第5-2話 名前の載る場所(2)
その日の夕方。
エリアスは家の帳場に座っていた。
父は向かい側にいる。母も店を閉める手を止めていた。
「それで」
父が言った。
「中央の学校へ推薦したい、と先生が言ったのか」
「うん」
「受かるのか?」
「分からない」
「分からない?」
「推薦された後に、中央で選抜されるから」
父が腕を組んだ。
「何人くらい入れる」
「一年で千百人くらい」
「全国で?」
「うん」
父の眉間に皺が寄った。
「お前、そんなに成績がいいのか?」
「総合は、地方学院生の上から三十四・一パーセント」
父が黙った。
母も黙った。
「……それで千百人に入れるの?」
母が聞いた。
「普通なら難しいと思う」
「じゃあ、なぜ推薦される」
「一部の課題の成績と、この前の監査実習が評価されたみたい」
父はしばらく息子を見ていた。
「行きたいのか?」
エリアスはすぐには答えなかった。
行きたい。
そう言えば簡単だった。
けれど、統学院へ行くというのは、四年間学校へ通うというだけの話ではない。
「行けるなら、行ってみたい」
「何年だ」
「四年」
「学費は?」
「国が出す。寮も食事も、基本的には」
「ずいぶんいい話だな」
父が言った。
エリアスは首を振った。
「その代わりがある」
父の目が変わった。
「卒業後、十年間の服務義務がある」
「十年?」
「うん」
「役人としてか?」
「王国の公務。僕なら官吏になる可能性が高いと思う」
父は指を折った。
「四年行って、その後十年」
「うん」
「十四年か」
エリアスは頷いた。
「少なくとも」
店の中が静かになった。
外では、荷車の車輪が通りを転がっていく。
父は帳場を見る。
壁の棚。積まれた帳面。奥の倉庫。祖父の代から使っている秤。
そして、息子を見る。
「つまり、お前を店の跡取りとしては当てにできなくなるかもしれん、ということだな」
エリアスは少し迷った。
だが、ここを曖昧にするのは違うと思った。
「そうなると思う」
「十年終われば戻れるんでしょう?」
母が言った。
「戻ることはできるよ」
「なら――」
「でも、その頃には三十歳くらいになってる」
エリアスは言った。
「どこへ配属されるかも分からないし、そのまま官吏を続けるかもしれない」
父が黙っている。
「それに、入学するなら服務誓約書に署名する」
「誓約書?」
「僕が署名して、父さんか母さんにも連署してもらう」
父の表情が硬くなった。
「俺たちにも?」
「僕が約束することを確認するため。それと、途中で正当な理由なく辞めた時の教育費について」
「辞められないのか?」
「辞めること自体はできる」
エリアスは、学院で説明された内容を思い出しながら話した。
「でも、卒業して任官を拒否したら、国が出した教育費を返さないといけない。正規の官吏や士官になる資格も失う」
「いくらだ」
「分からない。でも、普通の家が簡単に払える額じゃないと思う」
父は乾いた笑いを漏らした。
「ずいぶんいい話じゃなくなったな」
「うん」
「十年の途中で辞めたら?」
「残った期間とか、それまでの勤務によって返す額が決まる」
「病気になったら?」
「公的に働けないと認められたら免除。公務で怪我をした場合も」
父は少し考えた。
「国の都合で、お前の仕事がなくなったら?」
「それはない」
「ない?」
「卒業したら、国にも僕を正規の公職に任用する義務がある」
今度は父が少し驚いた。
「国にも義務があるのか」
「うん。給料も身分も保障される。配属の希望も出せる」
「希望通りになる?」
「それは保証されない」
「なるほど」
父は腕を組み直した。
「お前だけが縛られる契約ではないわけか」
「そうみたい」
父はしばらく黙っていた。
やがて聞いた。
「それで、お前は役人になりたいのか?」
ここだった。
エリアスは答えられなかった。
統学院では学びたい。
もっと大きな河川を見たい。
物流も、統計も、行政も知りたい。
第七倉庫で、自分一人ではできなかったことも覚えている。
帳簿の異常を見つけることはできた。
だが、記録を保全し、照会を出し、証拠を押さえたのは監察官だった。
知識だけでは動かせないものがある。
公的な権限があるからできることもある。
それには興味があった。
けれど。
「……まだ、分からない」
父の眉が動いた。
エリアスは続けた。
「統学院には行ってみたい。そこで勉強したい。でも、官吏としてずっと働きたいかと聞かれたら、まだ分からない」
「それで十年の約束をするのか」
「そこは考えてる」
「考えてる?」
「国のお金で四年間学んで、卒業したら十年働く。それを約束して入るなら、十年働くこと自体は受け入れる」
父は黙って聞いている。
「でも、義務だから十年働くのと、自分で官吏を仕事として選ぶのは、少し違うと思う」
父の表情がわずかに変わった。
「その答えを、四年間で探したい」
しばらく誰も話さなかった。
やがて父が長く息を吐いた。
「面倒な学校だな」
「僕もそう思う」
「そこは否定しろ」
母が少し笑った。
張り詰めていた空気が、ほんの少し緩んだ。
父は椅子の背にもたれた。
「推薦はいつまでだ」
「来週」
「なら、出してもらえ」
エリアスが顔を上げた。
「いいの?」
「推薦されただけで十年取られるわけじゃないんだろう」
「うん」
「なら、まず受けろ」
父はそこで一度言葉を切った。
「ただし、受かったらもう一度話す」
「服務誓約の前に?」
「当たり前だ」
父は帳場の奥へ目をやった。
「その時は、店のことも、お前の将来も、全部込みで決める」
エリアスは頷いた。
「分かった」
第一の壁は、まだ完全になくなったわけではなかった。
ただ。
越えるための道は、できた。
*
同じ頃。
王都第一学院では、ヒルデガルドが進路担当教官と向かい合っていた。
「総合成績は十分です。実習評価にも問題ありません」
「はい」
「統学院への推薦を出します」
「ありがとうございます」
彼女にとって、それは予想の範囲内だった。
アルトハウゼン家にとって、統学院への進学とその後の国家服務は珍しい進路ではない。
兄たちも官署にいる。
貴族だから服務義務を免れるわけでもない。
むしろ、国家に仕えることは家の名誉の一部だった。
だから、彼女が確認したかったことは別にある。
「地方学院からの専門推薦は、もう決まっていますか?」
教官が顔を上げた。
「他校の?」
「はい」
「それをあなたが知る必要がありますか?」
「ありません」
きっぱり答えた。
教官が片眉を上げる。
「では、なぜ聞くのです?」
「少し気になっただけです」
「誰が?」
「別に、誰というわけでは」
今度は少し答えが遅れた。
教官はそれ以上聞かなかった。
「他校の推薦状況は教えられません。選抜を通れば、いずれ分かります」
「……そうですか」
それで話は終った。




