2-8ローデリック
忍者体験の動画を公開してから数日後、俺たちはいつものようにアドリアノープルの市場通りで屋台の準備をしていた。
「タケシ様、次は本物の忍者に会ってみたいのですが、どちらへ行けば会えるのでしょうか?」
カレーパンを並べていたセラフィナに尋ねられ、俺は鍋の底からカレーを混ぜながら答えた。
「今の日本に、昔と同じ仕事をしている忍者がいるわけじゃないからな。会いに行くなら、この前みたいな施設になると思うぞ」
「では、あの方たちも忍者ではなかったのですか? 壁を駆け上がったり、高いところから飛び降りたりしておりましたのに」
「ああいう動きを練習して、見せてくれている人たちだよ。昔の忍者が実際に何をしていたかとは、また別の話なんだ」
「なるほど……。でしたら、私も練習すれば、あちらで働けるのでしょうか?」
「働く方に話が進むのか?」
「皆様とても楽しそうでしたし、私にもできそうなことがいくつかございましたので。あの壁も、もう少し助走をつければ――」
「セラフィナ、そのお話はパンを並べ終わってからにしてくれる?」
エレオノーラに声をかけられ、セラフィナは手元の盆へ目を落とした。話しているうちに手が止まっていたらしく、慌てて残りのカレーパンを並べ始める。
「申し訳ありません。ですが、次の動画を楽しみにしてくださっている方も多いと、タケシ様がおっしゃっていたではありませんか」
「そうだけど、次も忍者にする必要はないだろ。ほかに行ってみたいところは?」
「それでしたら、以前テレビで見た、大きな魚が泳いでいる建物にも行ってみたいです! エレオノーラ様、あの透明な壁の向こうを魚が通るところです!」
「水族館ね。私もあそこは見てみたいわ」
「じゃあ、今度はそっちを考えておくよ。今日はギルドへ行ってくるから、店を頼むな」
鍋をセラフィナへ任せ、屋台の脇に置いた鞄を取ると、彼女は待っていたようにこちらを向いた。
「依頼をご覧になるのでしたら、三人で受けられるものも探していただけますか? エレオノーラ様も、前に使った剣を毎晩確かめていらっしゃいますので」
「セラフィナ、あれは手入れをしていただけでしょう」
「ですが、昨日は鞘から抜いて構えていらっしゃいましたよね?」
エレオノーラは何か言いかけたあと、俺と目が合うと困ったように笑った。
「……次もご一緒できるなら、足を引っ張らないようにと思いまして」
「この前だって助かったよ。何かよさそうな依頼があったら、ミレーユに相談してみる」
そう答えると、エレオノーラは嬉しそうに頷き、セラフィナも満足したらしく調理台へ戻った。
俺は二人に見送られ、まだ人の少ない市場通りを冒険者ギルドへ向かった。
◇
討伐報酬を受け取り、依頼についてミレーユと話してから屋台へ戻ると、ちょうど昼の客が集まり始めていた。
エレオノーラが注文と代金を受け取り、セラフィナが皿にカレーを盛っている。カレーパンを買う客には中身が熱いことを伝えながら渡しており、俺が急いで加わらなければならないほどではなさそうだった。
ただ、客の列から少し離れたところに、一人だけ料理を買おうとしない男が立っていた。
五十代半ばくらいだろうか。色の褪せた外套をまとい、古びた革鞄を両手で抱えている。品書きへ目を向けることもなく、注文を受けているエレオノーラの顔を見つめていたので、俺は足を止めた。
以前も、彼女について聞き回る人間が現れ、そのあとでエレオノーラは攫われた。あの事件に関わった男爵や商会の会長が捕まったからといって、誰が何を知っているのかまで分かったわけではない。
俺は男と屋台の間へ入るようにして声をかけた。
「何かお探しですか?」
男は驚いたようにこちらを向き、鞄を抱え直した。
「いえ……こちらで働いている方について、少し伺いたいのですが」
「あの二人ですか?」
「はい。白銀の髪の方は、以前からこの街にいらっしゃるのでしょうか」
