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その日の昼餉も、やはり北嶽は荒れていた。
「あー糞ッ、畜生! 頭痛ぇ……飲み過ぎた……」
入室するなり長椅子に身を投げ出し、靴を脱ぎ捨てる。黎珠は北嶽の長靴を拾い、椅子の端に揃えて置いた。近寄ると強い酒の臭いとともに、甘ったるい花の香りが黎珠の鼻に届く。
室内で香を焚き、酒宴にでも耽っていたのだろうか。だとするなら、あとで北嶽に室の換気を進言した方が良さそうだ。
それにしても、彼がこんな女性向けの甘い香りを好むとは意外である。
「なにぼっと突っ立ってる」
「はい?」
室の隅に控えていた黎珠を、北嶽は三白眼で睨めつける。
「茶の一つも出せねぇのかよ、お前は! ッ、てぇー……このおれが二日酔いなんて……」
「は、はい! 申し訳ございません、すぐにお持ちします!」
「大声で喚くな、頭に響く。っとに使えねぇな、お前は」
「面目ございません。しばし、お待ちくださいませ」
大急ぎで棚から茶器を取り出し、孝燕の見よう見まねで準備する。茶壷や茶盤を使った高級茶の淹れ方は、層雲宮で毎日見ていた。なんとかなる。
念のためこっそり味見をしてから、黎珠は茶器一式を円卓に置いた。
「お持ちいたしました」
「遅い。身体起こすのも面倒だ。早く茶ぁこっちに寄越せ、莫迦女」
「はい、どうぞ」
そっと両手で掲げるように、茶杯を差し出す。北嶽はぞんざいな手つきでそれを受け取り、茶を啜る寸前でぴたりと動きを止めた。
ほとんど垂直落下するように、茶杯が円卓の上に戻る。
脈絡のないその行動に、黎珠は眼を丸くした。
北嶽は杯に口を付けていない。ということは、茶が口に合わなかったわけではない。手には茶杯を持ったままだから、淹れた茶が熱いというわけでもない。
「あの、北嶽様?」
茶杯を握った北嶽の手が、すいと持ち上げられる。──と、そのまま勢い良く振り下ろされた。
陶器の砕ける軽やかな音が響く。
高価な茶杯が、床の上で粉々に散っていた。
「こんな不味そうな茶が飲めるか」
「は、はい。申し訳ありません」
「朝餉はどうした?」
「そろそろ李君が運んでくださるかと」
「ふうん。で、お前は何もしないのかよ?」
「そのつもりだったのですが、お出しする料理の順などが複雑なので、また日を改めてと……」
「役立たずここに極まれりだな」
返す言葉もなく俯いていると、背後で戸を叩く音がした。料理が盛られた膳とともに李が入室し、手際よく皿を並べてゆく。
北嶽は李の背を爪先で小突き、注意を自分に向けさせた。何も知らない李は、頸を傾げて北嶽を見上げる。
「?」
「気が変わった。朝餉は全部下げろ。それから食事についてだが、明日以降も配膳はお前がやれ。この莫迦女には絶対運ばせるな。絶対にだ」
顎で黎珠をしゃくり、北嶽は指示を下す。李は小さく頷いて、並べかけていた食器の回収を始めた。
「おい、何をしてる」
「え?」
急にこちらに矛先を向けられる。
北嶽は金の双眸を眇め、冷ややかに黎珠に問いかけた。
「割れた湯飲みも片せねぇのか? お前は?」
「も、申し訳ありません! 今すぐに」
「ったく。詫びる以外なんもできねぇな、お前。存在価値なさ過ぎて、使い道に困る」
「……精進、いたします」
「掃除が終わったらおれの視界から消えろ。お前見てると、苛つくんだよ」
「はい。申し訳ございません」
我ながら覇気のない、消え入りそうな声で平伏する。
配膳すらままならない己の無能を恥じながら、黎珠は砕けた茶杯を拾い上げた。
李は労わるような視線で黎珠をねぎらい、北嶽の言いつけ通り、膳を手にしずしずと退室する。李がいなくなると、あたりはしんと静まり返った。静寂の中、黎珠の拾う破片のかすかな音だけが聞こえる。
黙々と清掃に従事しながら、黎珠は先ほどの北嶽の行動について考えた。
彼は、何故茶杯を割ったのだろうか。不味そうだと言っていたが、黎珠が確認した限り、見た目には問題なかった。直前まで飲む様子だったことを考えると、味が原因ではない気がする。器に不備があったのだろうか。
(例えば、茶杯が汚れていたとか。あるいは……)
──北嶽様のときは毒で、たまたま食事を抜かれていて助かったと聞いています。
