2-3 セラフィナ治療1
カレーパンを売り始めてから、数か月が経った。
その間も屋台は順調に営業を続け、エレオノーラの治療も定期的に受けながら少しずつ進んでいる。そして今日は、以前から検査を続けていたセラフィナの喉について、今後の治療方針を決めるための診察日だった。
今日は屋台を休みにして、朝から三人で病院へ向かうことになっている。
何度か通っている病院なので、二人も今ではすっかり慣れたもので、受付を済ませると迷うことなく耳鼻咽喉科へ向かった。
待合室へ着いて三人で並んで座ると、セラフィナは鞄から筆談用の小さな板を取り出した。
『今日は何時まで?』
「診察のあと形成外科にも行くから、昼は過ぎるかもしれないな」
俺が答えると、セラフィナは分かったというように頷き、書いた文字を消して筆談板を鞄へ戻した。
しばらくして名前を呼ばれ、三人で診察室へ入った。
いつもの医師に挨拶をして椅子へ座ると、今日は最初からパソコンの画面にセラフィナの喉の画像が表示されていた。以前の検査で撮影したものらしく、俺にはどこがどう悪いのかまでは分からないが、医師はその一部を拡大すると画面をこちらへ向けた。
「形成外科とも相談しましたが、まずはこちらから治療することになりました」
医師が指したのは、声帯そのものではなく、その周囲だった。
「声帯にも古い傷はあります。ただ、今の状態で特に問題になっているのが、この周囲にできている瘢痕です。傷が治る過程で組織が硬くなっていて、それが発声するときの動きを邪魔しています。それに加えて、外側の傷にも強い引きつれがありますので、最終的には両方を治療していく必要があります」
俺は説明を聞きながら、難しいところだけを二人にも分かるよう言い換えて伝えた。
これまでの検査で傷の状態についてはある程度聞いていたものの、どこから手をつけるかまでは決まっていなかった。それがようやく固まり、まずは喉の内側にある瘢痕を処置して動きを改善させ、その結果を確認してから外側の治療へ進むことになったらしい。
セラフィナも真剣な表情で画面を見ていたが、説明が一段落したところで再び筆談板を取り出した。
『いつやる?』
俺が読み上げると、医師は少し笑いながら答えてくれた。
「今日すぐ、というわけにはいきませんが、日程は今日決められます。その前に、もう一度だけ喉の動きを確認させてください」
その言葉と同時に看護師が内視鏡を用意し始めると、セラフィナの表情がわずかに曇った。鼻から細い管を入れるこの検査だけは何度経験しても苦手らしく、それでも嫌がることはせず、促されるまま診察用の椅子へ移動する。
鼻に麻酔をしてから内視鏡が入っていき、医師に指示されるまま口を開け、声を出すときと同じように喉を動かすと、その様子が目の前のモニターに映し出された。実際の声は聞こえないものの、画面の中では確かに喉の一部が動いており、医師は何度か同じ動作をさせながら角度を変えて確認していく。
数分ほどで検査が終わり、内視鏡を抜かれたセラフィナは目元を押さえながら何度か鼻をすすった。俺とエレオノーラが再び椅子へ座る頃には、医師は今撮ったばかりの映像を巻き戻し、ある場面で停止させていた。
「ここを見てください」
指された部分を目で追うと、左右で動き方が違うことくらいは俺にも分かった。一方は比較的大きく動いているのに対し、もう一方は途中で引っかかっているように見える。
「こちら側は瘢痕の影響でかなり動きを制限されています。ただ、完全に動かないわけではありません。今の検査でも、発声しようとしたときには反応しています」
「それなら、この引っかかってるところを治せば……」
「動きが改善する可能性はあります。ただ、十年前の外傷ですから、処置をした直後から正常に動くというものではありません。まず瘢痕による引きつれを減らして動ける余地を作り、そのあと傷が落ち着いてから、実際にどの程度動くようになったのかを確認します」
俺がそのままセラフィナへ伝えると、彼女は画面を見つめたまま何度か小さく頷いた。
医師の説明はさらに続き、最初の手術後は傷を安静にするため発声を禁止し、一週間ほど経ってから状態を確認することになった。そこで経過に問題がなく、喉の動きにも改善が見られれば、いきなり普通に会話をするのではなく、まずは短い発声から始めるという。
