第4-2話 帳簿にない荷物(2)
その日の午後、商人組合本館の空気は一変した。
王都監察局の紋章を付けた官吏が正面入口に立ち、護衛官と書記官が次々に入ってくる。帳簿や証文を保全するための封印箱も運び込まれた。
エリアスとヒルデガルドは監査官室から出ることを許されなかった。
「見に行ってはいけないんですか」
エリアスが尋ねた。
「駄目だ」
即答だった。
「どうして?」
監査官はエリアスを見る。
「地域学院の実習生を捜索現場へ連れて行く官庁があったら、私はその官庁から先に監査する」
ヒルデガルドが笑いを堪えた。
「何がおかしいの?」
「本当に行くつもりだったの?」
「少しは見たいでしょう」
「そういうところよ」
結局、二人にできることは待つことだけだった。
廊下を行き交う足音。開いては閉じる扉。遠くで誰かが声を荒らげるたび、ヒルデガルドは顔を上げた。
エリアスは初めのうち資料を読もうとしていたが、同じ行を三度読んだところで閉じた。
「落ち着かないね」
「今さら?」
「僕たちの考えが間違っていたら、大勢に迷惑がかかる」
ヒルデガルドは少し意外そうに彼を見る。
「自信ないの?」
「ないよ」
「……あれだけ言っておいて?」
「間違ってる可能性はいつでもあるでしょう」
彼女は黙った。
最初にこの少年を見た時、もっと自分の頭の良さを信じきった人間なのだと思っていた。
違うのかもしれない。
自分の考えを疑うから、確かめる。
「でも」
ヒルデガルドが言った。
「私は、合っていると思う」
エリアスが見る。
「人を見た感じ?」
「それもある」
少しだけ間を置く。
「あなたの数字も」
エリアスは笑った。
「ありがとう」
それだけだった。
ヒルデガルドは、なぜか少しだけ言ったことを後悔した。
*
夕方近く、年長の監査官が戻ってきた。
手には一冊の薄い帳面がある。
「見つかった」
二人が同時に立った。
「副組合長代理の執務室からだ。公式帳簿とは別の受渡控え」
机に置かれた帳面には、日付、品目、数量、金額、そして王都内の商人名が記されていた。
第七倉庫から南岸へ出たことになっていた八十二件のうち、六十七件が一致した。
エリアスは数字を追う。
ヒルデガルドは別のことを尋ねた。
「荷受け責任者は?」
「関与を認めた」
「倉庫長は?」
「現時点では、関与を示すものはない」
「荷役人は?」
「年長者は、正式ではない取引があることには気づいていたらしい。ただし金銭を受け取った記録はない。若い方は何も知らなかったようだ」
ヒルデガルドが小さく息を吐いた。
自分の見立てと、大きくは外れていなかった。
「副組合長代理が中心ですか」
「その可能性は高い。ただし、誰がどこまで関わっていたかはこれから調べる」
監査官は二人を見る。
「そして、ここからは完全に君たちの仕事ではない」
今度はエリアスも反論しなかった。
「はい」
「実習報告には今日までを書け。確認できた事実、そこから立てた仮説、仮説を検証するために何を確認したか。正式捜査で判明した内容は、監査側の記録として分ける」
二人が頷く。
監査官は少し間を置いた。
「よく見つけた」
エリアスとヒルデガルドは互いを見る。
どちらが先ともなく、少し笑った。
*
監査実習の最終日。
二週間前には整然としていた会計室の一角に、封印された帳簿箱が積まれていた。
不正の総額は、商人組合全体を揺るがすほど巨大ではなかった。むしろ、その程度だったからこそ長く続いた。
大商人なら誤差として見過ごす。
国家にとっても、一年だけなら小さな税収漏れに見える。
しかし、小さな仕組みは、見つからなければ続く。
最終講評で監査官はそう言った。
エリアスの実習評価には、数量関係の不自然さから現物流との照合へ進んだ点が記された。
ヒルデガルドには、聞き取り対象の回答と反応の差から確認対象を絞り込んだ点が記された。
