21
半強制的に黎珠をあてがわれ、北嶽は荒れていた。
「あーくっそ、腹立つ! なんでおれが討師の子守なんか!」
大音響で不満を並べつつ、足早に宮中を闊歩する。すでに日は暮れ、黒衣の北嶽は夜景に溶けかかっている。しかも彼は長身だ。縛を解かれた黎珠は、小走りでその背中を追いかけた。
本当に枷を外されたときはどうかと思ったが、一応彼なりに警戒はしているようだ。こちらに背を見せても、臨戦態勢は解いていない。黎珠が襲う気配をちらとでも出せば、振り向きざまに真っ二つにされるだろう。
しかし、もう夜だ。開眼し、捨て身の一撃を放てば──慢心している北嶽を討つことは、恐らく可能だろうと黎珠は思う。
何せ、彼の龍脈は類を見ないほど強い。若く、極めて強い龍であるがゆえ、纏う金糸は多く、捉え易いのだ。
「しっかも色気のねぇ女! しかも莫迦! しかも短躯! こんなの従えてたら、官吏どもに足元見られんだろうが! ったく、わかってんのかよ、あの若作りがッ!」
あまりの不機嫌さに、すれ違う兵も官吏も北嶽に近寄れない。彼らも、主君が供も付けず姿を消したことを諫めたい気持ちはあるかもしれない。が、この剣幕だ。下手に話しかければ、誅殺されかねない。その反応も納得できる。
北嶽の臣下に同情しているうち、やがてひときわ見事な宮殿が見えてきた。層雲宮にあった夏楠の寝所に似ているが、屋根や柱に金細工を多用した造りが、歴史ある豪奢な寺院のような風格を醸している。蓮池に浮かぶ回廊を、精緻な透かし彫りの照明がどこまでも連なるさまは圧巻だ。
当世風な折衷様式だった層雲宮と比べると、斜陽宮はより伝統的な景観を重視しているらしい。これは建築に限った話ではなく、北嶽を筆頭に、すれ違う官吏や龍兵の衣装も皆、装飾過多のきらいがある。機能性ではなく、見目による権威を優先しているように黎珠には思えた。
「どけ!」
北嶽の怒気に圧され、寝所の門衛も及び腰で道を開ける。どすどすと通り過ぎる北嶽の後に続き、黎珠も軽く会釈して門を通過した。
北嶽に声をかけずらい気持ちはわかるが、ここであっさり不審者を通してしまうあたり、門衛として失格だ。昼間の龍兵もそうだが、洛邑の兵は総じて程度が低い。
(とはいえ、わたしもその恩恵を受けている身なので、あまり非難はできませんが……)
内心苦笑しつつ、延々と悪態をつく北嶽の後ろにくっついて歩く。最後に奥の間の扉を蹴り開くと、北嶽は寝所と思しき長椅子にふんぞり返った。
州公の寝間というだけあって、やはり室内も豪勢極まりない。家具は黄金に漆、螺鈿に錦と枚挙に暇がなかった。これに比べれば、夏楠は質素な暮らしぶりだ。
黎珠は両膝を折り、冷たい石床の上で正座した。
経緯はどうあれ、これ以降、黎珠は北嶽付きの官奴婢だ。頭が高くなってはいけない。
長椅子に寝そべっていた北嶽は、そこでようやく黎珠に気づいたように顔を顰めた。
「なんでお前が寝間にいんだよ。とっととおれの前から失せろ」
「よろしいのですか? わたしは一応、龍討師で……そんな気は毛頭ありませんが、突然殺戮を始めるやもしれませんし……」
「だったら今すぐ殺戮開始しろ。即行で頸を落としてやる」
心底どうでも良さそうに北嶽は頭を掻き、
「もう死ねよ、お前」
実に美麗に。なめらかに。
残酷な愉悦を口許に浮かべ、彼は告げた。
──ああ、その台詞は。
その容貌でだけは、聞きたくなかった。
