↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
王国を読む者たち 0 - 選ぶ先の道 -  作者: なみみか


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/13

第2-1話 帳簿には書いてある(1)


「何か見つけたか、フェルマー生」


「たぶん、嘘があります」


監査官の筆が止まった。


「どこに?」


「まだ分かりません」


「……どういう意味だ?」


少年は答えなかった。正確には、答えるための言葉を探していた。


細い銀縁の眼鏡を指で押し上げ、もう一度、帳簿に目を落とす。


王都河運商人組合の会計室には、古い紙と墨、それに少し湿った木材の匂いが満ちていた。石造りの一階だったが、床には厚い木板が張られている。大きな窓から春の陽が差し込み、外を荷馬車が通るたび、鉄輪が石畳を叩く音が響いた。


その向こうでは河港の荷役鐘が鳴っている。一度。少し間を置いて二度。大型河船の入渠を知らせる鐘だ。


エリアスは聞いていなかった。


目の前には三冊の大帳簿が開かれている。入荷、売上、倉庫残高。その脇では、掌ほどの記録精霊が半透明の身体を淡く光らせながら待っていた。


記録精霊にできるのは、指示された帳簿の頁を探し、めくり、押さえることくらいだ。書かれた数字の意味を理解するわけでも、不自然な数字を見つけてくれるわけでもない。


「三月の北部穀物」


エリアスが指示すると、記録精霊が帳簿をめくった。一枚通り過ぎる。


「戻って」


一枚戻る。


「そこ」


精霊が頁を押さえる。


エリアスは数字を追った。


北部からの麦の入荷は、前年より十一分の一ほど少ない。売上もほぼ同率で減り、倉庫在庫もそれに合わせて減少していた。


何もおかしくない。


豆類も同じ。乾燥果実も同じ。獣脂も同じ。どの品目も、入荷量が減れば売上が減り、それに応じて在庫も減っている。


きれいだった。だから、気持ちが悪い。


「帳簿の数字が合わないのか?」


監査官が尋ねた。


「合っています」


「計算が?」


「全部」


「なら、何がおかしい」


エリアスは少し考えた。


「全部合っているところです」


監査官が眉を寄せる。


「説明してみろ」


エリアスは三冊の帳簿を並べた。


「去年は、北部の麦が増えた月に、倉庫在庫はあまり増えていません」


「売れたからだろう」


「はい。でも売上が増えたのは、その次の月です」


指を移す。


「一昨年は逆です。入荷が減ったのに、売上はすぐには減っていない。在庫を出したからです」


「普通だな」


「はい。でも今年は違います」


入荷が九減れば、売上もほぼ九減る。入荷が五増えれば、在庫と売上もそれに見合って動く。


「ずっと、きれいなんです」


監査官は帳簿を覗き込んだ。


「それの何が悪い?」


「分かりません」


エリアスは素直に答えた。


監査官が呆れた顔をする。


「だから、嘘だと?」


「たぶん」


「根拠は?」


「商売って、こんなにきれいに動くものなんですか?」


今度は監査官が黙った。


     *


エリアスの実家は、エルヴァ王国の地方河港都市にある小さな商店だった。


荷が遅れる。客が急に増える。雨で野菜が傷む。祭りの日程がずれる。思ったより売れる。思ったより売れない。


父親が帳面を前に頭を抱えている姿を、幼い頃から見てきた。


数字というものは、もっと汚い。


少なくとも、彼の知っている商売はそうだった。


     *


会計室の反対側にいた別の実習生は、帳簿を見てはいなかった。商人組合の荷受け責任者から、入荷状況について聞き取りを行っていたためだ。


淡い銀色の髪を後ろでまとめた少女である。ヒルデガルド・フォン・アルトハウゼン。エリアスとは別の地域学院から、この実務研修に参加していた。


二人とも十四歳。地域学院の最終学年に在籍している。


翌年には、中央の統学院への進学者を決める推薦選考がある。筆記成績や魔法実技だけでなく、こうした実務研修での評価も推薦資料に加えられる。だからといって、研修中の学生に監査権限が与えられるわけではない。彼らの仕事は、あくまで官吏の補助だった。


ヒルデガルドは地域学院の濃紺の上衣に白い立襟を合わせ、革靴には泥一つない。学院ごとに細部は異なるが、官吏候補生としての制服様式には一定の共通性がある。何より目につくのは、その妙にまっすぐな背筋だった。


正面には、商人組合の荷受け責任者が座っている。四十代半ば。恰幅がよく、指には商人組合の認証環をはめていた。先ほどから何度も汗を拭いている。


「北部麦の入荷減少について、もう一度お願いします」


「先ほど申し上げた通りですよ。今年は上流域の雨が少なかった。荷が減れば、我々にもどうしようもありません」


「価格への影響は?」


「多少は。しかし、組合では長期契約もございますので」


「倉庫在庫は?」


「適切な範囲です」


ヒルデガルドは頷いた。


「北部以外からの調達は?」


ほんの一瞬、男の視線が彼女から外れた。


「ですから、今年は北部からの入荷が少なく――」


ヒルデガルドの表情が変わった。


「今、『北部からは』と仰いましたね」


男の右手が止まる。汗を拭いていた布が、膝の上に落ちた。


「……言葉の綾ですよ」


「そうですか」


ヒルデガルドは微笑んだ。


追及はしなかった。その代わり、手元の紙に短く何かを書き込む。


視線、右。発汗動作停止。質問への直接回答なし。


まだ、それだけだ。


相手の心が読めるわけではない。魔法を使わなくても、人は嘘をつく時に必ず決まった仕草をするわけでもない。一つの反応だけで結論を出せば、むしろ判断を誤る。


だからヒルデガルドは、ただ記録した。


エリアスは、そのやり取りを見ていなかった。相変わらず帳簿を睨んでいた。



挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。