23
「あら? どなたかそこにいらっしゃるの?」
柔和な声に相応しい、黒の袍衣を纏った龍女が、そこにはいた。
口許に添えた、華奢な指に嵌められた紅玉の指輪が良く似合っている。大きな金の瞳、ゆるく弧を描く豊かな黒髪、そして抜けるような白磁の肌は、玄州における美女の条件すべてを満たしている。
北嶽の圧倒的な美とは異なる、ほわりとした美しさは気質の違いだろう。
空気が少し、夏楠に似ている──と黎珠は思った。
見るからに高位の龍であるにもかかわらず、黎珠を前にした彼女に侮蔑の色はない。純粋な好奇心が、その芳顔を飾っている。
しばらく龍女に見惚れていた黎珠だったが、自分が直立不動であることに、はたと気づいた。慌ててその場に平伏する。
「顔を上げてちょうだい。あなた、どなたの奴婢かしら?」
龍女の問いに唇を開きかけ、咄嗟に口を噤む。
まだ、直答を許されていない。危なかった。
「あっ、もちろん直答で構わないわよ。って言うか、直答の方がいいの。あれってすごく面倒臭いじゃない」
快活に龍女は言い、くっきりとした二重の瞳を黎珠に近づけた。
「あなた、お名前は?」
「はい。わたしは黎珠と申します──あっ!」
しまった。
うっかり夏楠に付けられた方の名を言ってしまった。
玉音の名は龍のもの、不遜なので和訓にした方が良いと李に注意されたではないか。
しかし黎珠の予想に反し、龍女は気分を害した風なく「まあ」と品の良い声を漏らした。
「あら、珍し。玉音の名を持っているの。良い龍の主をお持ちなのね、主の方はどなた?」
「はい。北嶽様にお仕えしております、婢女でございます。その、わたしの名は、北嶽様の前の主から頂戴いたものでして」
「……まあ、そうなの。北嶽公の」
そう言い、龍の美女は哀しげに顔を曇らせる。その場でゆっくりと腰をかがめると、黎珠に向けて柔らかな笑みを作った。
「北嶽付きなら、官奴婢でしょう? だったら、四嶽以下──つまり、主上以外のすべての龍に対してだけど──直答を気にしなくていいのよ。あなたは北嶽公の御言葉を伝える遣いでもあるの。四嶽にすら口を利いて良いんだから。物怖じせず、普通に喋って頂戴な」
「そうなのですか。ご丁寧にお教えいただき、ありがとうございます」
「それと──」
黎珠の両手を包むように握ると、龍女はぐっとこちらに顔を近づけた。
「あとあの、こんなことをわたくしが言うのもアレだけど、気をしっかり持ってね! 生きてさえいれば、いつか必ずいいことがあるわ! ええ!」
「は、はあ……」
何故か至近距離で、猛烈に励まされた。
まるで、これから黎珠が自害でもするかのような物言いだ。そんなに悲壮感が漂っていたのだろうか。
「そうだ! つらくなったら、いつでもここへいらして。もしアイツに殴られて怪我をしても、ここでは薬草を栽培してるから、すぐに手当てができるわ。なんにもないところだけど、お茶と甜点くらいはご馳走もできるしね?」
「あ、はい。ありがとうございます。──ええと」
なんと呼ぶべきか迷っていると、龍女は「あらやだ」と口元に手をあてて笑った。
「ごめんなさい。わたくしの名は、ホウキョ。鳳凰の鳳に、炬火の炬で、鳳炬。男みたいな名でしょ? わたくしが産まれたとき、父が男児を望んでいてね。諦めきれずにこんな名を付けたってわけ。酷くない?」
ぷうっと頬を膨らませ、少女のような爛漫さで鳳炬は訴える。
その明るさに、黎珠は笑みをこぼして答えた。
「でも、素敵です。あでやかな鳳凰のようで、とても綺麗だと思います」
感想を述べると、鳳炬はぱあっと表情を輝かせ、黎珠の手を握った。
「ほんと? ありがとう! どうか遠慮なさらず、わたくしのことは鳳炬と呼んでね」
「それは……身に余る光栄ですが、龍の御名を口にするのは……」
これには、さすがに言葉を濁した。
龍の名呼びについては、散々痛い目にあった黎珠である。前回の二の舞は断固として避けたい。