そして二人に共通して、最も高く評価された項目があった。
確認した事実と、自分たちの推測を分けたこと。
この研修記録は、それぞれの地域学院へ送られる。
最終学年後半の成績、魔法実技、教官所見、その他の実習評価とともに、翌年の統学院推薦を判断する資料の一つになる。
二人とも、その結果をまだ知らなかった。
*
商人組合の正門を出る。
二週間ぶりに、もう明日はここへ来なくてよい。
大通りには荷馬車が行き交い、河港へ向かう商人や荷役人が絶えない。建物の間を抜けた風が、ヒルデガルドの銀色の髪を揺らした。
エリアスは眼鏡の位置を直す。
「風、強いね」
ヒルデガルドが見る。
「そこ?」
「何が?」
少し笑った。
この人は、本当にいつもこうなのかもしれない。
「フェルマー」
「何?」
「統学院、志望しているんでしょう?」
地域学院の最終学年は、もう後半へ入る。やがて卒業までの成績と実習評価が揃い、学院ごとに中央の統学院へ送る推薦候補が決まる。推薦を得ても入学が決まるわけではない。その先に、全国から集まる候補者の選抜がある。
二週間前なら、エリアスがそこへ来るかどうかなど、どうでもよかった。
今は違う。
もう一度、同じ課題をやってみたい。
そして、次は負けたくない。
「推薦が取れれば」
エリアスが答えた。
「取れれば?」
「僕、総合成績はそんなによくないから」
「どのくらい?」
少し考える。
順位そのものに、あまり関心がないらしい。
「この前ので、上から三十四パーセントくらいだったかな」
「三十四?」
ヒルデガルドは思わず聞き返した。
「うん」
しばらく言葉が出なかった。
全国公示される分野別課題では、何度も自分より上にいた。この二週間で、その能力も見た。
当然、総合成績も相応に高いと思っていた。
だが、上位三十四パーセント。
地域学院から統学院へ送れる推薦人数には限りがある。分野別の評価が加味されるとしても、安心できる順位ではない。
「だから、推薦されなければ仕方ないかなって」
「仕方なくないでしょう」
エリアスが瞬きをした。
「え?」
「専門課題で私に何度も勝っておいて、総合順位だけ見て勝手に終わらせないでくれる?」
「終わらせてないよ」
「同じよ」
「違うと思うけど」
「同じ」
少し強く言った。
自分でも、なぜここまで言うのか分からなかった。
「次は私が勝つつもりなの」
「次?」
「今回、構造を先に数字で示したのはあなたでしょう」
それは、少し悔しい事実だった。
「だから次は私が勝つ。相手が来なかったら困るの」
エリアスは考える。
「……それ、推薦を取りたい理由になる?」
「なるわよ」
「そうかな」
「なるの」
とうとうエリアスが笑った。
「じゃあ、推薦候補には入りたいって言っておく」
ヒルデガルドの眉が上がった。
「今まで言ってなかったの?」
「統学院は第一希望って書いたけど」
「なら最初からそう言いなさいよ」
「推薦するかどうかは学院が決めるでしょう」
「本当にそういうところよね」
それでも、少し満足した。
橋へ向かう分かれ道で、二人は足を止めた。
ここから先、行く方向は違う。
「じゃあ」
エリアスが軽く手を上げる。
「また。たぶん」
「そこは『また』だけでいいでしょう」
「じゃあ、また」
「ええ。また」
今度はヒルデガルドも笑った。
二人は反対方向へ歩き始める。
何歩か進んでから、ヒルデガルドは振り返りそうになった。
けれど、やめた。
どうせまた会う。
そう思うことにした。
河港の倉庫群の向こうには、春の空が大きく開けていた。薄い雲が風にほどけ、その隙間から午後の陽が川面へ落ちている。
水は眩しいほどに光り、行き交う河船の帆が、その中をゆっくりと進んでいた。
二週間ずっと帳簿と石壁ばかり見ていたせいだろうか。
空は、思っていたよりずっと高かった。
王国歴618年10月、二人が14歳の年だった。




