9 お約束シーン
一瞬の浮遊感が消え、足の裏に固い床の感触が戻ってきた。
「着いたぞ」
目を開けると、見慣れた我が家のリビングだった。ソファにテーブル、壁際にはテレビ。窓の向こうに見えるのも、異世界の城壁ではなく東京の街並みだ。
俺にはいつもの部屋でしかないが、腕につかまっていた二人は固まっていた。
エレオノーラは部屋を見渡し、セラフィナは警戒するように窓や扉へ目を向けている。
「ここが……ニホンなのですか?」
「ああ。正確には俺の家だけど」
「お屋敷……」
「いや、普通の家だよ」
エレオノーラが天井を見上げた。
「あの光は、魔道具でしょうか?」
「電気で光ってる。魔法じゃないんだけど……説明は難しいな」
電子がどうとか言い始めても、俺自身、正確に説明できる自信がない。とりあえずスイッチを押すと照明が消え、もう一度押すと点いた。
二人が揃って天井を見た。
セラフィナが近づき、俺の顔を見てからスイッチを指さす。頷いてみせると、恐る恐る押した。
消して、点けて、もう一度消す。
「そんなに繰り返さなくても、壊れないから」
彼女はようやく手を止めたが、その目は子供のように輝いていた。
今度はエレオノーラが、エアコンから出る風へ気づいた。
「こちらも、デンキですか?」
「そう。部屋を涼しくしたり、暖かくしたりする」
「火を焚かずに?」
「うん」
彼女はしばらく天井を見上げていた。
蛇口をひねれば水が出る。部屋はスイッチ一つで明るくなり、暑ければ冷やせる。俺には当たり前でも、初めて見る二人には、魔法と変わらないのかもしれない。
「少しずつ説明するよ。まずは座って――」
何気なくテレビの電源を入れた。
『続いて、今日の天気です――』
声が流れた瞬間、セラフィナが動いた。
腰の剣を抜き、エレオノーラの前へ出る。
「ちょ、待っ――!」
剣が振り下ろされ、液晶画面が嫌な音を立てた。
「テレビ! 俺のテレビ!」
画面に亀裂が走り、映像が乱れて消える。セラフィナは剣を構えたまま、なおもテレビを睨んでいた。
「敵じゃない! 映像と声を出す道具だから!」
彼女は動きを止め、壊れた画面と俺を見比べた。ようやく意味がわかったらしく、見る見る顔色が変わる。
俺はまず剣を下ろしてもらい、テレビの電源を切ってコンセントを抜いた。破片には触らないよう二人を離れた場所へ移し、惨状を眺める。
どう見ても、買い替えだった。
セラフィナが深々と頭を下げた。
「……知らなかったんだから、仕方ないけどさ。次からは、まず俺に聞いてくれ」
「突然、見知らぬ方の声が聞こえましたから。わたくしも驚きました」
エレオノーラが彼女を庇った。
「驚くのはわかる。でも、斬る前に一回待ってほしい」
セラフィナはしょんぼりと頷いた。剣は鞘ごと預かり、あとで返すと伝えて収納へしまう。
「日本に来て、十分もしないうちに家電が一個死んだぞ……」
「カデン?」
「それも、あとで説明する」
* * *
冷蔵庫を開ければ冷気に驚き、冷凍庫の氷を見れば目を丸くする。蛇口からお湯が出ると知ったときには、エレオノーラがしばらく黙っていた。
「この世界では、普通のお家にもあるのですか?」
「だいたいは」
「……王宮より便利です」
セラフィナは新しいものが出てくるたび、まず俺を見た。何か聞きたいのか、危険がないか確かめたいのか、表情である程度わかる。
「もう、何も斬らないでくれよ」
念を押すと、気まずそうに頷いた。
ひととおり説明を済ませ、二人へ風呂を使ってもらうことにした。ただ、その前に着替えが必要だ。
剣には触らず家で待っていてくれと伝え、近所の店で、ゆったりした部屋着と最低限の着替えを買ってきた。細かいサイズや好みは、明日、本人たちと確かめればいい。
湯船より先にシャワーを使ってもらい、温度は熱くしすぎないよう説明する。火傷の痕があるところは、こすったり無理に洗ったりせず、痛ければやめてくれと頼んだ。
「これが身体を洗うもの。こっちは髪で、そのあとにつけるのがこれ」
三本のボトルを指すと、二人は真剣に頷いた。
