2-4 セラフィナのリハビリ
「では、少し声を出してみましょう」
医師の言葉を伝えた瞬間、セラフィナの表情が変わった。
手術から一週間が経ち、先ほどの内視鏡検査では、処置した部分の腫れもほとんど引いていることが確認できた。瘢痕に妨げられていた動きも以前より改善しているそうで、ここまでの経過は順調らしい。
そして今、ようやく発声を試してもいいという許可が出た。
「ただし、普通に話そうとしないでください。最初は息を吐くような感じで、短く『あー』と出すだけです。力を入れる必要はありません」
俺が説明を伝えると、セラフィナは真剣な顔で頷き、膝の上に置いていた筆談板を脇へ寄せた。
隣に座るエレオノーラも、さっきから彼女を見たまま動かない。俺だって似たようなもので、手術が終わったあとも、声が出るかどうかはまだ分からないと聞かされていたし、喉の動きが改善したからといって、すぐに普通の会話ができるようになるわけではないことも理解している。
それでも、これから聞こえるかもしれないと思うと、セラフィナの口元から目を離せなかった。
本人も緊張しているのか、口を開きかけて一度止まり、小さく息を吐いてから改めて吸い直すと、今度はゆっくりと声を出そうとした。
「……ぁ……」
吐き出した息に混じるような、かすかな音が聞こえた。
ほんの一瞬で途切れてしまったが、俺にははっきり聞こえたし、隣のエレオノーラも目を見開いている。何よりセラフィナ自身が一番驚いているようで、口を半分開けたまま固まったあと、自分の喉へそっと手を当てた。
「今の感じで大丈夫です。もう一度だけやってみましょう」
その言葉を伝えると、セラフィナは医師へ視線を戻し、再び息を吸った。
「……あ……」
今度はさっきよりもはっきりしていた。
小さく、ひどく掠れてはいるものの、間違いなく人の声で、それがセラフィナの口から出たのだと思うと、俺まで自分の喉の奥が詰まるような気がした。
「セラフィナ……」
エレオノーラに名前を呼ばれ、セラフィナは反射的にそちらを向いた。何か返そうと口を開きかけたところで、医師が穏やかに制する。
「今日はそこまでにしましょう」
俺が伝えると、セラフィナはまだ何か言いたそうにしていたが、やがて口を閉じ、自分の喉に触れたままこちらを見た。
「ちゃんと聞こえたぞ。二回とも」
しばらく俺の顔を見つめていたセラフィナは、ようやく実感が湧いてきたのか、ゆっくりと笑った。
その横ではエレオノーラが目元を押さえていたが、俺も何か言えば声が詰まりそうで、セラフィナへ笑い返すだけにした。彼女は俺たちを交互に見たあと、もう一度自分の喉へ指を当て、今度は確かめるように小さく頷いている。
少し落ち着いたところで、医師が先ほど撮影した喉の映像を画面に戻した。
「内側については、これから発声訓練をしながら経過を見ていきます。それと並行して、首の外側に残っている引きつれについても治療を進めましょう」
セラフィナの首には、十年前につけられた斬創と、その後に負った火傷の痕が複雑に残っている。特に斬られた部分は皮膚だけの問題ではなく、その下の組織まで硬く癒着しているらしく、以前から形成外科でも診てもらうことになっていた。
「今日、このあと予約を入れてあります。内側の経過についてはこちらから伝えておきますので、詳しい説明は向こうで聞いてください」
説明を聞いたセラフィナは頷き、脇へ寄せていた筆談板を鞄へ戻した。
声を取り戻すための最初の一歩は踏み出せたが、まだ治療は続いていく。俺たちは次の診察へ向かうために立ち上がり、セラフィナも最後に医師へ頭を下げると、エレオノーラと並んで診察室を出た。
◇ ◇ ◇
形成外科へ移動し、少し待ってから診察室へ入ると、エレオノーラの治療でも世話になっている医師がこちらを見て笑った。
「声、出たそうですね」
説明するまでもなく話が伝わっていたことが嬉しいのか、俺が訳すとセラフィナは大きく頷いた。
「内側の経過もいいようですし、こちらの治療も予定どおり進められそうです。まずはもう一度、首の動きを確認させてください」
医師はセラフィナを診察台へ座らせ、髪を上げてもらってから首の傷を確認し始めた。
