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「あら? どなたかそこにいらっしゃるの?」


 柔和な声に相応しい、黒の袍衣を纏った龍女が、そこにはいた。


 口許に添えた、華奢な指に嵌められた紅玉の指輪が良く似合っている。大きな金の瞳、ゆるく弧を描く豊かな黒髪、そして抜けるような白磁の肌は、玄州における美女の条件すべてを満たしている。

 北嶽の圧倒的な美とは異なる、ほわりとした美しさは気質の違いだろう。


 空気が少し、夏楠に似ている──と黎珠は思った。


 見るからに高位の龍であるにもかかわらず、黎珠を前にした彼女に侮蔑の色はない。純粋な好奇心が、その芳顔ほうがんを飾っている。


 しばらく龍女に見惚れていた黎珠だったが、自分が直立不動であることに、はたと気づいた。慌ててその場に平伏する。


「顔を上げてちょうだい。あなた、どなたの奴婢ぬひかしら?」


 龍女の問いに唇を開きかけ、咄嗟に口をつぐむ。

 まだ、直答じきとうを許されていない。危なかった。


「あっ、もちろん直答で構わないわよ。って言うか、直答の方がいいの。あれってすごく面倒臭いじゃない」


 快活に龍女は言い、くっきりとした二重の瞳を黎珠に近づけた。


「あなた、お名前は?」

「はい。わたしは黎珠と申します──あっ!」


 しまった。

 うっかり夏楠に付けられた方の名を言ってしまった。

 玉音の名は龍のもの、不遜なので和訓にした方が良いと李に注意されたではないか。

 しかし黎珠の予想に反し、龍女は気分を害した風なく「まあ」と品の良い声を漏らした。


「あら、珍し。玉音の名を持っているの。良い龍の主をお持ちなのね、主の方はどなた?」

「はい。北嶽様にお仕えしております、婢女はしためでございます。その、わたしの名は、北嶽様の前の主から頂戴いたものでして」

「……まあ、そうなの。北嶽公の」


 そう言い、龍の美女は哀しげに顔を曇らせる。その場でゆっくりと腰をかがめると、黎珠に向けて柔らかな笑みを作った。


「北嶽付きなら、官奴婢でしょう? だったら、四嶽以下──つまり、主上以外のすべての龍に対してだけど──直答を気にしなくていいのよ。あなたは北嶽公の御言葉みことばを伝えるつかいでもあるの。四嶽にすら口をいていんだから。物怖じせず、普通に喋って頂戴な」

「そうなのですか。ご丁寧にお教えいただき、ありがとうございます」

「それと──」


 黎珠の両手を包むように握ると、龍女はぐっとこちらに顔を近づけた。


「あとあの、こんなことをわたくしが言うのもアレだけど、気をしっかり持ってね! 生きてさえいれば、いつか必ずいいことがあるわ! ええ!」

「は、はあ……」


 何故か至近距離で、猛烈に励まされた。

 まるで、これから黎珠が自害でもするかのような物言いだ。そんなに悲壮感が漂っていたのだろうか。


「そうだ! つらくなったら、いつでもここへいらして。もしアイツに殴られて怪我をしても、ここでは薬草を栽培してるから、すぐに手当てができるわ。なんにもないところだけど、お茶と甜点おかしくらいはご馳走もできるしね?」

「あ、はい。ありがとうございます。──ええと」


 なんと呼ぶべきか迷っていると、龍女は「あらやだ」と口元に手をあてて笑った。


「ごめんなさい。わたくしの名は、ホウキョ。鳳凰ほうおうの鳳に、炬火かがりびの炬で、鳳炬ホウキョおのこみたいな名でしょ? わたくしが産まれたとき、父が男児を望んでいてね。諦めきれずにこんな名を付けたってわけ。酷くない?」


 ぷうっと頬を膨らませ、少女のような爛漫さで鳳炬は訴える。

 その明るさに、黎珠は笑みをこぼして答えた。


「でも、素敵です。あでやかな鳳凰のようで、とても綺麗だと思います」


 感想を述べると、鳳炬はぱあっと表情を輝かせ、黎珠の手を握った。


「ほんと? ありがとう! どうか遠慮なさらず、わたくしのことは鳳炬と呼んでね」

「それは……身に余る光栄ですが、龍の御名みなを口にするのは……」


 これには、さすがに言葉を濁した。

 龍の名呼びについては、散々痛い目にあった黎珠である。前回の二の舞は断固として避けたい。


「わたくしは体面を気にするような立場じゃないわ。心配はご無用よ。この蓮池だって今はわたくしが管理してるけど、人龍ともに来訪者が少ないの。同性のお友達もいないし、あなたさえ良ければ、わたくしの話し相手になってくれないかしら? ……駄目?」