「わからなかったら、エレオノーラが呼んでくれ」
俺が浴室を出たあと、しばらくしてシャワーの音が聞こえた。
「きゃっ!」
「どうした!?」
「大丈夫です! セラフィナが、急にお湯を出しただけですから!」
笑い声が続き、俺は立ち上がりかけた腰を下ろした。
壊れたテレビは何も映さず、部屋が静かなぶん、浴室の声がよく聞こえる。
「そちらは身体を洗うものですよ。髪はこちらです。……違います、そちらではなくて」
どうやら、説明しただけでは覚えきれなかったらしい。
スマホを眺めていると、今度は少し落ち着いた声がした。
「こんな綺麗なお湯を、好きなだけ使えるのですね」
セラフィナが何か身振りで答えたのだろう。エレオノーラが小さく笑った。
「ええ。タケシ様には感謝しなければ」
自分の名前が出て、つい意識が向いた。
「ただ、タケシ様も男性なのですから、あまり無防備にしてはいけませんよ。……わたくしも気をつけますから」
何の話だ。
「昨日から、あなたもタケシ様のことを気にしているでしょう?」
聞こえてしまうのが気まずくなり、俺は台所へ移動した。それでも笑い声が届き、扉の向こうに二人がいることを、妙に意識してしまう。
「……四十四にもなって、何考えてんだ」
水でも飲もうと冷蔵庫を開けた。顔に当たる冷気が、やけに気持ちよかった。
* * *
風呂から上がった二人は、見違えるほどさっぱりしていた。
白銀の髪は洗って艶を取り戻し、セラフィナも浴室を指さして親指を立てている。
「気に入ったならよかった」
「タケシ様、お顔が赤くありませんか?」
「気のせいだよ」
エレオノーラは首を傾げたが、セラフィナは俺を見て、にやりと笑った。
「お前は、何に気づいた顔してるんだ」
彼女は知らん顔をして、タオルで髪を拭き始めた。
夕方になると、二人とも少し疲れが見えた。昨日まで奴隷だったのに、今日は別の世界へ来て、見たことのないものに囲まれている。疲れるのも当然だ。
それでも、俺が冷蔵庫を覗いて夕飯を考えていると、セラフィナが隣へ来た。自分を指さし、包丁を使う仕草をする。
「料理できるのか?」
力強く頷いた。
「じゃあ、無理のないところで手伝ってくれ」
鶏肉と野菜の炒め物に、味噌汁。米は炊飯器へ任せた。
セラフィナは道具の使い方こそ確かめたが、包丁を持つと手慣れていた。俺が玉ねぎを切る間に、人参とキャベツが揃っていく。
「上手いじゃん」
褒めると胸を張った。すぐ調子に乗るなと笑えば、軽く肩を叩かれる。
フライパンを指せば持ってきてくれるし、調味料を指さして首を傾げれば、俺が説明する。声はなくても、作業には案外困らなかった。
「お二人とも、息が合っていますね」
椅子に座っていたエレオノーラが笑った。セラフィナが何か身振りで返すと、彼女は少し拗ねた顔になる。
「わたくしは、料理ができませんから」
「これから覚えればいいよ。今日は疲れてるだろうし、座っていてくれ」
料理を並べると、二人は一つずつ興味深そうに味わった。
白いご飯は特に気に入ったらしい。セラフィナは茶碗を覗いてから、すぐにおかわりを求めた。味噌汁も、最初こそ匂いを確かめていたが、飲み始めると箸の合間に何度も口へ運んでいた。
「お口に合います。とても」
「よかった。セラフィナも……聞くまでもないな」
すでに二杯目を食べていた。
* * *
夕食を終えるころには、二人とも眠そうになっていた。
別の部屋へ布団を敷き、寝る場所を案内する。エレオノーラは礼を言おうとしたが、大きなあくびが先に出た。セラフィナも布団へ入ると、こちらへ手を振ったきり動かなくなる。
「おやすみ」
返事はなく、ほどなく二人の寝息が聞こえた。
照明を消してリビングへ戻ると、真ん中を叩き割られたテレビが目に入った。
明日は外へ連れていく。車も電車も、自動販売機も、二人には知らないものばかりだ。
出かける前に、一つだけ念を押しておかなければならない。
「日本では、知らないものを見ても斬らないこと……だな」
俺は画面の亀裂を眺め、深いため息をついた。