「わたくしは体面を気にするような立場じゃないわ。心配はご無用よ。この蓮池だって今はわたくしが管理してるけど、人龍ともに来訪者が少ないの。同性のお友達もいないし、あなたさえ良ければ、わたくしの話し相手になってくれないかしら? ……駄目?」
と、上目遣いで懇願される。
そうは言っても、鳳炬は明らかに高貴な龍の出だ。奴婢の黎珠と親しくなどして、後ろ指をさされたりしないだろうか。
本来なら、不遜と言って断るべきだろう。しかし──脳裏に、「どうか名で呼んでおくれ」と言っていた夏楠を思い出した。尊称ではなく、名で呼ばれたいと何度も繰り返していた、夏楠を。
迷った末、黎珠は叩頭して鳳炬に告げた。
「はい。それではお言葉に甘えて。よろしくお願いいたします、鳳炬様」
そう言って頭を下げるが、鳳炬からの応えはない。
「鳳炬様?」
恐る恐る顔を上げる。
ぽかんと立ち尽くす鳳炬を見て、またやらかしてしまったと天を仰いだ。
「申し訳ありません! やはり、御名をお呼びするのは控えます」
「あっ、違うのごめんなさい! 本当に呼んでくれるとは思わなくって、ちょっとびっくりしただけ。今まで何人かに同じお願いをしたのだけど、みんな恐縮して呼んでくれなかったの」
「あの、それでは──」
「ううん、どうかそのままでお願い。人間のお友達は、わたくしの憧れだったのよ」
「憧れ、ですか?」
「ええ。天武兄様が人に敬意を払い、人と対等であろうとしたように、わたくしも」
鳳炬の言葉に眼を瞠る。雰囲気がどことなく似ているとは思ったが、顔立ちが異なるのでその発想はなかった。
「鳳炬様は、夏──天武様の妹君だったのですか!」
声を上げる黎珠に、鳳炬は自分の頭をぽかりと叩き、かぶりを振った。
「ああもう、わたくしったら! 勘違いさせてごめんなさい。天武兄様と血の繋がりはないの。わたくしが勝手にそう呼んでただけ。幼い頃、朱州から玄州の親戚に引き取られてね。そのとき、わたくしの面倒を見てくださったのが、天武兄様。それからずっと、わたくしの兄代わりだったのよ」
「左様でございましたか。あの、このお庭は天武様の?」
「うふふ、ご名答。察しが良いわね、レイジュは。レイジュ……字は麗しい樹で、麗樹かしら」
「あ、いえ。黎明の黎に宝珠の珠で、黎珠と書きます」
「あら素敵な名──って黎珠! あなた、もしかして字が書けるの?」
仰天する鳳炬の態度に頸を傾げつつ、黎珠は首肯した。
「はい、ひと通りは。ですが難解な書物は読解に時間がかかりますし、わたしなど大したことはございません」
「大したことあるわよ! 玄州人で読み書きできる者なんて、そういやしないわ。黎珠、ちょっと込み入ったことを訊いてもいい?」
「はい。遠慮なくおっしゃってください」
「あの北嶽公が、そこまで高度な教育をほどこすとは思えない。あなた、もともとは別に、相当位の高い龍に仕えていたわよね? 黎珠の前の主の方は、どうなさったの?」
「その……とある事故で、はぐれてしまいまして」
まさか刻を超えましたとも言えず、黎珠は語尾を濁した。
「可哀想に。それじゃあ主の方はきっと、あなたを心配してらっしゃるわね」
──それは、本当に何気ない一言だった。
鳳炬が発した言葉はなんのてらいもない、ごくありふれたものだ。けれど、だからこそ、今の黎珠には響くものがあった。
緊張の糸が途切れた、間隙での会話。
傷付き、摩耗し、悲嘆している自覚がなかったからこそ、鳳炬の台詞は余計に深く、黎珠の胸に刺さったのかもしれない。
だからだ。
だからこそ、ずっと心の奥深く沈めていたこと。
ついに、己の本心を漏らしてしまったのは。
「……そうでしょうか?」
「え?」
「彼は心配して、くれるでしょうか。もしそうだったとしても、わたしは彼の元から消えて……良かったのかもしれません」
「れ、黎珠?」
鳳炬の強い困惑が伝わる。
当然だ。初対面の人間が突然、訳のわからないことを口走り始めたのだから。
けれど、止まらない。
