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昏倒するように眠った黎珠は翌日、それでもほぼ定時に起床した。
獄法山では、体調不良など関係なしにお勤めに出ていた成果だろう。昔取った杵柄というやつだ。
李が用意した奴婢の衣装に袖を通す。黒地の比較的質素なものだが、生地は厚く、縫製も良い。よく見ると袖口に刺繍や、裏地に柄があったりと、洒脱な仕上がりになっている。さすがは北嶽付きの官奴婢の服だ。動きやすいところも気に入った。
層雲宮の豪勢かつ悪目立ちする衣装を箪笥にしまうと、黎珠は屋外へ足を踏み出した。
周囲を気にしながら宮中を歩く。清掃は隅々まで行き届き、各所に衛兵が配置されているが、黎珠に一瞥もくれず突っ立ったままの龍兵が目立つ。
相変わらずの杜撰な管理体制だが、今回は幸運に感謝するしかない。有能な龍兵か官吏が一名でもいれば、西嶽の口添えがあったとしても、ここまで自由を与えられることはなかっただろう。
(不甲斐ない玄州兵を見て、あのとき雲将軍は、神経を尖らせていたのでしょうね。西嶽公をお護りするために)
今さらではあるが、雲翔の身が案じられた。こちらも生きるのに必死だったとは言え、申し訳ないことをしてしまったと思う。風花の里秘伝の湯液でも煎じられれば良いのだが。
思案に耽りつつ、黎珠は黙々と井戸水を汲み上げる。
これは昨夜、就寝前に李に聞いた彼の日課だ。いくら龍とはいえ、李の体格でこの作業は大変だと思い、交代させてもらった。このくらいは年長の自分がやらねば、申し訳が立たない。
作業を終え、水桶を手にしたところで、黎珠は背後に視線を感じた。
気配に気づけなかった。だが、敵意はない。
慎重に後ろを振り返ると、一人の少女がこちらを凝視していた。
齢の頃十五、六の、人間の少女だ。黎珠と同じ奴婢の衣装を纏い、赤みがかった長い髪を左右で団子にまとめている。鳶色の瞳に健康的な肌の色をした、黎珠よりも小柄な少女だった。
空の桶を下げているので黎珠同様、水を汲みに来たのだろう。
「おはようございます。あなたも官奴婢ですか?」
話しかけるが、少女は沈黙を返すのみだ。
ただ、不快な様子はない。もう少し語りかけてみる。
「わたしは北嶽様付きの官奴婢で、黎──珠音と申します。新参者ですが、どうぞよろしくお願いします」
軽く自己紹介するが、やはり少女は黙ったままだ。
無表情のまま、玻璃のように透き通った双眸を黎珠に向けるのみである。
「あ、あのう……その……」
黎珠が続く言葉を探していると、唐突に少女が口を開いた。
「……モモ」
「はい?」
「名前、モモ。同じ奴婢。よろしく、『たま』」
「は、はい。よろしくお願いします」
黎珠が頭を下げると、彼女もぺこりとお辞儀を返す。
依然として表情は読めないが、折り目正しい、可愛らしい少女だ。
「モモさん、可愛いお名前ですね。果実の桃から取ったのでしょうか」
「…………」
再び、長い沈黙が落ちる。
もしや気分を害す質問をしてしまったかと黎珠が思った矢先、
「うん、そう。桃が好きだから、主様が付けてくれたの」
とつとつとした口調で桃は告げる。
このやり取りを通し、黎珠は理解した。彼女はきっと類稀な、のんびり屋さんなのだ。
「そうなのですか。では、わたしとお揃いですね」
「…………そう? たまもおそろい、なんだ?」
「はい。実は、わたしにはもう一つ別の名がありまして、それを主──のような方にもらったんです」
「……そうなんだ。桃とおそろい、だね」
ほんのりと唇に笑みを浮かべ、頷く桃に少し嬉しくなる。
桃は桶を持ったまま足音もなく近寄ると、踵を持ち上げ、空いた手を黎珠に伸ばした。
「……たまはいい子、だね」
よしよし、とおもむろに頭を撫でられる。
なんだかこそばゆいが、決して不快ではない。桃からは夏楠や孝燕、李と話すときと同じ温かみを感じた。
気配もなく背後に立たれたときは少し驚いたが、彼女は悪人ではないのだろう。
「……じゃ、桃は水くむね」
「はい。また今度」
「……うん。またね」
笑顔で桃と別れる。
再会したときには、彼女の主について訊いてみよう、と黎珠は思った。
*
指定の水瓶に桶の水をあけ、一息つく。
──さて、このあとはどうするか。
北嶽は朝餉を取らないらしく、李には昼ごろ寝殿にくるよう言付かっている。だいぶ時間が余ってしまったが、さすがに今から二度寝をする気にはなれない。
(少し層雲宮──ではなく、斜陽宮を探索してみますか)
北嶽の寝殿は、夏楠の時代とは配置も造りも若干異なっている。黎珠が単独で立ち入れる場所は限られるが、できる範囲で調べてみよう。
要所で番につく龍兵に気を配りながら、斜陽宮を歩き回る。その警備は傍から見ても注意力散漫で、中には雑談している者すらいた。
今、黎珠が身に着けているのは官奴婢の衣装だが、この様子では元の衣服でも闊歩できそうな気がする。
(本当に、西嶽公は何故──)
やはり、疑問がぬぐえない。
北嶽が黎珠を放置する理由は、理解る。周囲の玄州龍がこの体たらくな上、彼は本物の龍討師を知らない。龍脈を突かなかった黎珠に対し、それが実力のすべてだと判断しているのだ。侮られても不思議ではない。
しかし、西嶽は違う。
あの言動から鑑みるに、彼は正確に龍討師というものを把握している。いくら敵意がないとは言え、西嶽が龍討師を野放しにする理由が理解らない。
その真意は、どこにあるのか。
(本当に、わからない。私がこの時代に飛んだ理由も、夏楠や孝燕殿の死の原因も、西嶽公の不可解な恩赦も──何もかも)
疑問だらけで、熱が出そうだ。
無い知恵を絞り、頭を抱えてうんうん唸りながら回廊を歩く。そうしているうち、黎珠は思いがけず見知った風景に出くわした。
──蓮池、だ。
層雲宮にあった、あの蓮池が広がっていた。
つい先日、眼にしたばかりの風景が、今は酷く懐かしい。たまらず駆け出し、池にかかる橋を渡ると、記憶に違わぬ見事な蓮の絨毯が広がっていた。
万感の思いで佇む。
すると、どこからか女性の話し声が耳に届いた。
「あら? どなたかそこにいらっしゃるの?」
柔和な声に相応しい、黒の袍衣を纏った龍女が、そこにはいた。




