第2-2話 帳簿には書いてある(2)
「倉庫を見たいです」
しばらくして、エリアスが監査官へ告げた。
反対側では、ヒルデガルドも別の監査官に申し出ている。
「荷受け責任者と、もう一度話したいです」
二人の監査官が顔を見合わせた。
今回の実習生に許されているのは監査補助までである。正式な聴取権も、倉庫への強制検査権もない。
しかし、これは教育実習でもあった。学生が何を疑い、どの情報を根拠にし、次に何を確かめようとするか。その過程も評価される。
とりわけ最終学年の研修記録は、翌年の統学院推薦にも使われる。
年長の監査官が二人を呼んだ。
「フェルマー生。それから、アルトハウゼン生。こちらへ」
少女が振り返った。少年も帳簿からようやく顔を上げる。
初めて、二人の視線が合った。
ヒルデガルドの灰青色の瞳が、ほんの少し細くなる。
――フェルマー。
その名前を彼女は知っていた。
各地の地域学院では年に一度、分野別成績の上位十名が全国に公示される。総合順位は本人と所属学院にしか知らされないが、統学院への推薦を目指す学生にとって、分野別公示は嫌でも目に入る。
数量推論。交易構造分析。変則資料解析。
そうした課題になると、何度か見た名前だった。
自分の名前より上に。
エリアス・フェルマー。
大河の支流沿いにある、聞いたこともない河港町の学院。
一度なら偶然と思えた。二度目には気になった。三度目には、次こそはと思った。
そして、また負けた。
だから勝手に想像していた。もっと鋭そうな少年を。あるいは、いかにも秀才然として、周囲を寄せつけないような少年を。
――この人が?
思っていたより、ずっと普通だった。
少し癖のある濃茶色の髪。細い銀縁の眼鏡。顔立ちは穏やかで、どことなくぼんやりしている。
しかも、制服の上着に五つ並んだ釦のうち、上から三つ目だけが留まっていない。前後は留まっているのだから、暑くて開けているわけでもない。
単なる留め忘れだ。
ヒルデガルドの眉が、ごくわずかに寄った。
――私、この子に負けていたの?
少なくとも第一印象としては、とても納得できなかった。
監査官が二人を見る。
「二人とも、何か疑っているらしいな」
「はい」
ヒルデガルドが答え、エリアスは一拍遅れて頷いた。
「まずフェルマー生。なぜ倉庫を見たい?」
「数字がおかしいからです」
「具体的には?」
「帳簿同士は合っています。でも、今年だけ入荷と販売と在庫の動きが整いすぎています。実際の荷物が帳簿通りなら、僕の考えすぎです」
監査官は頷いた。
「アルトハウゼン生は?」
「荷受け責任者が、何かを隠していると思います」
「嘘をついた、ではないのか?」
「まだ、そこまでは分かりません」
監査官の眉がわずかに動いた。
ヒルデガルドは続ける。
「北部以外からの調達を尋ねた時だけ、質問に答えませんでした。『北部からは少ない』と、質問の範囲を限定して言い換えています」
「それだけか?」
「その直前まで右手で汗を拭いていました。でも質問した瞬間、手が止まりました。その後、私が言葉を確認すると、視線を外しています」
監査官が腕を組む。
「つまり?」
「北部からの入荷が少ないこと自体は、本当だと思います。でも、それ以外について話したくないことがある可能性があります」
エリアスが瞬きをした。
初めて、ヒルデガルドをまじまじと見る。
数秒後、ヒルデガルドの方が先に口を開いた。
「あなたも同じところを疑っているの?」
「たぶん」
「たぶん?」
「僕はまだ、何を隠しているのか分からないから」
「私も分からないわよ」
「でも、隠してるって」
「可能性があるって言ったの」
「ああ」
エリアスは素直に頷いた。
ヒルデガルドの口元が、ごくわずかに上がる。
見た目より慎重だ。それに、さっきの帳簿の説明も悪くない。
――少なくとも、名前だけの人ではなさそう。
「意外ね」
「何が?」
「別に」
ヒルデガルドは少しだけ満足した。
やはり、次は自分が勝ちたい。
その時だった。
エリアスが首を傾げる。
「……ところで、僕のこと知ってるの?」
「え?」
「さっきから、知ってるみたいだから」
ヒルデガルドは一度瞬きをした。
「ええ。名前は」
「どこかで会った?」
沈黙。
ヒルデガルドの眉が、また動いた。
「……アルトハウゼン」
「え?」
「私の名前。今、監査官がおっしゃったでしょう」
「ああ」
エリアスは素直に頷いた。
「ごめん。聞いてなかった」
ヒルデガルドは笑った。
礼法の教官なら満点をつけそうな、美しい笑顔だった。
「そう」
声だけが、少し低かった。
監査官が咳払いをする。
「……ともかく、二人とも違うものを見て、同じ案件を疑っているわけだな」
二人は監査官を見る。
一人は帳簿を見た。
一人は人を見た。
まだ、どちらも何が起きているのか知らない。
「はい」
二人の返事だけは、きれいに重なった。