右を向き、左を向き、今度は顎を上げる。そのたびに傷の周囲へ指を当て、皮膚がどの方向へ引っ張られるのかを確かめていたが、斜め上を向いてもらったところで手を止めた。
「やっぱりここですね」
指したのは、首の前から横へ斜めに走る一本の傷だった。
火傷の痕に重なるように残っているため、初めて見た頃は俺もどこまでが斬られた傷なのか分からなかったが、今では見慣れてしまっている。十年前、セラフィナの喉を斬った刃物の痕だ。
「この下がかなり硬くなっています。傷が治るときに周囲の組織同士がくっついてしまっていて、首を動かすたびに一緒に引っ張られています」
「それを剥がすんですか?」
「そうですね。ただ剥がすだけでは、治る過程でまた同じように癒着する可能性がありますから、周囲の組織を調整して動ける余裕を作ります。それと、この傷痕自体も一部切除して縫い直す予定です」
俺は説明を聞きながらセラフィナを見た。
さっきまで声が出たことを喜んでいた彼女も、今は医師の指先が触れている傷を鏡越しにじっと見つめている。
「傷は消えるんですか?」
エレオノーラの質問を伝えると、医師は首を横へ振った。
「完全には消えません。十年前の傷ですし、その後の火傷も重なっていますから。ただ、今のような幅のある硬い傷ではなく、できるだけ細い傷にすることを目指します。今回の一番の目的は、首の動きを妨げている引きつれを減らすことです」
そこまで聞いたところで、セラフィナが鞄から筆談板を取り出した。
『声にも関係ある?』
俺が読み上げると、医師は画面に表示されていた資料を指した。
「声帯そのものは喉の内側にありますから、この手術だけで声が良くなるとは言えません。ただ、発声するときには喉の周囲も動きますし、外側の引きつれがその動きを妨げている可能性はあります。耳鼻科の先生とも相談しながら進めていきます」
説明を伝えると、セラフィナは鏡へ視線を戻し、傷にそっと指を当てた。
十年前、アルセニア王国が滅びたときに負った傷だということは知っているし、それによって声を失ったことも聞いている。それでも、刃物が喉へ入った瞬間に何を見て、何を感じたのかまで尋ねたことはなく、セラフィナも自分から話そうとはしなかった。
俺にとっては出会ったときからそこにある傷でも、彼女にとっては、その前と後で生活が変わってしまった傷なのだろう。
「どうする?」
俺が尋ねると、セラフィナは鏡から目を離し、迷うことなく頷いた。
その意思を医師へ伝え、俺たちは今後の検査や手術について説明を受けながら、日程を調整することになった。
◇ ◇ ◇
それからしばらくの間、セラフィナは発声訓練を続けながら、首の手術に向けた準備を進めた。
発声といっても、まだ会話ができるような段階ではない。最初は決められた時間だけ母音を出す練習から始まり、無理に大きな声を出さないことや、喉に違和感があればすぐに中止することを、診察のたびに確認されていた。
ところが、本人は十年ぶりに出るようになった声がよほど嬉しいらしい。
ある日の夜、リビングでテレビを見ていると、隣の部屋から小さな声が聞こえてきた。
「……あー……」
最初は練習しているのだろうと思って気にしなかったが、少し間を置いてまた同じ声が聞こえ、さらに続いたところで時計を見ると、決められた練習時間はとっくに過ぎていた。
「セラフィナ」
部屋を覗くと、ベッドに座っていたセラフィナがぴたりと止まり、何事もなかったような顔で俺を見た。
「今日の練習、もう終わりだろ」
セラフィナは手元の筆談板を取り、俺に見せる。
『あと少し』
「駄目」
『少しだけ』
「先生に止められてただろ」
その返事が気に入らなかったのか、セラフィナは書いた文字を消し、新しく二文字だけ書いた。
『けち』
「俺が決めたんじゃねえよ」
後ろからついてきたエレオノーラが笑いだしたので、セラフィナは今度はそちらを睨んだが、味方になってもらえる見込みはなかった。
「私を睨んでも駄目ですよ。タケシの言うとおりです」
セラフィナは不満そうに筆談板を置いたものの、それ以上練習を続けようとはせず、翌日からは決められた時間を守るようになった。
