2-1 ミレーユ日本へゆく
エレオノーラの治療について報告する動画を投稿した翌日、俺たち三人は朝からアドリアノープルへ来ていた。
昨日の動画では、次はいよいよセラフィナの治療だと散々煽るような形になってしまったが、だからといって翌日から手術が始まるわけではない。診察や検査はすでに何度か受けているものの、次の診察まではまだ少し日があるため、今日も二人はいつも通り市場で屋台を開く予定だった。
市場へ着くと、俺は日本から運んできた商品や必要な荷物を屋台のそばへ下ろし、準備を始める二人に足りないものがないか確認した。
俺がするのは基本的にそこまでで、この屋台はエレオノーラとセラフィナの店であり、普段の営業にはほとんど関わっていない。日本から商品や材料を運んだり、朝に二人を送り届けたり、営業が終わる頃に迎えに来たりするのが、今の俺の役目だった。
最初の三日間こそ、二人だけで本当に店を回せるのか心配で近くにいる時間を増やしていたが、今ではその必要もなくなった。エレオノーラは接客にも会計にも慣れ、声の出せないセラフィナも筆談板や札を使いながら問題なく客を相手にしているので、俺が横から口を出すより二人に任せてしまったほうがうまくいく。
「じゃあ、ギルドに行ってくるよ」
エレオノーラが頷き、その隣でセラフィナも片手を上げたので、俺は二人に店を任せて市場を離れた。
特に急ぎの用事があるわけではない。ベルニエ男爵たちが国の役人へ引き渡されてからしばらく経っているので、その後の調査で何か分かったことがないか気になっていたし、ついでに良さそうな依頼が出ていれば確認しておきたかった。
市場通りを抜けて冒険者ギルドへ入り、見慣れた受付へ目を向けると、ちょうど冒険者の列が途切れたところだったらしく、ミレーユが机の上に溜まった書類を整理していた。
「あ、タケシさん。おはようございます」
「おはよう。今は暇そうだな」
「今だけですよ。もう少ししたら、依頼を探しに来る人たちでまた混みますから」
そう言いながら手際よく書類を分けていく姿を見ていると、誘拐事件に巻き込まれたことなど、ずいぶん前のことのように思えてくるが、実際にはそれほど昔の話ではない。
ベルニエ男爵の依頼を受けた盗賊に攫われ、俺が《異世界ナビ》を使って助け出したことが、その後の一連の事件へつながる最初のきっかけだった。それでも本人は以前と変わらず受付嬢を続けており、少なくとも普段の生活については、ほとんど元通りになっているようだった。
「そういえば、エレオノーラさんの治療はどうなったんですか?」
「ああ。予定してた大きな治療は、ひとまず終わったよ」
「本当ですか?」
それまで書類へ向けられていたミレーユの顔が、ぱっと明るくなった。
「よかった……。この前会ったときも、顔の傷がずいぶん目立たなくなっていましたから」
「身体のほうはまだ結構残ってるけどな。それでも引きつれが酷かったところはかなり良くなったし、本人も前よりずっと動きやすくなったって言ってる」
「そうですか。本当によかったです」
心から安心したように笑うミレーユには、日本についてある程度のことを話してある。
さすがに神様の交通事故に巻き込まれて【天神地祇】をもらっただとか、そのおかげで一日一つスキルを身につけられるだとか、そこまで何もかも説明したわけではない。ただ、俺がこの世界とはまったく別の世界から来ていることや、そこにはアドリアノープルとは比べものにならないほど大きな街があり、エレオノーラとセラフィナは現在そこで俺と一緒に暮らしていること、それに二人が日本の病院で治療を受けていることくらいは話していた。
ミレーユは、俺がこちらでは見たこともない食べ物や道具を持ち込んでいることを知っているし、カレーや菓子パンを売り始めたときにも仕入れ先を不思議がっていた。エレオノーラとセラフィナが日本で暮らしながら頻繁にこちらへ通っていることまで考えれば、いつまでも遠い国から来ているという程度の説明だけで誤魔化し続けるほうが不自然だった。
もっとも、初めてその話をしたときのミレーユは、信じていいものかかなり困っていた。