「どういったご用件です?」
俺が尋ね返すと、男はすぐには答えず、もう一度屋台へ目を向けた。
「以前お見かけした方によく似ているのです。ただ、もう十年も前のことでございますので、人違いかもしれず……」
「お知り合いなんですか?」
「直接お話しする機会は、ほとんどございませんでした。ですから、私のことは覚えておられないと思います」
曖昧な返事だったが、男もどう説明すればよいか迷っているように見えた。
俺が後ろを振り返ると、セラフィナはこちらに気づいていた。客へ皿を渡しながらも男の様子を確かめているので、俺は目だけで合図を送ってから向き直った。
「お名前を伺っても?」
「ローデリックと申します。書類の書き写しや帳簿の整理をして、各地を回っております」
そこで、釣り銭を渡し終えたエレオノーラが俺へ声をかけてきた。
「タケシ様、お帰りなさいませ。ギルドはいかがでしたか?」
「ああ、報酬は受け取ってきたよ。エレオノーラ、依頼の方もあとで相談したいんだけど――」
「……エレオノーラ殿下?」
背後から聞こえた呼びかけに、彼女の動きが止まった。
男は俺の横を通りかけたものの、途中で足を止め、確かめるようにエレオノーラを見つめている。
「アルセニア王国の、エレオノーラ殿下でいらっしゃいますか?」
「あなたは……」
男が片膝をつこうとしたところで、調理台から出てきたセラフィナが二人の間へ入った。
「お待ちください。ここで、そのようなことをなさらないでください」
顔を上げた男は、今度はセラフィナを見て息を呑んだ。
「セラフィナ殿……。あなたも、ご無事だったのですね」
「私をご存じなのですか?」
「王宮の記録庫に勤めていたローデリックです。式典の折には、お二人のお姿を何度も拝見しておりました」
セラフィナは男の顔を見つめていたが、覚えのある相手ではなかったらしく、警戒を解かずに尋ねた。
「記録庫の、どちらに?」
「西棟の一階です。私がいたのは中庭に面した奥の部屋で、主に地方からの報告書と、物資の納入記録を扱っておりました」
「あそこへ行くには、回廊から入った方が近かったはずですが」
「ええ。ただ、雨の日には中庭側の扉を使っておりました。回廊の屋根に傷みがあって、途中で書類を濡らしてしまうことがありましたので」
セラフィナがわずかに眉を上げると、エレオノーラも何か思い出したように口を開いた。
「雨漏りのする回廊……お母様に、あちらを通らないようにと言われたことがあるわ」
「修繕を頼んでも、なかなか順番が回ってこなくて。雨が降るたびに、先に桶を並べておりました」
ローデリックは懐かしそうに笑ったが、すぐに周囲へ目を向けた。近くでは、食事をしていた客が何人かこちらを見ている。
「失礼いたしました。お二人のお姿を見て、つい……」
「詳しい話は、場所を変えてからにしましょう」
俺が声を落とすと、ローデリックも頷いた。
「今は店が混む時間なので、少し待っていただくことになります。それでもよければ、あとで話を聞かせてください」
「もちろんです。お時間をいただけるのでしたら」
エレオノーラへ目を向けると、彼女はセラフィナと顔を見合わせてから答えた。
「私も、お話を伺いたいです」
「では、昼の分が落ち着いたところで、一度お店を閉めましょう。私もご一緒いたします」
セラフィナがそう言って調理台へ戻ると、ローデリックはようやく肩の力を抜き、屋台の端へ移動した。
「お待ちになるなら、何か召し上がりますか?」
俺が尋ねると、男は初めて品書きへ目を向けた。
「では、こちらのカレーというものを。先ほどから、よい香りがしておりましたので」
「ライスとパン、どちらにします?」
男が迷っていると、セラフィナが二つの違いを説明し始めた。ローデリックはその話を聞きながら、ときどきエレオノーラへ目を向け、彼女が客に笑いかけるたびに、何かを確かめるように頷いていた。
◇