最初は一瞬しか続かなかった声も、日が経つにつれて少しずつ長くなっていき、まだ掠れてはいるものの、その音が家の中で聞こえることに俺たちも慣れていった。練習の前には自分で時計を置き、終われば喉の具合を筆談板で伝えてくるようになったセラフィナを見ていると、声が出ることが彼女の生活の一部になり始めているのが分かった。
だからこそ、首の手術を数日後に控えた診察で、術後はしばらく発声訓練を休止すると告げられたときには、見るからに肩を落としていた。
『どのくらい?』
「傷の状態によりますが、少なくとも抜糸までは休んでもらいます。その後もすぐに再開できるとは限りませんので、耳鼻科と相談しながら決めましょう」
俺が伝えると、セラフィナは筆談板を膝へ戻し、大きく息を吐いた。
「せっかく出るようになったのにな」
頷く彼女へ、俺は医師が説明した予定をもう一度指した。
「傷が落ち着けば、首のリハビリも始められるってさ。声の練習も、その様子を見ながら戻していこう」
セラフィナはしばらく予定表を眺めていたが、やがて筆談板を鞄へしまい、納得したように頷いた。
◇ ◇ ◇
手術当日の朝、病衣へ着替えたセラフィナは、病室のベッドに腰掛けながら看護師の説明を聞いていた。
前回より処置する範囲が広いため、予定されている手術時間も長い。首の傷の下にある癒着を剥がし、周囲の組織を調整したうえで傷痕の一部を切除して縫い直すと聞いている。
看護師が出ていったあと、俺は何となくセラフィナの手元へ目を向けた。
前回は平気そうに振る舞いながらも、右手を何度も開いたり閉じたりしていたが、今日は両手を膝の上に置いたまま、落ち着いて座っている。
「《精神疲労除去》、使うか?」
聞いてみると、セラフィナは少し考えてから首を横へ振った。
「大丈夫?」
頷いたあとで筆談板へ手を伸ばし、ゆっくりと文字を書く。
『前は怖かった』
そこまで書いて一度止まり、俺の顔を見てから続きを足した。
『今日は大丈夫』
「そっか」
まだ掠れた音しか出せないとはいえ、セラフィナは自分の声を十年ぶりに聞くことができた。手術を受けた先に変化があると分かったことが、今回の気持ちにも繋がっているのかもしれない。
やがて看護師が迎えに来ると、セラフィナは筆談板を置いて立ち上がった。
「行ってらっしゃい」
エレオノーラの言葉に頷いたあと、今度は俺へ拳を差し出してきたので、前回と同じように軽く拳を合わせた。
「終わったらまた来るから」
もう一度頷いたセラフィナは、看護師と一緒に病室を出ていった。
前回のように途中で戻ってくることはなく、廊下の向こうへ姿が消えるまで見送ってから、俺たちも待機する場所へ向かった。
◇ ◇ ◇
数時間後、手術が問題なく終わったと医師から告げられると、隣にいたエレオノーラが大きく息を吐いた。
説明室へ移動すると、モニターには手術中に撮影された画像が表示されており、医師はそれを指しながら今回行った処置を説明してくれた。
「実際に開いて確認したところ、やはり傷の下はかなり強く癒着していました。特にこの部分ですね」
画面を見ても俺にはよく分からないが、斬られた傷の周囲で皮膚の下にある組織同士が硬くくっつき、首を動かすたびに喉の周囲まで引っ張っていたらしい。
「癒着していた部分は処置しました。傷痕も硬くなっていた部分を切除して縫い直しています。ただ、長い間この状態だったので、手術をしただけで終わりではありません。傷が落ち着いてきたら、首の動きを戻すためのリハビリも始めます」
「またくっついちゃうこともあるんですか?」
「可能性はあります。経過を見ながら、適切な時期に動かし始めることが大切です。早すぎてもいけませんし、逆に怖がって動かさなさすぎるのもよくありません」
いつから、どの程度動かしていいのかは、その都度教えてもらうことになった。
説明を聞き終えて病室へ戻ると、セラフィナはすでにベッドへ戻されていた。麻酔がまだ残っているのか目を閉じており、首には大きめのガーゼが当てられ、今まで当たり前のように見えていた傷が隠れている。
「終わりましたね」
エレオノーラが静かに言った。
「ああ。予定どおりできたって」
「これで、あの傷も少しは……」
そこで言葉を止めた彼女の視線は、セラフィナの首へ向けられていた。