決壊した感情が泉のように溢れ、指の隙間から流れ落ちてゆく。
「わたしはあの方に、とても酷いことをしました。傷付けもしたし、罵倒もしました。本当に、自己嫌悪で死にたくなるほど……恩知らずで最低なことを、何度も……だから、自業自得です」
「黎珠……」
「当然の報いなんです。側にいても……きっと迷惑しか、かけません。わたしはこのまま、もう逢わない方が──」
そう、今ならわかる。
夏楠にとって、自分は害だ。
恩知らずにも暗殺を企て、実行しかけた龍討師。負の要素しかない。過去の経緯を振り返れば、彼に生かされたことがどれほどの恩赦だったか。
わざと名を呼ばせて、龍に殺させたかったのかもしれないと言った北嶽の言葉を、黎珠は否定できなかった。
何より自分自身で、思ってしまったのだ。その筋書きは良い、と。
夏楠は哀しむかもしれないが、『黎珠』に続き黎珠も死ねば、彼女を生き返らせようという気も失せるのではないだろうか。心の傷は刻が癒してくれる。彼の身を思えば、自分などいっそ死んだことにした方が、すべてが丸く収まるのではないか──。
自身の立場を理解した今となっては、そう思わずにいられない。
この時代で夏楠や孝燕の死の真相を突き止め、その回避に成功した暁には──黎珠は彼らの元を去った方が、きっと良い。戻らない方が、夏楠のためになるのだから。
「わたし……わたしなど、戻らない方が……きっとその方が、彼も幸せに──」
「そんなことはありません!」
驚くほど強い口調で、鳳炬が明言する。
それははっとするほど、清廉で美しい姿だった。
「で、でも……」
「我が名と天帝に誓って、断じてそんなことはありません。その方は誰よりも黎珠を大切に思って、今、誰よりも黎珠のことを心配しています。だから、ちゃんと帰ってあげるべきです。絶対に」
「でも、何故、鳳炬様にそのようなことがおわかりに?」
「そんなこと、黎珠を見ていれば簡単にわかりますとも! 賭けてもいいわ。黎珠はそりゃもう、眼に入れても痛くないってくらい、その方に大事にされている。だって――」
鳳炬は悪戯っ子のように瞳を輝かせ、とびきりの笑顔でこう言ってのけた。
「だってそうでもなければ、あなたのように聡い子が、その方のために涙するはずないもの」
「ほ、鳳炬様……」
声が震える。
ふええ、という情けない声とともに、黎珠はその場で泣き崩れた。
よしよしと黎珠を引き寄せて、鳳炬は優しく頭を撫でる。そんな言動も夏楠を想起させて、余計に心に沁みた。初対面の鳳炬に申し訳ないと思うが、あふれる涙を止められない。
──ああ、いつの間に。自分はこんなに涙脆くなってしまったのだろう。
「大丈夫よ、黎珠。こんなに想っているんだもの。いつか必ず、黎珠は主の方に逢えるわ。絶対よ、絶対」
「はい。ありがとうございます」
「どういたしまして。わたくしの胸なんかで良ければ、じゃんじゃん泣いて頂戴な!」
「ふふ、殿方に嫉妬されそうですね」
「ふんだ。大いに羨めばいいわ」
鼻から息を吐き、鳳炬は豊かな胸を反らす。
あたたかい気持ちで心が満たされた。自然と唇が綻ぶ。
この洛邑にも、李や彼女のような考え方の龍はいるのだ。その事実が嬉しかった。
「お恥ずかしいところをお見せして申し訳ありませんでした。わたし、刻限なのでそろそろ戻りますね」
「あらそう? 言われてみれば、あのクソガ──北嶽公がご起床の時間だわね」
途中、何か言いかけたようだが、気にせず黎珠は会話を続けた。
「はい。北嶽様はいつも朝はお休みとのことですので、昼餉の準備に参ります」
「ねえ、黎珠。また遊びに来てくれる?」
おずおずと問う鳳炬に、黎珠は破顔し、元気良く頷いた。
「はい、もちろんです! それでは、失礼いたします」
言い終えるやいなや、黎珠は急ぎ足で北嶽が待つ寝殿へ向かった。そろそろ昼時だ。急がねばならない。
「……気をつけてね。黎珠」
気遣わしげな鳳炬の声が、かすかに風に乗って聞こえた気がした。