 と、上目遣いで懇願される。

 そうは言っても、鳳炬は明らかに高貴な龍の出だ。奴婢の黎珠と親しくなどして、後ろ指をさされたりしないだろうか。


 本来なら、不遜と言って断るべきだろう。しかし──脳裏に、「どうか名で呼んでおくれ」と言っていた夏楠を思い出した。尊称ではなく、名で呼ばれたいと何度も繰り返していた、夏楠を。

 迷った末、黎珠は叩頭して鳳炬に告げた。 


「はい。それではお言葉に甘えて。よろしくお願いいたします、鳳炬様」


 そう言って頭を下げるが、鳳炬からのいらえはない。


「鳳炬様?」


 恐る恐る顔を上げる。

 ぽかんと立ち尽くす鳳炬を見て、またやらかしてしまったと天を仰いだ。


「申し訳ありません! やはり、御名みなをお呼びするのは控えます」

「あっ、違うのごめんなさい! 本当に呼んでくれるとは思わなくって、ちょっとびっくりしただけ。今まで何人かに同じお願いをしたのだけど、みんな恐縮して呼んでくれなかったの」

「あの、それでは──」

「ううん、どうかそのままでお願い。人間のお友達は、わたくしの憧れだったのよ」

「憧れ、ですか?」

「ええ。天武兄様が人に敬意を払い、人と対等であろうとしたように、わたくしも」


 鳳炬の言葉に眼をみはる。雰囲気がどことなく似ているとは思ったが、顔立ちが異なるのでその発想はなかった。


「鳳炬様は、──天武様の妹君だったのですか!」


 声を上げる黎珠に、鳳炬は自分の頭をぽかりと叩き、かぶりを振った。


「ああもう、わたくしったら! 勘違いさせてごめんなさい。天武兄様と血の繋がりはないの。わたくしが勝手にそう呼んでただけ。幼い頃、朱州ししゅうから玄州こちらの親戚に引き取られてね。そのとき、わたくしの面倒を見てくださったのが、天武兄様。それからずっと、わたくしの兄代わりだったのよ」

「左様でございましたか。あの、このお庭は天武様の?」

「うふふ、ご名答。察しが良いわね、レイジュは。レイジュ……字は麗しい樹で、麗樹かしら」

「あ、いえ。黎明の黎に宝珠の珠で、黎珠と書きます」

「あら素敵な名──って黎珠! あなた、もしかして字が書けるの?」


 仰天する鳳炬の態度にくびかしげつつ、黎珠は首肯した。


「はい、ひと通りは。ですが難解な書物は読解に時間がかかりますし、わたしなど大したことはございません」

「大したことあるわよ! 玄州人で読み書きできる者なんて、そういやしないわ。黎珠、ちょっと込み入ったことをいてもいい?」

「はい。遠慮なくおっしゃってください」

「あの北嶽公が、そこまで高度な教育をほどこすとは思えない。あなた、もともとは別に、相当位の高い龍に仕えていたわよね? 黎珠の前の主の方は、どうなさったの?」

「その……とある事故で、はぐれてしまいまして」


 まさかときえましたとも言えず、黎珠は語尾を濁した。


「可哀想に。それじゃあ主の方はきっと、あなたを心配してらっしゃるわね」


 ──それは、本当に何気ない一言だった。

 鳳炬が発した言葉はなんのてらいもない、ごくありふれたものだ。けれど、だからこそ、今の黎珠には響くものがあった。


 緊張の糸が途切れた、間隙かんげきでの会話。

 傷付き、摩耗し、悲嘆している自覚がなかったからこそ、鳳炬の台詞それは余計に深く、黎珠の胸に刺さったのかもしれない。


 だからだ。

 だからこそ、ずっと心の奥深く沈めていたこと。

 ついに、己の本心を漏らしてしまったのは。


「……そうでしょうか?」

「え?」

「彼は心配して、くれるでしょうか。もしそうだったとしても、わたしは彼の元から消えて……良かったのかもしれません」

「れ、黎珠?」


 鳳炬の強い困惑が伝わる。

 当然だ。初対面の人間が突然、訳のわからないことを口走り始めたのだから。

 けれど、止まらない。

 決壊した感情が泉のように溢れ、指の隙間から流れ落ちてゆく。


「わたしはあの方に、とても酷いことをしました。傷付けもしたし、罵倒もしました。本当に、自己嫌悪で死にたくなるほど……恩知らずで最低なことを、何度も……だから、自業自得です」