俺にとっては出会ったときからそこにあった傷でも、エレオノーラは傷を負う前の姿を知っている。今より自由に首を動かし、普通に言葉を交わしていた頃を覚えているのだから、同じ傷を見ても、俺とは違うものを思い出していたのかもしれない。
俺はベッドの脇へ椅子を寄せ、エレオノーラにも座るよう促すと、二人でセラフィナが目を覚ますのを待った。
しばらくして瞼が動き、ゆっくり目を開けたセラフィナは、俺たちに気づくと視線をこちらへ向けた。
「終わったぞ。予定してたところは全部処置できたって」
小さく頷く彼女へ、俺は医師から聞いたことを伝えた。
「思ってたより中がくっついてたらしいけど、そこも剥がせたってさ。あとは傷が落ち着いたらリハビリだって」
セラフィナはもう一度頷いたあと、何かを探すように手を動かしたので、枕元に置かれていた筆談板を渡してやった。
まだ麻酔が残っているせいか、文字を書く動きはいつもよりゆっくりだったが、最初に尋ねたのは予想していたことだった。
『声は?』
「しばらく禁止。抜糸が終わって、耳鼻科の先生から許可が出るまでは駄目だって」
セラフィナは眉間に皺を寄せ、その下へ文字を足した。
『どのくらい?』
「まだ分からない。傷の治り次第だって」
ますます嫌そうな顔になった彼女を見て、俺はつい言いかけた。
「十年待ったんだから、もうちょっとくらい――」
そこまで口にして、やめた。
十年声を出せなかったのだから、あと数週間くらい我慢できるだろうというのは、声を失ったことのない俺の感覚でしかない。一度取り戻しかけたものを、また使うなと言われるほうが辛いのかもしれないと、彼女の顔を見て思い直した。
「まあ、嫌だよな」
そう言い直すと、セラフィナは俺を見てから小さく頷いた。
「でも、ここで無理してやり直しになったら、もっと長くなる。ちゃんと治そう」
今度は素直に頷き、筆談板を枕元へ戻した彼女の手へ、エレオノーラがそっと自分の手を重ねた。
「練習を始められるようになったら、また聞かせてくださいね」
セラフィナは彼女へ視線を移し、少しだけ口元を緩めると、そのまま目を閉じた。
◇ ◇ ◇
それから傷の状態を確認しながら通院を続け、抜糸を終える頃には、首にあった傷も以前とはかなり違うものになっていた。
新しく縫い直した部分にはまだ赤みがあり、火傷の痕も残っている。それでも、以前のように太く硬い線が首を横切っている状態ではなくなり、本人も、動かしたときの感覚が変わったと筆談で教えてくれた。
抜糸は済んだものの、発声訓練の再開にはもう少し時間が必要だと言われ、セラフィナは首のリハビリを続けながら次の診察を待っていた。
運動を始めて数日後、自宅のリビングで教わった動きを確認していると、その違いは俺にも分かった。
「もう一回、左向いてみて」
セラフィナがゆっくり顔を左へ向ける。
以前なら途中から傷の引きつれに合わせて肩まで動いていたのだが、今は首だけでさらに先まで向けていた。
「おお、前より全然いくな」
本人も気づいたらしく、一度正面へ戻ってからもう一度左を向き、今度は右とも比べている。近くへ来たエレオノーラもその動きを見て、嬉しそうに笑った。
「本当ですね。前はそこまで向けませんでした」
セラフィナは鏡を手に取り、自分の首を映すと、傷の周囲へそっと指を当てた。それから俺たちに見せるようにもう一度左右を向いたが、動く範囲が広がったことが嬉しいのか、つい先まで向こうとしてしまう。
「先生に言われたところまでな」
声をかけると、セラフィナは動きを止め、少しばつが悪そうにこちらを見たあと、教わった範囲へ戻した。
鏡を置いてからも、彼女は何度か首をゆっくり動かしていた。以前なら途中で止まっていたところを越えるたび、確かめるように肩へ手を置き、その肩が一緒についていかないことに満足そうな顔をしている。
俺も隣に座ったまま、その日の運動が終わるまで付き合った。
◇ ◇ ◇
さらに数週間後、耳鼻咽喉科で内視鏡による確認を受け、ようやく発声訓練を再開してもいいという許可が出た。
「久しぶりですから、最初は軽くいきましょう」
説明を伝えると、セラフィナは頷いて息を吸った。
俺とエレオノーラは以前と同じように隣で見ていたが、最初に声を出したときとは少し違う。あのときは本当に音が出るのかさえ分からなかったが、今は一度聞いているからこそ、手術を挟んでどう変わったのかが気になっていた。
