気強く水をやるのが、我らの務めではないでしょうか?」
「…………」
討師は答えず身を翻し、窓を破って逃走した。
確かに、もういい頃合いだ。やや遅れて、事態を知った兵卒が寝所に到着した。これだけ騒げば、いくらなんでもまわりは気づく。
「北嶽様ッ! ご無事ですか!?」
「遅えんだよ、この鈍間! 賊が逃げた、すぐに追え!」
指示を飛ばす北嶽の横で黎珠は服を破り、止血をする。皮膚が綺麗に割れているので、あとで李に針と糸を借り、縫い合わせる必要があるだろう。とは言え、骨には異常がないので問題ない。
それよりまずは、北嶽の安否だ。
「北嶽様、お怪我はございませんでしたか?」
「ねぇよ! 見りゃわかるだろ! おれがあんな女に遅れを取ってたまるか!」
「左様でございますか。安堵いたしました」
「お、お前……」
「はい?」
黎珠は居心地悪そうに語尾を濁す北嶽を見上げた。上から落とされる視線の先には、布を巻きつけた黎珠の腕がある。
──ああ、気にしてくれているのだ。
「ご心配には及びません。ただのかすり傷です」
「だ、誰がお前みたいな短躯の心配なんかすっか! 莫迦じゃねーの、お前!」
ふい、とそっぽを向く北嶽の気持ちが、黎珠にはよくわかった。
知っている。親切にされることに慣れていないから、どうしていいかわからないこと。つい、憎まれ口を叩いてしまうこと。なかなか素直になれないこと。すぐに認められないこと。
理解る──とても、とても、とても。
涙が出るほど、黎珠には、わかるのだ。
「まあ、これはとんだ早とちりを。お許しくださいませ、北嶽様」
少しだけ困った顔を作って、黎珠は頭を下げた。
「仕方のねぇ奴だな。まあ、今回は許してやるよ」
「はい。ありがとうございます、北嶽様」
黎珠は顔をほころばせて礼を述べる。
それを見た北嶽は、苦虫を嚙み潰したような顔で顔を背けた。
「今日はもう寝る!」
宣言し、北嶽は慌ただしく寝間を横切ろうとして途中、倒れた長椅子の角に足をぶつけた。裸足だったため、小指を思い切りやってしまったらしい。痛そうだ。
「北嶽様、大丈夫ですか?」
「煩いなんともない! お前も早く寝ろ! 明日遅れたら承知しねぇからな!」
噛み付くように言い返されてしまう。
どかどかと去って行く北嶽を見送り、黎珠は彼に対して初めて、くすりと笑みをこぼした。