歯を喰いしばる。泣いてはいけない。
込み上げるものを押し止め、力づくで噛み殺した。北嶽を見据え、震える声で明言する。
「承服しかねます。わたしはまだ死にたくありません。そんな意味も意義も見出せぬ主命に、命を捨てることはできません」
北嶽は無表情のまま、片眉を器用に跳ね上げる。
怯む心を叱咤し、黎珠は続けた。
「わたしは生きたい。この命尽きるまで、生きていたい。生きて、そしてもう一度お逢いしたい方がいるのです」
「誰に? 偽者にか? 頭の悪い女だな。お前はそいつに騙されたんだぞ?」
「それでもです」
「なら勝手に信じて、勝手に死ね。偽者がもとでお前が死にかけたのは事実だ。だいたい、龍の呼び方なんて、小童に真っ先に教え込むことだぞ? なんせ命にかかわるからな。そいつはよっぽど、お前のことがどうでも良かったんだろうよ」
返す言葉に詰まる。
あの夏楠が、そのようなことをするとは到底思えない。思えないが、だからといって傷付かないわけではない。それに黎珠には、夏楠に恨まれるだけのことをした自覚がある。
押し黙る黎珠に対し、北嶽は嬲るように唇を吊り上げた。
「あーいや。むしろ、わざと呼ばせたかったのかもな? 名呼びの処罰は臏刑だったか? 結局その程度の存在なんだよ、お前は」
臏刑は、罪人の足を切断する刑だ。
目頭と鼻先がかっと熱くなる。咄嗟に黎珠は顔を伏せたが、その拍子にぱたぱたと水滴が床に落ちた。
「泣くな、見苦しい。泣いてる女ほど、うぜぇもんねぇってのに」
「も、申し訳ございません」
「謝るくらいなら最初からすんな、莫迦女が」
そう言うと北嶽は立ち上がり、つかつかとこちらへ歩み寄った。腰をかがめ、至近距離から黎珠を見下ろし、命じる。
「いいか、女。西嶽の手前今回は生かしてやるが、二度はねえ。次、下手したらその場で斬る。死んでも龍の名は口にすんな」
「承知しました。肝に銘じます」
黎珠は両手を床につき、額を押し当て、深く叩頭した。最上位の拝礼である。
北嶽は舌を鳴らし、それ以上は言及せずに話を進めた。
「お前には見張りをつける。礼儀作法その他諸々、あとのことは全部そいつに教われ。万一、そいつに何かあってもお前を斬る」
「承知しました」
「おい! ……って、あいつに聞こえるわきゃねぇか」
乱暴な足取りで北嶽は奥の間へ姿を消す。と、すぐに小さな影を従えて彼は戻ってきた。雛鳥のように北嶽の背を追う子龍は、数刻前に路地で筆談したばかりの、あの少年だ。
「李君!」
「!」
名を呼んだ黎珠に気づくと、李もにこりと笑顔を返した。
北嶽の宮へ帰れる、と言っていたのでもしやと思ったが、彼も北嶽付きの龍だったのだ。
「なんだ、お前ら知り合いか?」
「はい。路地で道に迷っていたところ、お世話になりました」
「へぇー。良かったな、李。今からこの女はお前の子分だ。女も、おれの采配をありがたく思えよ。なんてったって、この李の下に付けるんだからな」
「はい! ありがとうございます、北嶽様!」
上機嫌の黎珠に北嶽は軽く眼を瞠ったが、すぐに表情を改めて踵を返した。
「ふん、まあいい。あとは全部こいつに訊け。じゃあな」
寝所を出て行く北嶽を、黎珠は額づいて見送る。今日は別の場所で夜を明かすようだ。間近に龍討師がいては熟睡もできないだろうから当然だが、黎珠を放逐せず、御自ら動くとは。
(あんなにお怒りだったのに、お気遣いいただいたのでしょうか?)