セラフィナは説明を聞き終えると、少し考えてから筆談板へ文字を書いた。
『一週間後に声を出す?』
「状態が良ければ、ですね。まずはその日に中を確認してからです」
医師の返事を俺が伝えると、セラフィナはもう一度頷いた。
その後は形成外科へ移り、今度は首の外側に残っている傷を確認してもらった。こちらはエレオノーラの火傷治療でも世話になっているため診察そのものは比較的早く進み、耳鼻咽喉科で最初の手術を行ったあと、その経過を見ながら外側の引きつれも治療していく方針が改めて決まった。
すべてを一度に治そうとするのではなく、まずは声を出すための機能を優先する。セラフィナ自身もそれに異論はないようで、手術の日程を一週間後に決めると、そのまま採血と麻酔科での確認を済ませた。
病院を出た頃には昼を大きく過ぎていた。
朝から診察や検査を繰り返していたセラフィナもさすがに疲れたらしく、遅い昼食を済ませて家へ戻る頃には、いつもより口数――という表現が正しいのかは分からないが、筆談の回数も少なくなっていた。
それでも手術の日程は決まり、何をするのかも分かった。
あとは一週間後を待つだけだった。
◇ ◇ ◇
一週間は、普段とほとんど変わらないまま過ぎていった。
セラフィナはいつもどおりエレオノーラと屋台に立ち、カレーを作ってカレーパンを揚げ、営業が終われば売上を確認して片付けをする。手術の前日になっても特別な様子は見せず、閉店後には残った食材を確認して次に店を開ける日の分まで帳面へ書き込み、調理台や道具を片付け終えると、いつもと同じように俺たちと日本へ戻った。
ただ、夕食を終えてからは珍しく早めに自分の部屋へ入り、そのまま出てこなかった。
俺もエレオノーラも、わざわざ様子を見に行くことはしなかった。
翌朝は病院から指定された時間に合わせて家を出た。
入院手続きを済ませて病室へ案内されると、セラフィナは病衣へ着替え、看護師から体調や最後に食事をした時間などを確認されたあと、ベッドに腰掛けた。やがて点滴が始まり、手術までの流れについて改めて説明を受けても特に変わった様子はなく、質問されたことには頷くか筆談で答え、普段と同じ落ち着いた顔をしている。
俺は窓際の椅子に座り、エレオノーラはベッドの横にいた。
テレビもつけていなかったので病室は静かだったが、だからといって何か話さなければならないような雰囲気でもなく、時々廊下を通る人の足音やワゴンの音を聞きながら、それぞれ手術の時間が来るのを待っていた。
そんな中、ふとセラフィナの手元を見ると、膝の上に置いた右手が何度も開いたり閉じたりしていることに気づいた。
顔だけ見ていればいつもと変わらない。
けれど、やはり緊張しているらしい。
そこで俺は、少し前に《天神地祇》で取得していたスキルのことを思い出した。
《精神疲労除去》。
名前のとおり、精神的な疲労や強い緊張を和らげるためのスキルだ。別に嫌な記憶を消したり、恐怖という感情そのものをなくしたりするわけではなく、張りつめた神経を少し楽にしてくれる程度のものだが、以前自分で試したときにはそれなりの効果を感じていた。
こういうときに使うのが、一番いいのかもしれない。
「セラフィナ」
呼びかけると、こちらを向いた。
「少し前に《天神地祇》で取ったスキルがあるんだけど、使ってみるか? 緊張とか、精神的な疲れを少し楽にするやつ」
セラフィナは一度自分の手を見てから、俺の顔へ視線を戻した。
少し迷ったものの、やがて頷く。
「じゃあ――《精神疲労除去》」
スキルを使っても、見た目に派手な変化が起こるわけではなかった。
光に包まれるわけでもなければ、表情が突然変わるわけでもない。ただ、しばらくするとセラフィナは胸元へ手を当て、不思議そうに何度か瞬きをしたあと、膝の上に置いていた筆談板を手に取った。
『楽になった』
「ちゃんと効いたみたいだな」
俺が答えると、セラフィナはもう一度自分の胸元へ触れ、それから少しだけ笑った。
膝の上で何度も開いたり閉じたりしていた右手も、いつの間にか動かなくなっている。
もちろん、これで手術に対する不安そのものが消えたわけではないだろう。