「黎珠……」

「当然のむくいなんです。側にいても……きっと迷惑しか、かけません。わたしはこのまま、もう逢わない方が──」


 そう、今ならわかる。

 夏楠にとって、自分は害だ。

 恩知らずにも暗殺を企て、実行しかけた龍討師。負の要素しかない。過去の経緯を振り返れば、彼に生かされたことがどれほどの恩赦だったか。


 わざと名を呼ばせて、龍に殺させたかったのかもしれないと言った北嶽の言葉を、黎珠は否定できなかった。

 何より自分自身で、思ってしまったのだ。その筋書きは良い、と。


 夏楠は哀しむかもしれないが、『黎珠』に続き黎珠も死ねば、彼女を生き返らせようという気も失せるのではないだろうか。心の傷はときが癒してくれる。彼の身を思えば、自分などいっそ死んだことにした方が、すべてが丸く収まるのではないか──。

 自身の立場を理解した今となっては、そう思わずにいられない。


 この時代で夏楠や孝燕の死の真相を突き止め、その回避に成功した暁には──黎珠は彼らの元を去った方が、きっと良い。戻らない方が、夏楠のためになるのだから。


「わたし……わたしなど、戻らない方が……きっとその方が、彼も幸せに──」

「そんなことはありません!」


 驚くほど強い口調で、鳳炬が明言する。

 それははっとするほど、清廉で美しい姿だった。


「で、でも……」

「我が名と天帝に誓って、断じてそんなことはありません。その方は誰よりも黎珠を大切に思って、今、誰よりも黎珠のことを心配しています。だから、ちゃんと帰ってあげるべきです。絶対に」

「でも、何故、鳳炬様にそのようなことがおわかりに?」

「そんなこと、黎珠を見ていれば簡単にわかりますとも! 賭けてもいいわ。黎珠はそりゃもう、眼に入れても痛くないってくらい、その方に大事にされている。だって――」


 鳳炬は悪戯いたずらっ子のように瞳を輝かせ、とびきりの笑顔でこう言ってのけた。


「だってそうでもなければ、あなたのようにさとい子が、その方のために涙するはずないもの」

「ほ、鳳炬様……」


 声が震える。

 ふええ、という情けない声とともに、黎珠はその場で泣き崩れた。


 よしよしと黎珠を引き寄せて、鳳炬は優しく頭を撫でる。そんな言動も夏楠を想起させて、余計に心に沁みた。初対面の鳳炬に申し訳ないと思うが、あふれる涙を止められない。


 ──ああ、いつの間に。自分はこんなに涙脆くなってしまったのだろう。


「大丈夫よ、黎珠。こんなに想っているんだもの。いつか必ず、黎珠は主の方に逢えるわ。絶対よ、絶対」

「はい。ありがとうございます」

「どういたしまして。わたくしの胸なんかで良ければ、じゃんじゃん泣いて頂戴な!」

「ふふ、殿方に嫉妬されそうですね」

「ふんだ。大いにうらやめばいいわ」


 鼻から息を吐き、鳳炬は豊かな胸を反らす。

 あたたかい気持ちで心が満たされた。自然と唇がほころぶ。

 この洛邑にも、李や彼女のような考え方の龍はいるのだ。その事実が嬉しかった。


「お恥ずかしいところをお見せして申し訳ありませんでした。わたし、刻限なのでそろそろ戻りますね」

「あらそう? 言われてみれば、あのクソガ──北嶽公がご起床の時間だわね」


 途中、何か言いかけたようだが、気にせず黎珠は会話を続けた。


「はい。北嶽様はいつも朝はお休みとのことですので、昼餉ひるげの準備に参ります」

「ねえ、黎珠。また遊びに来てくれる?」


 おずおずと問う鳳炬に、黎珠は破顔し、元気良く頷いた。


「はい、もちろんです! それでは、失礼いたします」


 言い終えるやいなや、黎珠は急ぎ足で北嶽が待つ寝殿へ向かった。そろそろ昼時だ。急がねばならない。


「……気をつけてね。黎珠」


 気遣わしげな鳳炬の声が、かすかに風に乗って聞こえた気がした。


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