昼の客が途切れたところで鍋を火から下ろし、片づけを済ませた俺たちは、ローデリックと一緒に近くの食堂へ入った。
奥の席に座り、飲み物を頼んでから、セラフィナが俺へ身を寄せた。
「記録庫のお話は、私の覚えているとおりでした。ただ、それだけで何もかも信用してよいとは思いません」
「分かってる。まずは話を聞こう」
向かいでは、エレオノーラがローデリックの顔を見つめていた。
「王宮にいらした方とこうしてお話しするのは、初めてです。ほかにも、ご無事だった方はいらっしゃるのでしょうか?」
「はい。私が今も連絡を取っている者だけで、十数名はおります」
「そんなに……」
エレオノーラは膝の上で手を重ね、隣に座ったセラフィナへ目を向けた。セラフィナも驚いていたようだったが、すぐにローデリックへ尋ねた。
「その中に、近衛にいた者はおりますか?」
「私が消息を知っているのは、文書や会計に携わっていた者と、王宮の使用人が何人かです。兵の方々については、ほとんど分からず……」
「そうですか。では、その方たちは今、どちらに?」
「それぞれ別の土地で暮らしております。帳簿をつける仕事に就いた者もいれば、商家の使用人になった者もおりますし、私のように仕事を探しながら各地を回っている者もおります」
エレオノーラは頷きながら聞いていたが、しばらくして遠慮がちに尋ねた。
「お名前を、教えていただけますか? 私の知っている方がいらっしゃるかもしれません」
「ええ、もちろんです」
ローデリックが挙げた名前のいくつかに、エレオノーラとセラフィナが反応した。俺には知らない名前ばかりだったが、二人のやり取りから、幼い頃に身の回りの世話をしてくれた人や、王宮でよく顔を合わせていた人だと分かった。
「その方には、庭で転んだときに手当てをしていただきました。私は泣いてばかりで、お礼もきちんと言えなかったのに……」
「今もお元気ですよ。手紙をいただくたびに、こちらの暮らしを心配してくださいます」
「そうなのですね。よかった……」
エレオノーラが顔を伏せると、セラフィナは何も言わず、卓の下へ手を伸ばした。二人の肩が触れ合うのを見て、俺も口を挟まずに待った。
やがてエレオノーラが顔を上げ、ローデリックへ微笑んだ。
「ありがとうございます。ずっと、分からないままでしたから」
「私どもも、お二人については何も分からずにおりました。今日、殿下をお見かけしても、すぐには声をかけられなかったのです」
「十年も経っておりますもの。私も、昔とは随分変わったでしょう?」
「ええ。それでも、お顔立ちに昔の面影がございましたので。お名前を呼ばれ、さらにセラフィナ殿まで現れたときには、もしやと思っていたことが本当になって……」
そこでローデリックが俺へ目を向けたので、まだ名乗っていなかったことに気づいた。
「タケシです。今は二人と一緒に暮らして、屋台をやったり、冒険者の仕事をしたりしています」
「冒険者のお仕事もですか?」
「ええ。この前は三人で魔物の討伐に行ってきました」
ローデリックは驚いた様子でエレオノーラを見たが、彼女は少し照れながら頷いた。
「ほとんど、お二人に助けていただいたのですけれど。私にもできることがあればと思って、始めたばかりなのです」
「そうでございましたか」
男は二人を見渡したあと、改めて俺へ向き直った。
「お二人とご一緒にいてくださって、ありがとうございます」
「俺も助けてもらってますから。それより、さっきのお話で、少し気になったことがあるんです」
「何でしょうか?」
「王宮で、物資の納入記録を扱っていたとおっしゃいましたよね。商会との取引も分かりますか?」
「記録が回ってきたものについては。ただ、十年前のことですので、すべてを覚えているわけではございませんが」
俺はミレーユと一緒に調べた、例の商会の名を告げた。
ローデリックの指が、飲み物の器へ伸びかけたところで止まる。
「……その名を、どちらで?」
