第5-3話 名前の載る場所(3)
夏の終わり。
地方学院から、エリアスの推薦書が中央へ送られた。
交易構造分析、全国一位。
数量推論、上位入賞。
監査実習、高評価。
総合順位、地方学院生中上位三十四・一パーセント。
魔法適性、平均域。
身体教練、平均域。
礼法。
やや難あり。
担任は最後の項目を見て、少し考えた。
書き直さなかった。
*
秋。
中央選抜が行われた。
エリアスにとって、楽な試験ではなかった。
専門課題なら戦えた。資料を渡され、物流の異常を探せと言われれば、むしろ楽しかった。
だが、魔法実技では目立たない。
身体教練でも目立たない。
礼法では、一度、試験官に注意された。
そして面接。
「統学院への入学を希望する理由を述べなさい」
エリアスは答えた。
「学びたいからです」
「何を?」
「統計と物流。それから、行政です」
「卒業後には十年間の服務義務がある」
「承知しています」
「国家に奉職したいから入学するのではないのか?」
エリアスは少し考えた。
「今は、そう言い切れません」
試験官の筆が止まった。
「では、なぜ服務誓約を結ぶ?」
「国費で四年間学ぶなら、その条件として十年間働くことは受け入れます」
「義務だから働く?」
「今は、それも理由です」
試験官が顔を上げた。
エリアスは続けた。
「でも、第七倉庫の監査実習で、自分が見つけるだけでは何も終わらないことも知りました」
「というと?」
「僕には帳簿を見ることしかできませんでした。記録を押さえて、別の官署へ照会して、証拠を取ったのは監察官です」
少し考える。
「知っているだけではできない仕事があるんだと思います」
試験官は黙っている。
「それを自分の仕事にしたいのかは、まだ分かりません」
「四年間で分かると?」
「分からないかもしれません」
エリアスは正直に答えた。
「でも四年間学んだ後にも、十年間働く理由が『誓約したから』しか残っていなかったら、たぶん僕は統学院に向いていなかったんだと思います」
試験官は何も言わなかった。
ただ、何かを書いた。
エリアスには、それが良かったのか悪かったのか分からなかった。
第二の壁は。
まだ目の前にあった。
*
晩秋。
河港を渡る風が冷たくなり始めた頃。
フェルマー家に、一通の封書が届いた。
店先で乾燥豆の袋を積んでいた父が、配達官から受け取る。
厚い紙。
赤い封蝋。
王冠と、交差する羽根筆と剣。
父はしばらく封書を見ていた。
それから店の奥へ顔を出す。
「エリアス」
「何?」
「来たぞ」
エリアスは手を止めた。
封書を見る。
母まで奥から出てくる。
「開けなさい」
「今?」
「今」
封を切る。
中には数枚の公文書が入っていた。
エリアスは最初の一枚を読む。
もう一度読む。
「どうだった?」
父が聞く。
「受かった」
「本当に?」
「たぶん」
母が紙を取り上げた。
「『入学資格を認める』と書いてあるでしょう!」
「じゃあ本当だね」
「お前は自分の合格くらい自分で確認しろ」
父はそう言いながら、二枚目を手に取った。
そこで表情が変わった。
服務誓約書。
入学意思確認書。
保護者連署欄。
エリアスも笑うのをやめた。
合格した。
第二の壁は越えた。
だが。
これに署名すれば、その先には四年間の教育と、卒業後十年間の国家服務がある。
父が椅子へ座った。
「さて」
エリアスも向かいに座る。
母が二人を見る。
推薦前とは違う。
今度は、本当に決める時だった。
*
三人で、もう一度書類を読んだ。
父は細かかった。
「任官先は選べないのか」
「希望は出せる」
「希望職種も?」
「出せる」
「勤務地は?」
「それも。ただし、全部希望だって」
「最終的には国が決める」
「うん」
「国は、お前を必ず雇う」
「正規公職に任用する義務がある」
「十年間ずっと同じところではない」
「王国に対する服務だから、異動しても数えられる」
父は一つずつ確認した。
エリアスも一つずつ答えた。
「辞めれば?」
「教育費を返す。任官拒否なら、正規公職資格も失う」
「病気や怪我は?」
「公的な審査で働けないと認められれば免責」
父は最後まで読んだ。
そして書類を置いた。
「エリアス」
「うん」
「行きたいか」
今度は、前より早く答えられた。
「行きたい」
「十年は?」
エリアスは少しだけ迷った。
「約束するなら、働く」
「官吏になりたいか」
そこだけは、まだ答えが変わらなかった。
「……それは、まだ分からない」
父はしばらく息子を見ていた。
やがて頷いた。
「なら、それでいい」
エリアスが少し驚く。
「いいの?」
「分からないことを、分かったふりして署名される方が困る」
父は服務誓約書を指した。
「ただし、署名した後で『そんなつもりじゃなかった』はなしだ」
「うん」
「国がお前との約束を守る限り、お前も国との約束を守れ」
エリアスは頷いた。
「分かった」
父はペンを取った。
だが、すぐには書かなかった。
「最後に聞く」
「うん」
「店はどうする」
エリアスは父を見る。
一番避けたかった問いだった。
「父さんに任せることになる」
「そうだな」
「ごめん」
「謝るな」
父は言った。
「お前が店を継ぐと決めていたなら、俺もそのつもりでいた。違う道へ行くなら、違うようにする」
少しだけ笑う。
「商売ってのは、そんなにきれいに予定通り動かん」
エリアスが顔を上げた。
どこかで聞いたような話だった。
父は保護者連署欄へ署名した。
その横で。
エリアスも、自分の名前を書いた。
エリアス・フェルマー。
第三の壁は。
まだ完全には越えていない。
国家に仕えることを、自分自身の仕事として選べるか。
その答えは、これから探す。
ただ。
国家との約束を引き受ける覚悟だけは、この日に決めた。
*
冬が過ぎた。
地域学院で最後の試験を受けた。
卒業証書を受け取った。
店では、父が以前より少し忙しそうになった。
エリアスがいなくなることを前提に、仕事の分担を変え始めたからだった。
*
そして春。
十六歳の年。
一艘の旅客河船が、エリアスを乗せて故郷の船着場を離れた。
岸には父と母がいた。
店の者たちもいる。
エリアスは船縁から手を上げた。
父も上げた。
母は、いつまでも振っていた。
船が岸を離れる。
見慣れた倉庫が小さくなる。
店の屋根も。
学院の塔も。
やがて町そのものが、川の曲がり角の向こうへ消えていった。
エリアスは眼鏡を押し上げた。
これから四年間。
その後、十年間。
十四年という時間は、十六歳の少年にはまだうまく想像できなかった。
それでも。
地域学院へ入った十二歳の時とは違う。
今回は、自分で選んだ。
自分で署名した。
川の先にあるのは、王都。
そして、王立統学院。
そこで何を学びたいのかは、分かっている。
何になるのかは。
まだ、分からなかった。
王国歴620年3月。