別の国ならまだしも、別の世界である。俺だって少し前まで異世界なんてものが本当に存在するとは思っていなかったのだから、口で説明されただけで簡単に納得しろというほうが無理な話だろう。
「そういえば、明日は休息日だったよな」
「はい。私もお休みですけど……どうかしました?」
「じゃあ、日本に来てみる?」
何気なく聞いたつもりだったのだが、ミレーユの手が止まった。
「…………はい?」
「日本。俺たちが住んでるところ。せっかく休みなら、一回くらい見てみる?」
ミレーユは何度か瞬きをしたあと、俺の顔をじっと見つめた。
「私が、ですか?」
「そう」
「連れていけるんですか?」
「エレオノーラとセラフィナは何度も行き来してるんだから、ミレーユも大丈夫だと思う」
俺が別の世界から来ているという話はすでにしてあるし、二人がそこで暮らしていることも知っている。それでも、自分自身がその世界へ行けるとは考えたことがなかったらしい。
「……本当に、一瞬で行けるんですか?」
「ああ。馬車も船も使わないし、何日も移動する必要もない」
「どのくらい遠いんです?」
「それは俺にも分からない。同じ世界じゃないから、距離で考えるものなのかも分からないしな」
俺自身、《異世界転移》がどういう理屈で地球とこちらをつないでいるのか知らないのだから、詳しく説明できるはずもない。
「どうする?」
改めて尋ねると、ミレーユは受付の向こうから俺を見たまましばらく考え、やがて小さく頷いた。
「……行ってみたいです」
それだけ言ったあと、今度は何かを決めたようにもう一度頷く。
「いえ、すごく行ってみたいです」
「じゃあ決まりだな。明日の朝、迎えに来るよ。それと、日本じゃその格好だとかなり目立つから、着いたら最初に服を買おう」
「服までですか?」
「日本に来てもらうんだし、最初の一着くらいはプレゼントするよ」
「でも、そこまでしてもらうのは……」
「その代わり、向こうで欲しいものがあったら自分で買えばいい。金は持ってきてくれれば、日本で使えるようにできるから」
服まで買ってもらうことにはまだ抵抗があるらしく、ミレーユは少し迷っていたが、今着ている服のままでは目立つと説明すると、最後には申し訳なさそうに頭を下げた。
「……分かりました。では、服はお言葉に甘えます」
「ああ。昼飯も俺が出すよ。観光に誘ったのはこっちなんだから、それくらいは気にしなくていい」
「そこまで決めてるんですか?」
「一日案内するつもりだからな」
そう答えると、ミレーユは少し呆れたように笑った。
「じゃあ、お土産は自分で買います」
「それでいこう」
待ち合わせの場所と時間まで決めたところで、俺は今日ここへ来た用事を思い出し、男爵たちの取り調べについて新しい知らせがないか尋ねた。
しかし、国の役人からギルドへ届いている情報は、今のところ以前聞いた内容から変わっていないらしい。ミレーユも何か分かれば教えてくれると言うので、俺はそれ以上仕事の邪魔をせず、依頼の掲示板へ向かった。
何枚か目を通してみたものの、今日は特に受けたい依頼も見つからなかったため、そのまま屋台へ戻ることにした。出入り口へ向かう途中で受付を振り返ると、ミレーユはさっきまでより明らかに楽しそうな顔で、次の冒険者を迎えていた。
◇ ◇ ◇
その日の夜、日本へ戻ってからミレーユを連れてくることを二人に話すと、エレオノーラもセラフィナも予想以上に喜んだ。
二人にとっても、ミレーユはアドリアノープルで知り合った大切な相手だ。屋台を始めるときにもいろいろ世話になっているので、日本を見せてやろうと言うと、すぐに明日はどこへ連れていくのかという話になった。
「せっかくだから、車で回るか」
俺がそう言うと、エレオノーラが首を傾げた。
「俺のタクシーなら四人で移動できるし、買い物した荷物も積めるからな。ミレーユに東京を見せるなら、そのほうが楽だろ」
電車に乗せるのも面白いとは思うが、それは次に来たときでもいい。何より、俺の仕事がタクシー運転手だということはミレーユにも話してあるものの、実際にその車を見たことはない。どうせ日本へ連れてくるのなら、俺が普段どんな車を運転しているのか見せながら東京を案内するのも悪くなかった。