「この街の冒険者ギルドです。以前関わった事件で、昔の護衛依頼を調べることになりまして」
「護衛依頼……」
「申告されていた荷物と、実際に王宮へ届いていたものが違っていた可能性があるんです。最後の輸送についても、妙な話が残っていました」
ローデリックが二人へ目を向けると、セラフィナが頷いた。
「その商会の印は、私も覚えております。軍の倉庫へ運ばれてきた箱に、剣や鏃が入っていました。夜に搬入されることもあったのですが、あなたのところには、どのような記録が届いていたのですか?」
「穀物や油、布などの納入記録が多かったと思います。武器の記録もございましたが、軍が別に保管していたものまでは、私も見ておりません」
男はそこで言葉を切り、セラフィナへ尋ねた。
「今おっしゃった荷物についても、お二人で調べていらしたのですか?」
「私たちだけではありません。ギルドと、今は国の役人も調べています」
俺が答えると、ローデリックの表情が引き締まった。
「国の方々が……。では、やはり、あの取引には問題があったのでしょうか」
「それを確かめているところです。何か心当たりがあるんですか?」
男はすぐには答えず、卓の上に置いた手を見つめた。
やがて周囲を確かめてから、俺たちへ顔を近づける。
「記録が、書き換えられていたことがございます」
「どういう記録です?」
「王宮に残す納入の帳簿と、届け先から返ってくる受領書です。両方の数量を照らし合わせてから保管するのですが、あの商会の取引では、数字が合わないことが何度かございました」
「届いた物資が少なかったんですか?」
「はい。例えば北部の砦へ送った矢と槍の穂先について、受領書には予定の半数ほどしか届いていないと記されておりました。輸送中に失ったという説明でしたので、最初はそのとおりに整理したのです」
「ですが、あとから書き換えられた?」
セラフィナの問いに、ローデリックは頷いた。
「後日、帳簿を開いたところ、全量を納めたことになっておりました。不足を報告した受領書も、別のものに差し替えられていたのです」
「担当者へは、確かめたのですか?」
「最初の報告が間違っていたと説明されました。ただ、その後も砦から矢が足りないという訴えが届いておりましたので、届け先へ直接問い合わせようとしたのですが……」
男は口元を引き結び、しばらくしてから続けた。
「上司に止められました。補給の手配は済んでいるのだから、記録係が余計な手間を増やすなと。そのまま保管するよう命じられたので、私もそれ以上は確かめられませんでした」
「それは、いつ頃のことでしょうか?」
セラフィナが尋ねると、ローデリックは少し考えた。
「王都が落ちる半年ほど前から、三か月ほど前までです。似たようなことが何度か続き、その後は、あの商会の新しい納入記録が来なくなりました」
俺はセラフィナと顔を見合わせた。
「お前が覚えていた時期と、合うな」
「はい。倉庫へあの商会の荷物が来なくなったのも、その頃です。そのあと、食料や矢が足りなくなって……」
「訓練で使った矢まで、拾って使っていたんだったよな」
セラフィナが頷くと、ローデリックは驚いたように彼女を見た。
「王宮でも、そのようなことが?」
「ええ。ですが、私が知っていたのは、荷物が来なくなったことと、物資が不足していたことだけです。届いたはずの分まで、帳簿の中で増えていたとは思いませんでした」
隣ではエレオノーラが、卓に置かれた器を見つめていた。
「父や兄たちが、備蓄が予定より少ないと話していたことがありました。あのときは、その意味もよく分からなかったのですけれど……」
「以前、そう言ってたな」
「はい。もし、その予定が書き換えられた帳簿をもとにしていたのなら、最初から、ないものをあると思っていたのでしょうか」
「可能性はある。でも、どの記録がどこまで報告されていたかは、まだ分からないよ」
俺がローデリックを見ると、男も頷いた。
