2-2 パンパンパンパンパンチンパン
ミレーユを日本へ連れてきてから数日後、俺たちは朝からアドリアノープルへ来ていた。
市場通りのいつもの場所に屋台を出し、カレーの入った鍋を火にかける。開店の準備をしているうちから香りにつられて何人かが足を止め始め、今日もそれなりに忙しくなりそうだと思っていたのだが、店を開けて一時間もしないうちに、いつもとは少し違うことに気づいた。
「カレーを一つ。ライスで」
「はい。少々お待ちください」
エレオノーラが代金を受け取り、注文をセラフィナへ伝える。
セラフィナはすぐにカレーをよそい、俺が用意したライスにかけると皿を調理台の端へ置いた。それをエレオノーラが受け取り、客へ差し出す。
「お待たせしました」
「ああ……ありがとう」
男は皿を受け取ったものの、そのまま行かず、エレオノーラの顔を見ていた。
「どうかなさいましたか?」
「いや……前からここにいたよな?」
「はい?」
「いや、なんでもない」
男は少し気まずそうに頭を掻き、空いている席へ向かった。
妙な客だと思っていたら、その次に来た男も似たようなものだった。
注文を済ませてからエレオノーラをちらちら見て、カレーを受け取ったあとも何度か振り返っている。さらに少し離れたところでは、二人組の冒険者がこちらを見ながら何やら話していた。
「前からあんなだったか?」
「顔に火傷があった女だろ」
「ああ、あの人か。ずいぶん変わったな」
そこまで聞こえて、ようやく分かった。
俺は毎日顔を合わせているから慣れてしまっているが、久しぶりにエレオノーラを見る客にとっては、かなり印象が違うのだろう。
治療を受けたことで、顔に残っていた火傷の痕は以前よりずっと目立たなくなっている。白銀の長い髪に整った顔立ちもあって、通りを歩いていた男が一度通り過ぎてから振り返り、そのまま屋台へ寄ってくることまであった。
「いらっしゃいませ」
エレオノーラはそんなことには気づいていないらしく、いつも通り笑顔で客を迎えている。
それがまた客を呼んでいる気もするが、本人には言わないでおいた。
昼にはまだ早いというのに、屋台の前にはすでに数人が並んでいる。
カレーそのものにも常連がついているので、全員がエレオノーラ目当てというわけではないだろう。それでも普段より男の客が多いのは、たぶん偶然ではない。
ふとセラフィナを見ると、彼女も同じことを考えていたらしく、エレオノーラへ視線を向けたあと、小さく笑った。
俺もそれ以上は何も言わず、次のライスを用意する。
「タケシさん、こちらをお願いします」
「ああ」
空いた皿を何枚か持ったエレオノーラが戻ってきた。
それを洗い場へ置くと、すぐに次の客のところへ向かう。
動きが軽い。
以前は忙しい時間が続くと、腕を動かしたあとに少し顔をしかめたり、客が途切れたところで椅子に腰を下ろしたりすることがあったが、今日は朝からほとんど休んでいない。
「エレオノーラ」
「はい?」
「身体、大丈夫か?」
「大丈夫ですよ」
答えながら、エレオノーラは右腕を上げた。
「ここまで動かしても、ほとんど引っ張られなくなりました」
「痛みは?」
「ありません」
嬉しそうにもう一度腕を動かしてみせる。
「疲れたら休めよ」
「はい」
ちょうど客に呼ばれ、エレオノーラはそちらへ戻っていった。
その後ろ姿を見送ってから、俺は屋台の隅に置いてある容器へ目を向ける。
今日からは、もう一つ新しいものを売ることにしていた。
これまでカレーと一緒に並べていた菓子パンは、昨日で販売を終えている。
元々、日本から持ち込んだものを試しに売り始めただけだったし、カレーを目当てに来る客が増えた今なら、店に合ったものを出したほうがいいだろうという話になった。
そこで代わりに用意したのが、カレーパンだった。
「そろそろ始めるか」
俺が容器を持ち上げると、セラフィナが頷いた。
昨日、日本の台所で何度か試作しているので、作り方はもう分かっている。
屋台で出しているものより具を細かくしたカレーを少し煮詰め、それを生地で包んで衣をつけてある。あとはここで揚げれば、熱々のまま出せる。
油を入れた鍋を火にかけると、セラフィナが温度を確かめ、しばらくして俺へ合図した。
一つ目を静かに入れる。
ジュワッと音が立ち、周囲へ香ばしい匂いが広がった。
「なんだ、それ?」
近くでカレーを食べていた常連の冒険者が、さっそく気づいた。
「今日から売るパンだよ」
「前に置いてあった甘いパンとは違うのか?」
「あれは昨日で終わり。今日からこっちに替えた」
セラフィナがカレーパンをひっくり返すと、衣が少しずつ色づいていく。
「中にカレーが入ってる」
「パンの中に?」
「ああ」
男が興味深そうに鍋を覗き込んだ。
その間にも揚げたパンとカレーの匂いが混ざり合い、通りを歩いていた人たちまでこちらを見るようになっている。
揚がった一つ目を網へ移すと、男はすぐに硬貨を取り出した。
「それ、一つくれ」
「熱いから少し待ったほうがいいぞ」
「分かった」
少し冷ましてから包みに入れて渡すと、男は端をかじり、中を確かめるようにもう一口食べた。
「うまいな」
その声を聞いていた別の客が立ち上がった。
「俺も一つくれ」
「俺も」
続けて二人がやってくる。