これから何をされるのかも理解しているし、十年前に傷を負ったのと同じ場所へ、今度は治療のためとはいえ再び手を加えることになる。それでも、無理に平静を装わなければならないほど張りつめていたものは、多少なりとも和らいだようだった。
エレオノーラもそれに気づいたのか、セラフィナの表情を見て安心したように息をついた。
それからしばらくして看護師が病室へ入り、予定どおり手術室へ向かうことを告げた。
セラフィナは筆談板をベッドの上へ置き、点滴台を押しながら立ち上がった。さっきまでより表情は柔らかくなっており、俺が「行ってらっしゃい」と声をかけると片手を上げ、エレオノーラにも同じようにしてから看護師と一緒に病室を出ていく。
ところが、廊下へ出て数歩進んだところで足を止めた。
看護師に少し待ってもらうと、セラフィナは病室へ戻ってきて、まっすぐエレオノーラの前へ立った。
何をするのかと思って見ていると、そのまま何も言わずに抱きついた。
エレオノーラも一瞬驚いたようだったが、すぐにセラフィナの背中へ腕を回した。
二人はしばらくそのままでいた。
エレオノーラが何かを言うことも、セラフィナが筆談板を取りに戻ることもなく、ただ静かに抱き合っている。普段なら何か一言くらい挟むところだったが、俺も今は黙っていたほうがいいと思い、その様子を少し離れた場所から眺めていた。
やがてセラフィナのほうから身体を離すと、エレオノーラがその腕を軽く叩いた。
「行ってらっしゃい」
セラフィナは頷いた。
それから俺のほうへ来ると、右手を握って拳を差し出したので、俺も同じように拳を作って軽く合わせた。
「またあとでな」
もう一度頷くと、今度こそ看護師のところへ戻り、そのまま廊下の向こうへ歩いていった。
姿が見えなくなってからもしばらく病室に残っていたが、ここにいても仕方がないため、俺とエレオノーラは待合スペースへ移動した。
手術時間は一時間ほどと聞いている。
決して大きな手術ではないし、命に関わるようなものでもない。それは分かっているのだが、実際に手術室へ入ってしまうと、さっきまで普通にしていたはずの俺まで落ち着かなくなり、自動販売機で買ったコーヒーを飲みながら何度も時計を確認してしまった。
向かいに座るエレオノーラも似たようなもので、最初は何となく周囲を眺めていたものの、しばらくすると膝の上で手を組み、それからは時計を見る回数ばかりが増えていった。
「一時間って、待ってると長いな」
「そうですね。屋台に立っていると、あっという間なのですけど」
「忙しいときなんか、気づいたら昼過ぎてるもんな」
そこから少しだけ屋台の話をした。
セラフィナが退院したあと、いつから店を再開するか。喉に負担がかからないなら調理をしても構わないのか、しばらくはエレオノーラと俺だけで店を回したほうがいいのか。今ここで答えが出るような話ではなかったが、何もせず手術のことだけを考え続けているよりは、普段の生活について話しているほうが気が紛れた。
やがて話題も尽き、再び静かになった頃には予定されていた一時間を少し過ぎていた。
それからさらに何分か待ったところで、ようやく医師が姿を見せた。
「お待たせしました。予定どおり終わりましたよ」
その言葉を聞いて、俺とエレオノーラはほとんど同時に立ち上がった。
医師に案内されて説明室へ入ると、パソコンには手術前と手術後の画像が並べて表示されていた。診察のときにも見た場所だが、今回は処置した部分が拡大されており、説明を受けながら見比べてみると、俺でも何となく違いが分かる。
「ここにあった瘢痕を処置しました。こちらの動きを妨げていた部分にも手を入れています。今のところ出血なども問題ありませんし、予定していた範囲については処置できています」
医師は画像を切り替えながら、どの部分に手を加えたのかを一つずつ説明してくれた。
ただし、今日の手術が予定どおり終わったからといって、それだけで声が戻るわけではない。処置した場所が治っていく過程で再び硬くなる可能性もあるため、まずは傷を落ち着かせ、そのあと実際にどの程度動けるようになったのかを確認する必要があるという。
「一週間後に内視鏡で確認します。そこで傷の状態が良く、動きも問題なければ、少しずつ発声を始めましょう。それまでは声を出そうとしないようにしてください」