「私には、陛下へお見せしていた資料までは分かりません。ただ、不足しているという知らせを受けたあとも、帳簿では全量を納めたことになっていたのは確かです」
実際には物資が届いていないのに、記録の上では届いたことになっていた。その状態でさらに輸送が止まれば、残っているはずの備蓄を頼りにしようとしても、予定が狂う。
単に金を余分に受け取るための不正だったのか、物資を別の場所へ流していたのか。それとも、補給の状況を誰かに誤認させること自体が目的だったのか。
今の話だけでは決められないが、少なくとも、これまで調べた輸送の記録とはつながりそうだった。
「その帳簿は、もう残っていないんですか?」
「王宮にあったものは、おそらく。王都が陥落する前には、文書の一部を処分するよう命令も出ておりましたので」
俺が息をつくと、ローデリックは顔を上げた。
「ただ、書き換えられる前の数字を控えたものなら、残しております」
「写しがあるんですか?」
「はい。最初の受領書と、あとから差し替えられたものを、両方書き写しました。日付と、確認した担当者の名も添えてあります」
「どうして、そこまで?」
「一度なら、私が読み違えたのかもしれません。ですが、繰り返し同じことが起きるので、次に尋ねるときには、こちらも確かな数字を示さなければと思ったのです」
ローデリックは自分の指先を見つめ、苦笑した。
「結局、それを示す前に王都を離れることになりました。自分で写した紙でしたので、ほかの荷物と一緒に持ち出したのですが、その後は、どなたへ渡せばよいかも分からず……」
「その写しを、見せていただけますか?」
エレオノーラが尋ねると、男はすぐに頷いた。
「もちろんです。ただ、今は持ち歩いておりません。以前暮らしていた村で、世話になった家に荷物を預けておりますので」
「ここから遠いんですか?」
「馬車で四日ほどかかります。取りに戻ることはできますが、こちらで請けている仕事を先に済ませなければなりません」
往復だけで八日か。
日本の仕事もあれば、二人の通院もある。俺たちも同行すると、その場で約束できる距離ではなかった。それに、十年前の取引を調べた人間が狙われたことを考えると、この男を一人で送り出してよいかも確かめる必要がある。
「では、まずギルドマスターに相談します。国の捜査にも関わる話なので、写しを取りに行く方法も含めて、段取りを考えてもらいましょう」
「私の写したものでも、お役に立つのでしょうか?」
「ほかの記録と照らし合わせれば、分かることがあるかもしれません。担当者の名前まで残してあるなら、なおさらです。ただ、役人が見てどう判断するかまでは、俺も約束できませんけど」
「それで構いません。しまっておくよりは、確かめていただいた方が……」
ローデリックが頷いたところで、エレオノーラが静かに口を開いた。
「その書類を書き換えた方は、王宮にもいらしたのですね」
「はい。少なくとも、差し替えられたものを私へ渡したのは、王宮の担当者でした」
「その方も、商会と一緒に何かをしていたのでしょうか」
「そこまでは分かりません。誰かに命じられたのかもしれませんし、私の知らない事情があったのかもしれません」
エレオノーラはしばらく黙っていたが、やがてもう一度尋ねた。
「父や母が亡くなったことにも、関わっているのでしょうか」
ローデリックは答えようとして顔を上げたものの、すぐには言葉を出せなかった。
俺も何と声をかければよいか迷ったが、セラフィナが先にエレオノーラへ向き直った。
「エレオノーラ様。今のお話だけでは、そこまでは分かりません。私も知りたいですが、まずは残されたものを確かめませんと……」
「ええ。分かっているわ」
エレオノーラは頷き、ローデリックへ目を戻した。
「答えにくいことを伺ってしまいましたね」
「いえ。殿下がお知りになりたいのは、当然のことでございます」
男は両手を膝へ下ろした。