セラフィナと顔を見合わせ、そのまま次を油へ入れた。
試しに用意した数では、どうやら足りないかもしれない。
昼が近づくにつれて、客はさらに増えていった。
「カレー二つ。両方ライスで」
「はい」
「俺はカレーパンも一つ」
「ありがとうございます。少々お待ちください」
エレオノーラが注文を受けて代金を確認し、その内容をこちらへ伝える。
俺がライスを用意している横では、セラフィナがカレーをよそいながら油の様子にも目を配り、揚がったカレーパンを網へ移すと、間を置かず次を入れていく。
何度か試作しただけとは思えない手際だった。
最初の頃は三人で屋台に立っていても、客が重なるだけで慌ただしくなっていた。それが今では、誰が何をするのかいちいち確認しなくても料理が流れていく。
それでも今日は、追いつかないほど客が来た。
「次、ライス一つです」
「分かった」
「カレーパンは?」
セラフィナを見ると、網に並んだパンを示して指を三本立てた。
「揚がってるのは、あと三つだな」
「では、こちらのお客様までですね」
エレオノーラが列を確認し、その場で後ろの客にも伝える。
残り三つはすぐに売れ、次の分が揚がるまで少し待ってもらうことになったが、それでも帰る客はほとんどおらず、カレーを食べながら待つ者までいる。
「ずいぶん人気だな」
俺が言うと、セラフィナは嬉しそうに頷いた。
そのとき、会計をしていたエレオノーラのところから男の声が聞こえてきた。
「姉ちゃん、火傷ずいぶん良くなったな」
「あ……はい。ありがとうございます」
「最初は同じ人だって分からなかったぞ」
エレオノーラは少し驚いたあと、照れたように笑った。
「おかげさまで、以前よりずっと良くなりました」
「そうか。よかったな」
「はい」
男はカレーとカレーパンを受け取ると、そのまま席へ向かった。
エレオノーラは自分の頬へ軽く触れてから、また次の客を迎える。
少しして俺のところへ来たとき、何気ない様子で尋ねてきた。
「今日は、男性のお客様が多いような気がするのですが」
「そうだな」
「何か理由があるのでしょうか?」
「さあ」
俺はライスを盛りながら答えた。
向かいにいたセラフィナと目が合ったが、彼女も何も言わなかった。
結局、その日はカレーも用意していた分がすべてなくなり、カレーパンも仕込んでおいた分まで売り切れた。
最後の客を見送ったところで、俺はようやく椅子へ腰を下ろした。
「疲れたな」
セラフィナも隣に座り、額の汗を拭っている。
エレオノーラだけはまだ空いた皿を片付けていたが、それも終えると俺たちのところへ戻ってきた。
「お疲れさまでした」
「エレオノーラも座れよ」
「はい」
水を渡すと、彼女は一口飲んでから大きく息を吐いた。
「さすがに疲れました」
「今日は忙しかったからな」
「でも、身体は大丈夫です」
エレオノーラはそう言って、自分の腕を見た。
「こんなに長く動いていたのに、痛くなりませんでした」
セラフィナがその言葉に顔を上げる。
「以前なら、途中で一度は休んでいましたよね」
「ああ」
「治療を受けてから、少しずつ動きやすくなっているのは分かっていましたが……こんなに違うとは思いませんでした」
エレオノーラは手を開いたり閉じたりしながら、しばらく自分の腕を眺めていた。
疲れてはいるのだろうが、その表情は明るい。
「明日もこのくらい働けそうです」
「無理しない程度にな」
「はい」
片付けを済ませ、最後に今日の売上を数える。
一度数え終わったところで、俺は並べた硬貨を見直した。
「結構いったな」
「昨日より多いですか?」
「かなり」
カレー自体の数も出ているが、そこへカレーパンの売上が加わっている。
菓子パンを売っていた頃より注文される数も多く、カレーと一緒に買っていく客がかなりいた。
「カレーパン、続けてもよさそうだな」
セラフィナがすぐに頷く。
「明日は今日より少し多く仕込んでみるか」
今度はエレオノーラも頷いた。
「これだけ売れれば、かなり貯められますね」
「何を?」
「セラフィナの治療費です」
その言葉に、セラフィナがエレオノーラを見る。
「私の治療には、たくさんのお金を使っていただきました。ですから、今度は私もセラフィナのために稼ぎたいです」
セラフィナは何か言いたそうにしたものの、当然声にはならない。
代わりに首を横へ振った。
「遠慮することはありません。ずっと一緒にいてくれたのですから、今度は私の番です」
エレオノーラが笑う。
セラフィナはしばらく彼女を見ていたが、やがて諦めたように小さく頷いた。
「まあ、エレオノーラ一人に頑張ってもらう必要はないけどな」
俺も売上をしまいながら話に加わる。
「屋台の分もあるし、俺も日本で仕事してる。この調子なら、治療費も思ったより早く貯められそうだ」
セラフィナが自分の喉に触れた。
次の診察までは、もう少し。その先のことは医者に任せるしかないが、少なくとも金の心配ばかりしている必要はなさそうだった。
「明日も頑張りましょうね」
エレオノーラが声をかけると、セラフィナは頷いた。
俺も立ち上がり、空になった鍋や道具をまとめていく。
あとは明日の分をどれだけ仕込むか。帰ったら三人で相談することにして、俺たちは屋台を後にした。