それに、エレオノーラとセラフィナもすでに日本の車には慣れている。最初に乗せた頃とは違い、今ではシートベルトも自分たちで締められるし、セラフィナなど助手席に座ればカーナビを触って遊ぶくらいだ。
「ミレーユの服は、着いたら買いに行くことにしたよ」
そう話すと、エレオノーラがすぐに自分も選びたいと言い出し、セラフィナまで手を上げた。
日本へ来たばかりの頃には二人を服屋へ連れていくだけでも一苦労だったのに、今では他人の服を選ぶ側に回ろうとしている。そこは俺が口を出すより、二人に任せたほうがよさそうだった。
◇ ◇ ◇
翌朝、休息日ということもあり、普段より人通りの少ないアドリアノープルへ三人で転移し、約束していた場所へ向かうと、ミレーユはすでに待っていた。
普段ギルドへ出勤するときより少しだけ身軽な格好で、小さな鞄を一つ肩から下げている。
「おはようございます」
「おはよう。早かったな」
「こんな日に遅刻するわけにはいきませんから」
笑いながら答えたミレーユだったが、俺たちの姿を見るなり鞄へ手を入れ、小さな革袋を取り出した。
「昨日言っていたお金、持ってきました」
「ああ。それなら向こうへ行ってから替えよう。こっちで日本円を持ってても使い道ないからな」
「分かりました」
日帰りなのだから着替えを持ってくる必要もないし、日本で着る服については昨日のうちに話がついている。財布代わりの革袋と、普段持ち歩いている最低限のものがあれば十分なので、準備はそれで終わりだった。
俺たちは待ち合わせ場所を離れ、表通りから奥まった路地へ入った。人前で四人揃って消えるところを見られるわけにはいかないため、ここから先は周囲に誰もいないことを確かめてから転移するつもりだった。
ミレーユは一見するといつもと変わらないように見えたが、よく見ると落ち着かないらしく、歩いている間も何度か俺たちの顔を見ていた。
「緊張してる?」
「しますよ。別の世界へ行くんですから」
「それもそうか」
「タケシさんは慣れすぎなんです」
今では一日に何度も行き来することさえあるので忘れそうになるが、普通は別世界へ行くと言われれば、このくらい緊張して当然なのだろう。
人通りも近くに人の気配もないことを確かめて足を止めると、エレオノーラがミレーユの手を取り、セラフィナもその隣へ寄った。
「じゃあ、行こうか。ほんとに一瞬だから」
ミレーユが頷いたのを確認してから全員に触れ、《異世界転移》を使うと、次の瞬間には薄暗い路地の景色が消え、見慣れた自宅のリビングへ切り替わっていた。
「着いたぞ」
返事のないミレーユへ目を向けると、彼女はその場に立ったまま、天井の照明やテレビ、エアコンへ順番に視線を動かしていた。最後に窓の外へ広がる東京の街並みに気づくと、吸い寄せられるように窓際まで歩いていく。
「……ここが、日本なんですか?」
「ああ」
「本当に、一瞬だった……」
ちょうど窓の外を車が走っていき、ミレーユはそれを建物の陰へ消えるまで目で追ってから、俺を振り返った。
「今のは何ですか?」
「車。今日、あれに乗って東京を見て回るよ」
「あれに?」
「俺が仕事で使ってるのがあるから、それでな」
まだ家に着いたばかりだというのに、すでに聞きたいことがいくつもありそうな顔をしている。
「その前に、昨日の金を替えようか」
ミレーユから革袋を受け取って中身を確認し、《等価交換》を使う。銀貨や銅貨が消え、その価値に見合った日本円へ変わると、ミレーユは俺の手の中に現れた紙幣と硬貨を見つめた。
「これが……日本のお金ですか?」
「そう。紙のほうも金だから捨てるなよ」
「そんなことしません」
紙幣を光へ透かすように眺めてから、今度は硬貨を一枚ずつ確認しているので、簡単に金額の見方を教えて返すと、ミレーユはそれを大切そうに革袋へしまった。
「服と昼飯は昨日言った通り俺が出すから、その金は土産とか、自分で欲しいものがあったときに使えばいいよ」
「はい。でも、使いすぎないようにします」
「そのへんはミレーユなら心配してないよ」