「私は当時、おかしいと思いながら、その先を確かめられませんでした。上司に逆らって仕事を失うことも、誰かに目をつけられることも恐ろしくて……。お役に立つものが残っているなら、今度はお渡ししたいと思っております」
「写しを残してくださったのでしょう?」
エレオノーラの言葉に、ローデリックが顔を上げた。
「それがなければ、私たちは今日のお話を確かめることもできません。どうか、見せてください」
「……はい」
男が深く頭を下げると、エレオノーラは俺へ目を向けた。
「タケシ様。その書類を調べることになったら、私もお話を聞かせていただけるでしょうか?」
「もちろん。グレンにも、分かったことは二人に伝えてもらうよう頼むよ」
「ありがとうございます。第一部……」
口を開きかけた彼女は、一度言葉を切り、言い直すように続けた。
「以前、国からの報告を聞いたときも、まだ分からないことがたくさんございました。あのまま、分からずに終わってしまうのかと思っていたのです」
「男爵も、全部を話したわけじゃなかったからな。あいつと会っていた男からは、何も聞けないままになったし」
あの男が死んだことで、途切れた手がかりもあった。だが、今回の写しには、王宮で記録を扱っていた人間の名前がある。
それを国の捜査へ渡せれば、今までとは違うところから確かめられるかもしれなかった。
「父や母のことも、あのとき何が起きていたのかも、知りたいです。ただ……」
エレオノーラはそこで視線を落とし、重ねた手を握り直した。
「王宮にいた方々が私のことを知ったら、どうなるのでしょう。今日のお話を聞いてから、それも気になってしまって」
ローデリックが顔を上げたが、エレオノーラは彼を責めるつもりではないらしく、静かに続けた。
「生きている方がいらっしゃると分かったことは、本当に嬉しいのです。できるなら、お会いしたいとも思います。でも、その方たちが私に何かを望まれたとき、私は……」
言葉を探すように俺とセラフィナを見たあと、彼女は小さな声で言った。
「今の暮らしを、続けていたいのです」
「それは、続けていいだろ」
俺が答えると、エレオノーラは戸惑ったように瞬きをした。
「前に事件を調べていたときも、店を続けようって話になったじゃないか。今回だって、まずは昔のことを確かめたいだけだろ?」
「はい。ですが、私には、王家の人間として――」
「エレオノーラ様」
セラフィナが静かに声をかけた。
「どなたが何をお望みなのかも分からないうちから、引き受けるおつもりにならなくてもよいのではありませんか。お会いになるかどうかも、これからお決めになればよいのです」
エレオノーラはセラフィナを見つめたあと、ゆっくりと頷いた。
「……そうね。まだ、お元気でいらっしゃると聞いただけなのに」
ローデリックも姿勢を正し、彼女へ向き直った。
「私も、お二人にお会いできた嬉しさで、ほかの者へ知らせることばかり考えておりました。殿下のお気持ちを伺わずに、そのようなことをすべきではありませんね」
「会いたくないわけではないのです。ただ、少し考える時間をいただければ……」
「もちろんです」
俺は二人のやり取りを待ってから、ローデリックへ声をかけた。
「それに、安全のためにも、二人のことはしばらく口外しないでもらいたいんです」
「安全、とおっしゃいますと?」
「詳しくはここでは話せませんが、以前、エレオノーラの身元を探っていた人間がいて、そのあとで彼女は攫われました。依頼した人間は捕まっていますけど、事件の全容が分かったわけではありません」
ローデリックの顔から血の気が引いた。
「では、私が市場で声を上げたことも……」
「あの場では仕方ありません。ただ、これから先は気をつけてもらえれば。記録の写しを持っているという話も、関係のない人にはしないでください」
「承知いたしました。お二人のことも、書類のことも、誰にもお話しいたしません」
