第2-1話 帳簿には書いてある(1)
「何か見つけたか、フェルマー生」
「たぶん、嘘があります」
監査官の筆が止まった。
「どこに?」
「まだ分かりません」
「……どういう意味だ?」
少年は答えなかった。正確には、答えるための言葉を探していた。
細い銀縁の眼鏡を指で押し上げ、もう一度、帳簿に目を落とす。
王都河運商人組合の会計室には、古い紙と墨、それに少し湿った木材の匂いが満ちていた。石造りの一階だったが、床には厚い木板が張られている。大きな窓から春の陽が差し込み、外を荷馬車が通るたび、鉄輪が石畳を叩く音が響いた。
その向こうでは河港の荷役鐘が鳴っている。一度。少し間を置いて二度。大型河船の入渠を知らせる鐘だ。
エリアスは聞いていなかった。
目の前には三冊の大帳簿が開かれている。入荷、売上、倉庫残高。その脇では、掌ほどの記録精霊が半透明の身体を淡く光らせながら待っていた。
記録精霊にできるのは、指示された帳簿の頁を探し、めくり、押さえることくらいだ。書かれた数字の意味を理解するわけでも、不自然な数字を見つけてくれるわけでもない。
「三月の北部穀物」
エリアスが指示すると、記録精霊が帳簿をめくった。一枚通り過ぎる。
「戻って」
一枚戻る。
「そこ」
精霊が頁を押さえる。
エリアスは数字を追った。
北部からの麦の入荷は、前年より十一分の一ほど少ない。売上もほぼ同率で減り、倉庫在庫もそれに合わせて減少していた。
何もおかしくない。
豆類も同じ。乾燥果実も同じ。獣脂も同じ。どの品目も、入荷量が減れば売上が減り、それに応じて在庫も減っている。
きれいだった。だから、気持ちが悪い。
「帳簿の数字が合わないのか?」
監査官が尋ねた。
「合っています」
「計算が?」
「全部」
「なら、何がおかしい」
エリアスは少し考えた。
「全部合っているところです」
監査官が眉を寄せる。
「説明してみろ」
エリアスは三冊の帳簿を並べた。
「去年は、北部の麦が増えた月に、倉庫在庫はあまり増えていません」
「売れたからだろう」
「はい。でも売上が増えたのは、その次の月です」
指を移す。
「一昨年は逆です。入荷が減ったのに、売上はすぐには減っていない。在庫を出したからです」
「普通だな」
「はい。でも今年は違います」
入荷が九減れば、売上もほぼ九減る。入荷が五増えれば、在庫と売上もそれに見合って動く。
「ずっと、きれいなんです」
監査官は帳簿を覗き込んだ。
「それの何が悪い?」
「分かりません」
エリアスは素直に答えた。
監査官が呆れた顔をする。
「だから、嘘だと?」
「たぶん」
「根拠は?」
「商売って、こんなにきれいに動くものなんですか?」
今度は監査官が黙った。
*
エリアスの実家は、エルヴァ王国の地方河港都市にある小さな商店だった。
荷が遅れる。客が急に増える。雨で野菜が傷む。祭りの日程がずれる。思ったより売れる。思ったより売れない。
父親が帳面を前に頭を抱えている姿を、幼い頃から見てきた。
数字というものは、もっと汚い。
少なくとも、彼の知っている商売はそうだった。
*
会計室の反対側にいた別の実習生は、帳簿を見てはいなかった。商人組合の荷受け責任者から、入荷状況について聞き取りを行っていたためだ。
淡い銀色の髪を後ろでまとめた少女である。ヒルデガルド・フォン・アルトハウゼン。エリアスとは別の地域学院から、この実務研修に参加していた。
二人とも十四歳。地域学院の最終学年に在籍している。
翌年には、中央の統学院への進学者を決める推薦選考がある。筆記成績や魔法実技だけでなく、こうした実務研修での評価も推薦資料に加えられる。だからといって、研修中の学生に監査権限が与えられるわけではない。彼らの仕事は、あくまで官吏の補助だった。
ヒルデガルドは地域学院の濃紺の上衣に白い立襟を合わせ、革靴には泥一つない。学院ごとに細部は異なるが、官吏候補生としての制服様式には一定の共通性がある。何より目につくのは、その妙にまっすぐな背筋だった。
正面には、商人組合の荷受け責任者が座っている。四十代半ば。恰幅がよく、指には商人組合の認証環をはめていた。先ほどから何度も汗を拭いている。
「北部麦の入荷減少について、もう一度お願いします」
「先ほど申し上げた通りですよ。今年は上流域の雨が少なかった。荷が減れば、我々にもどうしようもありません」
「価格への影響は?」
「多少は。しかし、組合では長期契約もございますので」
「倉庫在庫は?」
「適切な範囲です」
ヒルデガルドは頷いた。
「北部以外からの調達は?」
ほんの一瞬、男の視線が彼女から外れた。
「ですから、今年は北部からの入荷が少なく――」
ヒルデガルドの表情が変わった。
「今、『北部からは』と仰いましたね」
男の右手が止まる。汗を拭いていた布が、膝の上に落ちた。
「……言葉の綾ですよ」
「そうですか」
ヒルデガルドは微笑んだ。
追及はしなかった。その代わり、手元の紙に短く何かを書き込む。
視線、右。発汗動作停止。質問への直接回答なし。
まだ、それだけだ。
相手の心が読めるわけではない。魔法を使わなくても、人は嘘をつく時に必ず決まった仕草をするわけでもない。一つの反応だけで結論を出せば、むしろ判断を誤る。
だからヒルデガルドは、ただ記録した。
エリアスは、そのやり取りを見ていなかった。相変わらず帳簿を睨んでいた。