受付で毎日のように金を扱っている人間に、今さら浪費の心配をする必要もないだろう。
こうして日本で使う金の準備も済ませたところで、いよいよミレーユの初めての日本観光が始まった。
◇ ◇ ◇
駐車場へ下りると、ミレーユは俺のタクシーを見たところで足を止めた。
「これが、タケシさんの?」
「そう。これにお客さんを乗せて、行きたい場所まで送るのが俺の仕事だよ」
ミレーユは車の周りをゆっくり歩き、タイヤを覗き込んだかと思えば、今度は窓から中を見ている。
「馬はどこにいるんです?」
「いないよ」
「では、何が引っ張るんですか?」
「何にも引っ張らない。これだけで走るんだ」
「これが……勝手に?」
「俺が運転するけどな。とりあえず乗ってみれば分かるよ」
三人に後部座席へ乗ってもらうと、シートベルトを知らないミレーユにエレオノーラが使い方を教え始めた。
少し前まで自分も知らなかったくせに、今では当たり前のようにベルトを引き出して留め方を説明している姿を見ると、なんとも不思議な気分になる。
全員がベルトを締めたのを確認してから俺も運転席へ乗り、車を動かすと、駐車場から道路へ出たところで後ろから小さく息を呑む音が聞こえた。
「動いてる……」
ミレーユは窓の外へ顔を向けたまま、道路を走っている他の車を次々と目で追っていた。
「本当に、馬がいないんですね」
「東京じゃ、馬車のほうが珍しいよ」
信号で止まれば隣に並んだ車を眺め、再び走り出せば今度は前方へ目を向ける。大通りへ出て何車線もの道路を車が行き交うようになると、窓の右を見たかと思えば左を見て、忙しそうに視線を動かしていた。
俺は普段仕事で走り慣れている道を選びながら、新宿の高層ビル群がよく見えるほうへ車を走らせた。
今日は売上を気にする必要もなく、ミレーユに東京を楽しんでもらえればそれでいい。普段なら客を目的地へ送り届けるために走っている道も、後ろから聞こえてくる驚きの声に耳を傾けながら進むと、見せてやりたいものがあちこちにあることに気づいた。
◇ ◇ ◇
午前中のうちに服を買いに行くと、そこから先は完全に三人の時間になった。
昨日のうちに話してあった通り、最初の一着は俺からのプレゼントということにしている。ミレーユ自身はまだ少し遠慮していたものの、エレオノーラとセラフィナに両側から連れていかれ、気づけば二人が選んだ服を次々と試着させられていた。
俺がそこへ混ざっても仕方がないので、少し離れたところで待っていると、しばらくしてミレーユが細身のパンツにブラウス、その上からカーディガンを羽織った姿で戻ってきた。
「どうですか?」
「似合ってるよ」
「それだけですか?」
「いや、ちゃんと似合ってるって。こっちの服にすると一気に日本に馴染むな」
それなら納得したらしく、ミレーユは鏡に映った自分の姿を見ながら少し照れたように笑った。その後ろでは、服を選んだエレオノーラとセラフィナが、自分たちのことのように満足そうな顔をしている。
約束通り会計は俺が済ませ、着てきた服は袋に入れて車へ置いておくことにした。
そのあと昼食へ向かうことになったのだが、何を食べたいか相談していると、エレオノーラが「ネコ」と言い出した。
以前二人を連れていった、猫型の配膳ロボットがいるファミリーレストランのことだ。隣ではセラフィナまで楽しそうに頷いているので、二人が何を期待しているのかは聞かなくても分かった。
俺もミレーユがどんな反応をするのか少し見てみたかったため、その案に乗ることにした。
◇ ◇ ◇
『お待たせしましたニャ』
料理を載せた猫型ロボットがテーブルの横まで来た瞬間、ミレーユは完全に動きを止めた。
エレオノーラはすでに笑いを堪えており、セラフィナも料理ではなくミレーユの顔ばかり見ている。
『お料理を取ってくださいニャ』
「……これ、何ですか?」
「料理を運んでくる機械」
「喋ってますよ?」
「喋るように作ってあるんだ」
「自分で動いてますよ?」
「それも機械がやってる」
ミレーユは猫型ロボットをじっと見つめたまま、なかなか料理を取ろうとしなかった。それでもエレオノーラが平然と自分の皿を下ろしたので、ようやく危険なものではないと判断したのか、恐る恐る自分の料理へ手を伸ばす。