少し疑問に思ったが、とりあえず今は李と再会できた喜びに感謝しよう。
北嶽が立ち去ると、李は袖から墨壷を取り出した。手際よく帳面を片手に抱え、流麗な筆さばきで文字を綴る。
『改めて、どうぞよろしくお願いします』
「はい。どうぞよろしくお願いします、李君。わけあって本日から北嶽様にお仕えすることとなりました」
『おねえさんは人で、しかも女性なのに字が読めて、本当にすごいですよね。前に仕えていた龍の主様も、相当高位の方だったのでしょう?』
「は、はい」
多分、と心の中で付け足す。
情けないが、当時の夏楠が正確にどの地位に属していたか、黎珠は知らない。北嶽の尊父なのだから、同じ玄州公だとも思うのだが、今代の北嶽と比べると派手さに欠けるような気もする。単に、夏楠が華美を嫌っただけかもしれないが。
李の問いに曖昧に答えてから、黎珠は彼に要件を切り出した。
「さっそくで申し訳ないのですが、李君にはお訊きしたいことがありまして」
「?」
「実はわたし、玄州のとんでもない片田舎で育ちまして、それは酷い不調法者なのです。そこで是非、李君にこの国や、四嶽様について一からご教授いただきたく」
何はともあれ、まずは現状把握だ。
夏楠の存命中、少なくとも武邑はここまで荒廃していなかった。層雲宮の女官や龍兵にしても、稀にすれ違う程度ではあったが、斜陽宮ほど極端な選民意識はなかったと記憶している。夏楠没後の玄州がどうしてこのように変容してしまったのか、まずは早急に知るべきだ。
こんなことなら気が向いた書物を適当に読むのではなく、きちんと順序立てて知識を学んでおくべきだった後悔する。最初は孝燕に勧められた童話ばかり読んでいたこともあり、地理や歴史に関する自分の知識は貧弱だ。
『不調法、ですか? とてもそうは見えませんけど』
李は納得しかねるように筆を動かした。
『おねえさんは、すごく礼儀正しいとぼくは思います』
「北嶽様の御尊父の諱を、民衆の前で叫びました」
ずしゃ、と勢いよく筆が帳面を駆け抜け、はみ出た。
やはり相当驚いたらしい。
『あの、本当ですか?』
「正真正銘、真実の話です」
『それは、えっと、頸を刎ねられなくて良かったですね……』
「はい。それはもう本当に……」
神妙な面持ちで黎珠は頷いた。
本当に、こうして生きていること自体奇跡だ。
李は何とも言えない顔で苦笑し、紙面に眼を落としてから筆を走らせた。
『わかりました。まず、この国についてですが──尭国は大きく四つに分けられます。北の玄州、南の朱州、東の青州、西の白州。間にちょっとだけ天領がありますけど、基本的にはこの四州です』
ここまでは黎珠もすでに知っている。問題はここからだ。
『北嶽様は北方玄州を司る方、西嶽様は西方白州を司る方です。それぞれの州を、それぞれの州公が治めます。つまり四嶽様ですね』
「四嶽様が各州を治めるなら、主上は何をなさるのでしょう?」
『主上はみんなのまとめ役です。四嶽様がちゃんとお為事してるか見たり、悪い四嶽様には、四嶽様を辞めさせたりできます』
「それでは、主上が暴君だった場合はどうなるのでしょう? 誰も止められないのですか?」
『そのときは四嶽様三名の合意で、主上に退いていただくことができます。ただ、今の尭国は主上を筆頭に東嶽、南嶽公もいらっしゃらない状態ですけど』
黎珠の時代も、主上の座は空位だった。それは知っている。しかし、黎珠はそれより下について──東嶽、南嶽はおろか、自州の北嶽についてもまったくの無学だ。
何せ、当時は獄法山だけで世界が終結していた。北嶽の存在など知る必要もなく、完全に生活が成り立っていたのだ。天上のことなどより、山の麓の邑や邑長の方が大事だった。
「何故、主上は不在なのでしょうか? それに東嶽、南嶽公も」
『ぼくも生まれる前で、詳しくはわからないんですけど』
李は頼りなげに前置きすると、少し考えてから筆記を再開した。
『主上は数十年前に崩御されて、あとを継げる方がいないんです。主上と一緒に、天宝貝も消えてしまったから』
「なるほど。そうだったのですね」
『はい。それで東嶽公ですけど、こちらは二ヶ月ほど前に亡くなりました。誰かに暗殺されたみたいで、東嶽公の宝貝も盗まれて、青州は今すごく大変みたいです』
不穏な話だ。
東嶽暗殺と示し合わせたような、南嶽の不在も気になる。
「まさか、南嶽公も何者かに?」
『いえ、南嶽公はご病気です。もともとお身体の弱い方だったし、寿命で間違いないと思います。東嶽公が殺されたのは、南嶽公のご葬儀の帰りだったんです。東嶽公はすごい槍の名手だったから、龍討師の仕業じゃないかって、みんな噂してました』
これで合点がいった。東嶽や自分の命を狙ったのはお前か、と北嶽が黎珠に訊ねたのは、ここに端を発していたのだ。