瞬間的に、昨夜の李の話を思い出した。
そうだ、毒だ。
北嶽は毒を盛られた経験がある。当然、飲食には気を遣うはずだ。近習である李ならまだしも、信用のない黎珠の出した茶を、そのまま飲み干すわけがない。この場合、目の前で毒見をしてから茶杯を差し出すべきだったのだ。
(曲がりなりにも毒を扱う龍討師が、こんなことを見落とすなんて……)
己の無神経を猛省していると、突然背後から北嶽の低い声が飛んだ。
「黙れ」
「はい?」
振り向きざまに訊き返す。
黙れと言われて返事をするのもどうかと思ったが、先に声が出てしまったのだから仕方がない。
叱責覚悟で北嶽を仰ぎ見るが、彼は黎珠を見てはいなかった。
「だから黙れっつってんだろ! 宝貝風情が!」
突如、北嶽の罵声が室内に反響する。
大声で叫ぶなり、彼は帯剣していた黒影を鞘ごと床に叩き付けた。
先の台詞は、黒影の剣に対してのものだったらしい。
依然として黎珠に黒影の声は聞こえないが、その発言は北嶽の逆鱗に触れるものだったようだ。
射殺すような眼で睨み、剣身を踏み付けると、北嶽はさらなる罵言を黒影に浴びせかけた。
「高炉に投げ捨ててやろうか、このなまくらが!」
〈──? ──────────────────────────〉
「けっ、反吐が出る。二度とおれの前で口を利くな」
〈──────────────────────────────〉
「黙れッ!」
黎珠はおろおろと、事の成り行きを見守ることしかできない。割って入るべきか悩んでいると、振り返りざまに北嶽が命を下した。
「お前、この宝貝を持ってけ!」
「えっ、い、いけません。大切な宝貝を、わたしのような奴婢が──」
「いい、持ってけ。二度とこいつをおれの視界に入れるな」
「ですが、ほかの官吏の方が知ればきっと……」
「くどい! この北嶽がいいと言ってるんだ、さっさとこいつを持って出ていけ!」
「は、はい! 失礼いたしました!」
両手で黒影を抱え、逃げるように黎珠は室を飛び出した。
夏楠と違い、北嶽と黒影の仲は良くないらしい。いや、夏楠も厳密には池に投げるとかなんとか言っていたが、あれは軽口の叩き合いだ。ここまで険悪ではなかったし、思い返せば北嶽は黎珠と対峙したとき、最初は普通の剣で戦っていた。あれも黒影との対立が理由かもしれない。
黎珠は逃げるように回廊へ出て、この騒ぎにも微動だにしない衛士の脇をすり抜けた。その際、特に咎められもしない。この程度の癇癪は、日常茶飯事なのだろう。
人気のない場所まで来ると、黎珠は小声で黒影に話しかけた。
「黒影殿、わたしを憶えておいでですか?」
〈────────〉
やはり返答は聞こえない。
彼が黎珠の知る『黒影』なら、すぐに北嶽か西嶽に働きかけてくれそうなものだ。それがないということは、彼にも何か問題が起きているに違いない。
相変わらず意思の疎通はできないが、自分の声は届いているはずだ。
黒影に視線を落とし、黎珠はいつかの夏楠の言葉を唇に乗せた。
「黒影殿、どうか北嶽様を見捨てないでください。だって、北嶽様もまだ苗なんです。周囲の者が手をかけ、慈しみ、育てて差し上げなければ」
長く手入れされていなかったのだろう。すっかり色が黒ずみ、古ぼけてしまった黒影に語りかける。
「李君に磨き粉をいただいてきますね。きちんと手入れをした、ぴかぴかの黒影殿を見れば、北嶽様もお許しくださるやもしれませんし」
〈──────────〉
「わたし、頑張ります。大丈夫、きっとなんとかなります。いいえ、なんとかしてみせます。どうぞ、大船に乗ったつもりで御覧じください!」
〈──────────〉
応えはなくとも、黒影が傍にいてくれるのは心強い。
それに最近の黎珠は、とても運が良いのだ。幾度も危機に瀕しながら、今も命を長らえている。さらには李や、桃や、鳳炬、黒影にも逢えた。
離れに戻った黎珠はその日の雑用を終えると、さっそく黒影の手入れを始めた。いつ黒影の力が必要になるかわからない。いざというときのため、入念に準備しておこう。
こうして一日の為事を終え、黎珠は明日への熱意とともに床に就く。結果として、この判断はこの上なく正しいものとなった。
──襲撃はその夜、予期せず訪れた。