全員分の料理を下ろすと、猫型ロボットは向きを変えて戻っていき、ミレーユはその後ろ姿が見えなくなるまで見送ってから、小さく呟いた。
「……日本、怖いです」
その瞬間、エレオノーラが吹き出し、セラフィナまで肩を揺らしたので、そこでようやく二人の狙いに気づいたらしく、ミレーユがゆっくりと振り返った。
「もしかして、私が驚くところを見るためにここへ連れてきました?」
二人が揃って目を逸らす。
「……覚えておきますからね」
口元は笑っているのに妙な迫力があり、エレオノーラとセラフィナの笑いが少しだけ小さくなった。
それでも食事が始まれば、ミレーユの関心は目の前の料理へ移ったらしく、今度は皿の上にあるものについて質問が続いた。俺たちはそれに答えながら昼食を済ませ、約束通り俺が会計を払ってから、再び車へ戻った。
◇ ◇ ◇
せっかくなので、午後は少し観光らしい場所も見せてやることにした。
買った服は車へ置いておけるし、これから土産が増えても持ち歩かずに済む。ミレーユが窓の外に何かを見つけて興味を示せば、近くに停められる場所を探して立ち寄ることにし、まずは東京の街を広く見渡せる場所へ向かった。
高い建物がどこまでも続いている光景を前に、ミレーユはしばらく言葉を失っていた。
「アドリアノープルより……ずっと大きいですね」
「人口だけでも全然違うからな」
「これ全部が一つの街なんですか?」
「見えてるところだけで終わりじゃないよ」
それを聞いたミレーユは、どこまで続いているのか確かめようとするように、もう一度遠くへ目を向けた。当然、見ただけで街の端が分かるはずもなく、やがて諦めたように小さく息を吐いたが、それでもなかなかその場を離れようとはしなかった。
その後も何か所か車で回り、途中で土産物を扱っている店へ入ったところで、ミレーユは朝に日本円へ交換した革袋を取り出した。
「ここは自分で買います」
「約束だったもんな。好きなの選べばいいよ」
家族や親しい人へ渡すつもりらしく、菓子を手に取っては裏返し、何が入っているのか俺やエレオノーラに尋ねながら選んでいく。
もちろん、日本で買ったなどと向こうで話すつもりはない。俺が日本のことを打ち明けたときも、ミレーユは他人へ話していいことではないとすぐに理解していたし、今回実際に日本へ来たことで、その重要性はむしろ以前より分かったはずだ。
「これなら大丈夫ですか?」
最終的にミレーユが選んだのは、個包装された菓子だった。
「日持ちもするし、いいんじゃない?」
「では、これにします」
会計は自分ですると言うので、紙幣と硬貨の使い方だけ横から教える。初めて見る日本円を一枚ずつ確認しながら店員へ渡し、釣り銭を受け取ると、ミレーユは少し誇らしげな顔で戻ってきた。
「買えました」
「初めての日本での買い物だな」
「はい。これは私が自分で買ったものです」
服も食事も俺が払っただけに、自分の金で土産を買えたことが嬉しいらしい。
向こうへ戻って誰かに出所を聞かれたとしても、珍しい行商人から買ったとでも言えば済むだろう。ミレーユなら、その程度の説明で余計なことまで口にする心配もない。
◇ ◇ ◇
夕方になって家へ戻ると、朝からずっと東京を見て回ったせいか、ミレーユはソファへ腰を下ろして大きく息を吐いた。それでも今日撮った写真をスマートフォンで見せると、すぐに身を乗り出して画面を覗き込んでくる。
車の中から撮った東京の街、三人で並んで撮った写真、新しい服に着替えたあとの一枚。エレオノーラのスマートフォンには、昼食のときに猫型ロボットを警戒しているミレーユを、こっそり撮った写真まで残っていた。
「これ、消してください」
「俺じゃない。エレオノーラが撮ったやつだぞ」
ミレーユがエレオノーラを見ると、本人は笑いながらスマートフォンを胸元へ隠し、その隣でセラフィナまで笑っている。
しばらく三人で騒いでいたミレーユだったが、やがて俺のスマートフォンへ目を向けた。
「これ、私も欲しいです」
「スマホ?」