「もしや、北嶽様もお命を狙われたことが?」
『はい、あります。北嶽様のときは毒で、そのときはたまたま食事を抜かれて助かったと聞いています』
「そうですか。ちなみに、西嶽公には何かあったのでしょうか?」
『西嶽公には今のところ何もないです。だから、次に狙われるのは西嶽公じゃないかって噂もあります』
主上、東嶽、南嶽、北嶽、と続けば偶然とは思えない。今後、西嶽にも何かしら害が起こる可能性が高い。となると、ますます黎珠を生かした理由が謎だ。このような状況下ではなおのこと、不安の芽は摘むべきだが。
色々と引っかかりはあるものの、まずは話を先に進めることにした。
「今、玄州はとても貧しいようですが。他州も同じなのですか?」
『いえ、ほかの州は玄州ほどじゃないです。西嶽公の白州は、とても豊かだし』
西嶽の名が登場し、ふと、彼はどのような目的で玄州を訪問したのだろうかと疑問が湧いた。州公が直々に訪れるのだ、それなりの理由があるに違いない。
「ところで、西嶽公は何のために玄州にいらしたのでしょう? 玄州への資金援助か何かでしょうか?」
『いいえ。確か、大規模な水路の建設のためにいらっしゃったと聞きました。そもそも、玄州が白州のほどこしを受けるなんてことは絶対ありません。玄州は貧しいのに、気位ばかり高くて、まわりを見下してるんです』
おや、と思う。気弱な李にしては珍しく、語気の強い文面だ。
黎珠が見守る先で、李はさらに筆を進める。
『玄州の龍は努力をしません。でも白州は違います。四州で一番劣悪な土地だったから、白州の龍たちはみんな努力しました。水が少なく、作物も育ちにくい土地で、必死で頑張ったんです。西嶽公も含めて、今の白州の高官は、そんな大変な時代を乗りきった方々です。だからほかのどんな州より、優れた官が多いんです。
ぼくは玄州龍ですけど、白州龍を尊敬しています。でも、こんなこと玄州龍に言うと、ぶたれたり蹴られたりするから。おねえさんは気をつけてくださいね』
それで彼は最初、路地で龍兵に絡まれていたのか。
黎珠は、西嶽がしきりに李を欲しがった理由を理解した。確かに西嶽は優れた州公だ。欠子などという些末なことに頓着せず、彼も李の才を見出したのだ。
「ご助言ありがとうございます。まだお若いのに、李君はしっかりとした考えをお持ちで素晴らしいですね」
『そんなことないです。ぼくは欠子で、役立たずで。褒められるようなことなんか、一個も』
「役立たずなものですか! 李君はとても優秀ですよ。物知りですし、字も達筆で、難しい言葉もよく知ってますし」
そう言うと、李はみるみる頬を赤らめて頭を下げた。その仕草が愛らしく、見ている黎珠の頬も緩んでしまう。
「李君のような優秀な龍がいるなら、玄州の未来もそう暗くないでしょうね」
『そうでしょうか』
李は一転、表情を沈ませて紙面に視線を落とした。
『玄州は見てのとおり、とても貧乏です。官吏には賄賂が横行して、贅沢な暮らしをしてるのは龍だけ。人は食べ物が足りずに、たくさんの方が亡くなっています。北嶽様は、そんな官吏たちを取り締まるには、まだお若いし』
「ときに、北嶽様の実齢はお幾つなのでしょう? それに西嶽公や、あの御付きの大柄な方も」
『大柄なのは雲将軍ですね。諱を雲翔様と言うので、雲将軍です。北嶽様は、御齢二十です。西嶽公は三百くらいで、雲将軍はまだお若いはずだから、四十くらいかと』
「やはり、北嶽様はお若いのですね」
自分とあまり変わらない。若いだろうと思っていたが、予感的中だ。
黎珠は層雲宮にいる間、夏楠に妻子の話を聞いたことはない。死んだ『黎珠』の子では、北嶽は年齢が合わない。黎珠がこの時代に飛ばされたのち、誰かと結ばれてできたのが北嶽なのだろう。そうなると、あれから経過した年月は少なくとも二十年以上で──……。
そこで黎珠は、はたと気づいた。
自分の頭の回転の悪さに、ほとほと嫌気がさす。何故、この考えに至らなかったのか。単純に、今年が何年か訊けば良いのだ、李に。
「あの! 今は黄無何年でしょうか?」
『オウム、とはなんでしょう? 今は天元三二年ですが』
「天元……」
元号が変わっている。ということは、少なくとも黎珠の時代から、三二年以上経過しているということだ。機会があれば、あとで黄無が何年で終わったのか調べてみよう。
「あの、李君」
さらに詳しく話を訊こうとした黎珠だが、李の大きな欠伸を見て取り、考えを改めた。
刻はもう夜更けだ。小童を起こしておくのは酷な時間だろう。
「色々とありがとうございました、李君。大変勉強になりました」
『そうですか。じゃあ、おねえさんの離れに案内しますね。こっちです』
時間はまだある。詳細については後日、おいおい確認しよう。
夜の宮中を李と肩を並べて歩きながら、黎珠もつられて大欠伸をした。