「分かりました」
俺が答えると、隣でエレオノーラも頷いた。
説明を聞き終えて病室へ戻る頃には、セラフィナもすでに手術室から戻っていた。
麻酔がまだ残っているのか、ベッドへ横になったままぼんやりと天井を見ていたが、俺たちが入ってきたことにはすぐ気づき、ゆっくり顔をこちらへ向けた。
「終わったって。予定してたところはちゃんと処置できたそうだ」
俺がベッドの横まで行って伝えると、セラフィナは目を閉じるようにして一度頷いた。エレオノーラも反対側から顔を覗き込み、無事に終わったことを伝えると、少しだけ安心したように表情を緩めた。
しばらくすると麻酔が抜けてきたのか、セラフィナは身体を動かして枕元に置かれていた筆談板へ手を伸ばした。まだ無理に動かないほうがいいとは思ったものの、本人はどうしても確認したいことがあるらしく、ペンを取るとゆっくり文字を書いていく。
『喉は?』
「処置したばかりだから、まだ腫れてるってさ。一週間は声を出そうとするのも駄目。そのあと中を見て、問題なければ少しずつ発声を始める」
説明を聞いたセラフィナは、自分の喉へそっと手を当てた。
痛みがあるのかと思って尋ねると首を横へ振ったので、単にそこがどうなったのか気になっただけらしい。外から見たところで何か大きく変わっているわけではなく、首には以前からある傷痕がそのまま残っている。
けれど、その内側では十年間ほとんど変わることのなかった場所に、初めて治療の手が入った。
本人もそれを考えていたのか、しばらく喉へ触れたまま動かなかった。エレオノーラも何も言わず、その手元を見ており、俺もあえて声をかけずに待っていた。
声が出るかどうかは、まだ分からない。
医師もそこについては最後まで断言しなかったし、俺たちだって今日の手術だけですべてが終わったとは思っていない。それでも、検査をして結果を待ち、次の診察でまた検査をするだけだった頃とは違い、今日からは実際に治療が始まった。
しばらくしてセラフィナが喉から手を離し、もう一度筆談板へペンを走らせた。
『一週間は長い』
それを見て、俺は少しだけ笑った。
「まあ、そうだな」
十年間声を出せなかったのだから一週間くらい待てるだろう、とは言わなかった。
今までと今では、同じ一週間でも意味がまるで違う。
これまでは声を出そうとしても出なかったが、今は一週間後に初めて試すことができるかもしれない。その日がはっきり決まったからこそ、待つ時間が長く感じるのだろう。
「ちゃんと治してから試そう。ここで無理して余計に長引いたら、そのほうが嫌だろ」
セラフィナは少し考えてから頷き、筆談板を枕元へ戻した。
そのまま目を閉じたので、疲れたのだろうと思って俺たちも話しかけるのをやめると、病室には空調の音と、時折廊下から聞こえてくる足音だけが残った。
ベッドの上で眠り始めたセラフィナを見ながら、俺は一週間後のことを考えていた。
これまで俺は、セラフィナの声を一度も聞いたことがない。
笑っているときも、怒っているときも、呆れているときも、その表情や仕草だけで何を考えているのか分かるようになったし、筆談があれば会話にも困らなくなった。いつの間にか、それが俺たち三人にとって当たり前の日常になっていた。
だからこそ、一週間後に本当に音が出たとき、自分がどんな気持ちになるのかは想像できなかった。
どんな声なのかさえ知らない。
高いのか低いのか、柔らかいのか、それとも見た目どおり少し凛々しい声なのか。そもそも最初から言葉になるとも限らず、息が漏れるだけかもしれないし、聞き取れないほど掠れた音しか出ないかもしれない。
それでも、今までの無音とは違う何かが聞こえたなら、それは俺にとって初めて聞くセラフィナの声になる。
そんなことを考えていると、眠っていると思っていたセラフィナが薄く目を開けた。
俺と目が合うと、何を見ているんだと言いたげに眉を寄せる。
「寝てろ」
小さな声でそう言うと、セラフィナは少しだけ不満そうな顔をしたものの、すぐにまた目を閉じた。
そのやり取りも、今までと何も変わらない。
少なくとも今日は、それでいい。
一週間後、医師から許可が出れば、セラフィナは十年ぶりに声を出そうとする。
そして俺はそのとき初めて、彼女の声を聞くことになる。