「……あ……」
掠れた声が出ると、医師はモニターを確認しながら頷いた。
「もう一度。今度は少し長くしてみましょう」
セラフィナは一度息を吐いてから吸い直し、今度は少し長く声を出した。
「……あー……」
まだ普通の声とは言えず、掠れもかなり残っているが、途中で途切れることなく続いた。その音が以前より安定していることは、専門家ではない俺にも分かった。
「いいですね。外側の引きつれが減った影響も出ていると思います」
医師はもう一度喉の動きを確認してから、これからは母音だけでなく、少しずつ子音を組み合わせる練習へ進めると説明した。
「短い言葉から始めてみてもいいでしょう」
それを伝えた途端、セラフィナが俺を見た。
何か言いたいことがあるのだろうと思って医師へ視線を向けると、向こうも彼女の様子に気づいたらしく、笑いながら頷いた。
「今日は一つだけ試してみましょう。無理に大きな声を出さず、ゆっくりで構いません」
セラフィナはすぐに頷いたが、いざ口を開こうとすると少し迷い、一度目を閉じて呼吸を整えた。
何を言うつもりなのか、俺もエレオノーラも黙って待っていると、彼女はゆっくり口を開いた。
「……タ……」
そこで止まり、もう一度息を整える。
「……タ……ケ……」
俺は思わず身体を起こした。
隣のエレオノーラも気づいたらしく、驚いた顔でセラフィナを見たが、彼女は自分の喉へ手を当て、少し間を置いてから改めて口を開いた。
「……タケ……シ……」
掠れた声だった。一音ずつ確かめるように出すため、普段の会話とは比べものにならないほど小さかったが、それでも俺の名前を呼んだことだけは、聞き間違えようがなかった。
「……お前、最初にそれかよ」
もっと何か言うことがあった気もするのだが、実際に自分の名前を呼ばれてしまうと、それしか出てこなかった。
セラフィナは嬉しそうに笑い、その顔を見ているうちに俺まで照れくさくなってきたが、同時に、今聞いた声をもう一度聞きたくなった。
「もういちど聞かせてくれ」
さっきまで無理をするなと言っていたくせに、気づけばそんな言葉が口から出ていた。
セラフィナも嬉しそうに口を開きかけたが、その前に医師が手を上げた。
「今日はそこまでにしましょう」
「タケシ、今度はあなたが我慢してください」
隣からエレオノーラにも止められ、俺は開きかけていた口を閉じた。
「……そうだな。悪い」
セラフィナは俺とエレオノーラを見比べてから、声を出さずに笑った。俺もつられて笑いながら、次の練習まで待つことにしたが、耳にはまだ、さっき呼ばれた自分の名前が残っている。
診察の最後に、これからの練習方法と注意点を教わった。まだ普通に会話ができるわけではなく、どこまで声が戻るのかも分からないが、セラフィナは説明を聞きながら何度も頷き、忘れないよう筆談板へ書き留めていた。
その手元を見ていると、筆談板はこれからもしばらく必要になるのだろうと思う。それでも、いつか声で伝えられることが増えていけば、今のようにいつも手の届くところへ置いておかなくてもよくなるのかもしれない。
医師に礼を言って診察室を出ると、セラフィナは廊下で俺の袖を引き、さっきまで注意事項を書いていた筆談板を見せてきた。
『ちゃんと聞こえた?』
「聞こえたよ」
そう答えると、彼女は満足そうに頷き、筆談板を鞄へしまった。
最初に聞いたのは、ただの掠れた「あ」という音だった。それが今は俺の名前になり、次には何を言ってくれるのだろうと思うと、先ほど止められたばかりなのに、また聞きたくなってしまう。
元々おしゃべりだったというセラフィナが昔のように話せるようになったら、静かにしてくれと思う日も来るのかもしれないが、今はそんな姿も含めて楽しみだった。
「次の練習も、俺がいるときにしてくれよ」
歩きながら声をかけると、セラフィナは振り返って頷き、その隣でエレオノーラが笑った。
「時間が来たら、ちゃんと終わりにしてくださいね。二人とも」
俺とセラフィナが顔を見合わせると、エレオノーラはもう一度念を押すようにこちらを見たので、二人揃って頷くことになった。
今度こそ練習の時間は守ろうと思いながらも、俺は次に名前を呼ばれるときを、もう楽しみにしていた。




