03.毎日が必死だった
大学で出会い、友人から恋人になった。あの頃は毎日楽しくて、笑っていた。
卒業前、私は第一志望の企業から内定をもらっていた。将来の夢や、やりたい仕事など特になかったが、都心の大手企業でやりがいもありそうだし、これで将来も安泰かしらと一安心していたところ、彼に、両親が経営している会社を自分と一緒に手伝ってほしいと懇願された。
将来は自分が会社を引き継いで、今は片田舎の小さな会社だが、いずれは大きくするんだ、そのためにお前に支えてほしい、と。
「優菜は東京に残るだろ?俺は実家に戻んないとだし、遠距離は不安なんだよ。田舎でさ、都会育ちの優菜にはちょっと慣れないかもだけど、自然いっぱいでのんびりしててさ、いいとこなんだ。
会社から車で20分のとこに母方の親戚の家があってさ。今は誰も住んでないから、うちの会社に来てくれるんなら、そこに2人で住んだらどうかって、母さんが言っててさ。
俺は、ゆくゆくは優菜と、結婚したいって、思ってんだけど。」
両親、祖父母がすでに他界していて天涯孤独の身の私には、家族ができるという提案は、何にも代えがたい魅力におもえたのだ。
たくさん話し合った結果、ご両親へご挨拶にうかがい、婚約者兼彼の会社の事務員としてお世話になることに決まった。優しくこれからのことを説明してくれるご両親に、9年前に旅立ってしまった父と母を思い出した。
住居は、彼から聞いていたとおり、会社から20分ほど離れた場所にあった。しばらく誰も住んでいないから掃除だけは必要かもしれないとお義母さんが仰っていたが、訪れてみればどこも埃だらけで、このままではまともに生活できないと、あわてて二人で掃除をした。バタバタと家財を運び入れ、落ち着く頃には入社日の前日だった。
その会社は本当に小さな会社で、彼と彼のご両親を除いて従業員は6名。初出社の日、彼と一緒に家を出て、始業時間の30分前に会社に到着した。
「俺ら、社会人デビューだからって気合入りすぎじゃね? 」
「ね。遅れたらやだなって思って早めに出たけど、ちょっと早すぎたかも。」
彼の運転する車の中でクスクスと笑いあう。
でも、遅刻するよりはいいよね、と。
社内で少し時間をつぶし、指定の時間の10分前になって建物に入った。
「あんた!初日からトロトロしてなにやってんの!!」
建物に入って聞こえてきたのはお義母さんの怒鳴り声だった。
驚いた彼が「いや、まだ10分前だよ!母さん!」とフォローを入れてくれるが
「あなたはいいのよ、この子よ、この子!行く当てもない子を拾ってやったんだから1時間前には来て掃除くらいしなさいよね!気が利かない子だわ!」
なにか、連絡に行き違いがあったのだろうか。
どういうこと……?
私、拾われたの?
混乱している私に小さくごめん、母さんにはあとで話しておくからと呟いた彼は、申し訳なさそうな顔をしていたが、その後社内で、会話をする時間はなかった。
想像していた生活とはずいぶんかけ離れていた。
『のろま』『要領が悪い』『頭が悪い』『根暗』『世間知らず』
彼の両親からは様々な罵倒を受けた。
仕事は膨大な量で、毎日日が変わっても家に帰れず、休日出勤もザラだった。
なかなか家に帰れない私とは違い、彼は毎日定時で帰宅していた。
はじめは庇っていてくれた彼も、入社後2週間もすれば、気にも留めなくなった。
貴重な休日、彼と夕飯の準備をしようと一緒に台所に立っていたら、突然訪問してきたお義母さんに叱られた。
将来の夫に家事をさせるなんて、とのことだ。
リビングに正座をして、午前4時までお義母さんのお言葉を聞いていた。
彼は、ダイニングテーブルに座り、お義母さんが持ってきた夕飯を食べて、明日仕事が早いから、と10時には寝室へ行ってしまった。
それから、家事はすべて私の担当だ。
家にはシャワーを浴びに帰るくらいで、それ以外の時間は家事に追われた。
月に1度あるかないかの休日には、彼の実家に呼ばれ様々な用事を言いつけられた。
次第に私達は、会話の機会が減っていった。
同棲を始めて三ヶ月。
彼が浮気した。
明け方に帰宅した私が、彼が居ないことに気づき、電話をした。
『もしもし〜?まさくんは、お取り込み中でぇ〜す!キャハハハ!』
知らない女性の声だった。
『ちょ、それ俺のスマホだろ!返せって〜
ってか、誰からだよ!』
楽しそうな彼の声。酔っているようだった。
私は、咄嗟に通話を切ってしまった。
その後、彼が帰宅するのを待ち、少し話し合った。
「ごめん」
「お前が帰ってこないから寂しかった」
「知り合いの家で飲んでいただけで何もやましいことはしていない」
彼の言葉を信じることにした。
そこから今日、5回目の浮気だった。
まともに食事をする時間もなく、寝不足で朦朧とする頭でフラフラと帰宅した玄関先に、見知った靴が二組。
一つは彼のもの。
もう一つは、最近よくみかける真っ赤なハイヒール。
私達の2つ上の同僚。
山内美香のものだった。
なぜここに美香先輩の靴が……?
いや、まだ美香先輩と決まったわけじゃない。
跳ねる心音が耳元で大きく響く。
胸元を右手でキュッと握って心臓を宥める。
大丈夫、大丈夫、と小さく唱えながら階段を登り、光が漏れる寝室のドアをそっと開けた。
頭が真っ白になった。
「あれ?まじか。いつ帰ってきた?」
振り向いた裸の彼は、仰向けの美香先輩の上から降りて、片手で彼女にシーツを掛けながら何もなかったように私に話しかけた。
「なん……で……?」
回っていない頭でよくわからない言葉を口にした私に、起き上がった美香先輩が胸元をシーツでかくしながら言う。
「ゆなちゃん、ごめんねぇ〜
まさくん、寂しそうだったの。
ゆなちゃん、いーっつも疲れてそうな顔して、全然かまってあげてないみたいだからさぁ〜
まさくん、ゆなちゃんに愛されてないかも〜って、不安だったんだよ〜
だからぁ~、私が、慰めてあげなきゃ、って♡
まさくんには、私みたいな尽くす女のほうがいいと思うの♡」
違う、構ってないとかじゃない。
時間が、ないんだよ。
仕事、いっぱいでさ。
雅弘の分も、美香先輩の分も、私がしてるからさ。
2人が給湯室で楽しそうにお話してる間もさ。
家に帰っても、掃除も洗濯も、食事の準備もさ、しなきゃだからさ。
シャワーあびたらもう出勤の時間でさ。
ほかのみんなは定時通りの出勤時間でもさ、私、会社とその周辺の掃除もしなきゃだからさ。
1人で早く行かなきゃだからさ。
疲れてそうじゃなくてさ、疲れててさ。
ご飯食べる時間もなくてさ。
でも、一緒にいたくてさ。
だから頑張ってさ。
なのに、愛されていないなんて。
「私は────」
パンッッッ
耳元で大きな破裂音が響き、頬に熱い痛みが走った瞬間。
身体が浮いていた。