男は鞄から小さな紙束を取り出し、宿の名前と自分の名を書いた。
「私は、こちらに泊まっております。仕事で留守にしていることもございますが、伝言を残していただければ、伺います」
「ありがとうございます。こちらから連絡するまでは、書類を取りに出発せずに待っていてください」
紙を受け取って鞄へしまうと、エレオノーラもローデリックへ頭を下げた。
「また、お話を聞かせてください。記録のことだけでなく、皆様が今どのように暮らしていらっしゃるのかも」
「ええ。私の知っていることでよろしければ、いくらでも」
そう答えた男の顔には、ようやく再会を喜べるようになったらしい、穏やかな笑みが浮かんでいた。
◇
食堂の前でローデリックと別れ、俺たちは市場通りへ戻った。
エレオノーラはしばらく黙って歩いていたが、道の向こうから荷車が来ると、セラフィナに袖を引かれて俺の側へ寄った。
「ありがとうございます。少し、ぼんやりしていました」
「お疲れになったのなら、午後は私とタケシ様で店を見ます。無理に立たなくてもよろしいですよ」
「大丈夫よ。むしろ、いつもの仕事をしている方が落ち着く気がするわ」
そう言ってから、エレオノーラはセラフィナの顔を見た。
「あなたは、会ってみたい方はいないの? 先ほど名前の出た方の中にも、知っている人がいたでしょう?」
「おります。ですが、まずはローデリック殿のお話を確かめてからにいたしましょう。ギルドで調べていただければ、ご本人についても分かることがあるかもしれません」
「そうね。懐かしい話を聞いていたら、すっかり安心してしまったわ」
「私も、知っている名前が出たときには、もっと伺いたくなりましたので」
セラフィナがそう言うと、エレオノーラは彼女の腕へ軽く触れた。
「近衛の方々も、どこかで暮らしていらっしゃるといいわね」
「……はい。もし消息が分かったら、そのときは私もお会いしたいです」
二人の歩調が揃い、俺もその横を歩いた。
ほどなく屋台へ着くと、近くの店の主人が俺たちを見つけて手を上げた。
「今日はもう終わりかと思ったぞ。パンは残ってるか?」
「はい、ございます! これから火を入れますので、少々お待ちいただけますか?」
セラフィナは返事をしながら屋台へ回り、エレオノーラも畳んでおいた品書きを取り出した。俺は鍋を火床へ戻し、残っているカレーの量を確かめる。
「タケシ様、午後はパンの方が先に売り切れるかもしれませんね」
「ああ。追加で揚げるかどうかは、残りを見て決めよう」
「でしたら、私が数えておきます」
エレオノーラは盆を確かめ、いつもの帳面へ残りの数を書き込んだ。
その横でセラフィナが火を起こし、油の入った鍋を用意している。店の主人に今日のおすすめを聞かれると、昼にも同じものを売っていたはずなのに、揚げたてのカレーパンがいかによいかを熱心に話し始めた。
俺がエレオノーラを見ると、彼女もそのやり取りを聞いていたらしく、微笑んでから帳面を閉じた。
「営業が終わったら、三人でギルドへ行こう」
客に聞こえないよう声を落とすと、彼女は頷いた。
「はい。グレン様にも、今日のお話を聞いていただきたいです」
「それまでは、いつもどおりでいいよ」
エレオノーラが品書きを表へ出し、最初の客を迎える間に、俺は鞄の中の紙を確かめた。
以前は、商会が運んだ荷物と、それを見た人間の記憶を頼りに調べていた。今度は、その荷物を王宮がどう受け取り、どんな数字を残していたのかを確かめられるかもしれない。
俺は宿の名が書かれた紙をしまい直し、セラフィナから渡された皿を受け取った。
「タケシ様、こちらをお願いします。ライスのお客様です」
「ああ、分かった」
まずは午後の営業を終わらせよう。
そのあとでグレンに、十年前の受領書を写して持ち出した男に会ったと伝える。その写しが、国の調べている記録のどこにつながるのか、今度は俺たちだけで抱え込まずに確かめてもらおうと思った。