「はい。エレオノーラさんもセラフィナさんも持っていますし、写真も撮れるんですよね?」
「向こうじゃ電話も通信もできないけど、写真を撮ったり、保存したものを見るくらいなら使えるよ。ただ、動かすには電気が必要だから、使い続けるなら時々こっちへ持ってきて充電しないといけないけどな」
「充電?」
「使って減った電気を、また入れてやるんだ。エレオノーラとセラフィナも、こっちへ戻ってきたときにやってるよ」
俺が部屋の隅で充電器につないである端末を指すと、ミレーユはそちらへ目を向け、何となく分かったような顔で頷いた。
「それなら、日本へ来たときにやればいいんですね。いくらくらいするんですか?」
いきなり値段を聞くあたり、朝に日本円へ交換したことで、自分でもいろいろ買えると分かったらしい。
「今日はやめとけ。最初から全部買うことないだろ」
「でも……」
「また来ればいいじゃん」
そう言うと、ミレーユの表情が変わった。
「また来てもいいんですか?」
「休みが合えばな。今日一回だけで終わりにする理由もないし」
「約束ですよ」
「ああ」
嬉しそうに笑うミレーユを見ながら時計を確認すると、そろそろアドリアノープルへ戻ったほうがよさそうな時間になっていた。
俺にとっては、自分の車で東京を走り、服を買って昼飯を食べ、何か所か観光しただけの一日だった。それでもミレーユにとっては、見るものも乗るものも食べるものも、ほとんどすべてが初めてだったのだろう。
帰る準備を始めた彼女は、自分で買った土産を大切そうに鞄へしまったあと、ふとエレオノーラとセラフィナを見た。
「エレオノーラさんたちが、こちらで治療を受けたいと思った理由が、少し分かった気がします」
俺も二人も、自然とミレーユへ目を向けた。
「こんなにたくさんのものを作れる世界なら、十年前の傷でも何とかしてもらえるかもしれないって、そう思いますよね」
そう言ってエレオノーラの顔を見たあと、ミレーユはセラフィナへ視線を移した。
「声、戻るといいですね」
セラフィナは少し驚いたようだったが、やがて自分の喉へ軽く触れてからゆっくりと頷き、エレオノーラもその横で静かに笑った。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか」
俺が立ち上がると三人も続き、買った服や土産をまとめて忘れ物がないことを確認した。
アドリアノープルへ戻る前に、俺は《索敵》で転移先の周囲に人がいないことを確かめてから全員に触れ、《異世界転移》を使った。
見慣れたリビングが消え、次の瞬間には、朝に出発した人気のない路地へ戻っていた。
表通りへ出ても、今日は休息日なので、普段の夕方ならまだ多くの人で賑わっている市場通りは静かで、開いている店も少ない。ミレーユはしばらく周囲を見回したあと、自分が抱えている土産の袋へ目を落とした。
「……本当に帰ってきた」
「一日どうだった?」
「すごかったです」
それだけ答えてから、ミレーユは少し考えた。
「でも、まだ全然見足りません」
「次に行くときまでに、行きたいところ考えとけば?」
「そうします。あと、スマホも買います」
「もう決定なんだ」
「自分のお金で買うんですから、いいじゃないですか」
確かにその通りなので、俺にはそれ以上止める理由もなかった。
朝まで別世界の存在をどこか現実として捉えきれていなかった人間とは思えない変わりように笑いながら、俺はミレーユを家まで送り届けた。
別れ際、彼女は土産の袋を抱え直し、改めて俺たちへ頭を下げた。
「今日はありがとうございました。日本のことは、誰にも話しませんから」
「ああ。悪いけど、それは頼むよ」
「分かっています。次に連れていってもらえなくなったら困りますし」
最後は少し悪戯っぽく笑い、エレオノーラとセラフィナへも手を振ってから家へ入っていった。
翌日になれば、彼女はまたいつものように冒険者ギルドの受付へ座り、誰かに休息日は何をしていたのかと聞かれたところで、家でゆっくりしていたとでも答えるのだろう。
グレンにも、他の職員にも、日本の存在は知られないまま、俺たちだけが知っている秘密が一つ増えた。




