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神様に轢かれて【天神地祇】を授かりました ~東京と異世界を行き来する二重生活~  作者: 廻間 朔夜


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2-0 とあるyoutube

 そのチャンネルを初めて見た人間が、まず目を奪われるのは、画面に映る二人の女だろう。


 一人は腰近くまで伸びた白銀の髪を持つ、二十代半ばほどに見える女だった。日本人ではないことは顔立ちを見ればすぐに分かり、整った目鼻立ちには思わず見入ってしまうものがある。ただ、右頬から顎、さらに首筋にかけて大きな火傷の痕が残っており、長袖の隙間から覗く手や腕にも同じような痕が見えた。


 もう一人は、それより少し濃い銀色の髪を持つ女で、こちらも日本人には見えない。白銀髪の女よりやや背が高く、服の上からでも分かるほど身体が引き締まっていて、特に腕や肩にはしっかりと筋肉がついている。モデルなのか、それとも何かのスポーツ選手なのかと考える者もいたようだが、本人がそれについて説明したことは一度もなかった。


 そして、この銀髪の女は、どれだけ動画を遡っても声を出さなかった。


 笑うときには大きく口を開けて肩を揺らし、怒れば眉間に皺を寄せ、驚けばこれでもかというほど目を見開く。何か言いたいことがあれば身振り手振りを交えたり、手元の筆談板に猛烈な勢いで文字を書いたりするので、感情そのものは非常に分かりやすい。それなのに、楽しそうに笑っている場面でも、男へ勢いよく抗議している場面でも、彼女の声だけは一度も聞こえてこないのだった。


 そんな目立つ二人と一緒にいる三人目が、これまた妙だった。


 四十代くらいの日本人男性で、外国人らしい美女二人と並んでいるのだから、こちらにも何かあるのではないかと思うのだが、少なくとも画面越しに見る限りでは、どこからどう見てもごく普通のおじさんだった。


 芸能人のような容姿をしているわけでも、YouTuberらしい軽妙な喋りができるわけでもなく、動画の編集技術も特別高いわけではない。たまにカメラの位置がおかしかったり、撮影中なのに本人が画面から消えてしまったりすることさえあり、見ている側が「そこは切っておけよ」と言いたくなる場面も珍しくなかった。


 ところが、その普通のおじさんと二人の女が一緒にいると、なぜか妙に面白い。


 チャンネルが開設されたばかりの頃は、二人に日本の食べ物や飲み物を試してもらう動画が多く、特に初期に投稿された炭酸飲料の動画は、多くの人にチャンネルが知られるきっかけになった。


 銀髪の女が恐る恐るペットボトルに口をつけ、一口飲んだ瞬間、目を見開いて口元を押さえる。その直後には「何を飲ませた」とでも言いたげな形相で男を睨みつけ、もう絶対に飲まないと言わんばかりにボトルをテーブルへ戻したくせに、しばらくすると横目でちらちらと確認し始めるのだ。


 やがて男が白銀髪の女と話している隙にそっと手を伸ばし、二口目を飲んではまた顔をしかめるのだが、今度はボトルを置こうとしない。口の中に残る刺激を確かめるようにしばらく考えたあと、とうとう三口目まで飲んでしまった。


 その一連の様子が視聴者にはよほど面白かったらしく、コメント欄には「絶対気に入ってるだろ」「二口目から完全に自分の意思で飲んでる」「この銀髪の人リアクション良すぎる」といった書き込みが並んだ。その横で白銀髪の女が腹を抱えて笑っている姿も含めて、動画はチャンネル開設直後とは思えないほど再生されることになった。


 それからも、三人は似たような動画をいくつも投稿した。


 白銀髪の女が初めてプリンを食べ、口に入れた瞬間に目を丸くしてから、何度もスプーンと容器を見比べる。一方、銀髪の女は梅干しを口に入れてしばらく完全に動かなくなったかと思えば、涙目になりながら男へ無言の抗議を始める。ファミリーレストランへ連れていけば、料理を運んできた猫型の配膳ロボットを二人揃って凝視し、特に銀髪の女などは椅子から立ち上がって警戒する始末だった。


 どうやら、日本へ来て間もない外国人らしい。


 最初のうちは視聴者の多くもその程度に考えており、日本では当たり前のものにここまで驚くのなら、よほど文化の違う国から来たのだろうと思っていた。


 白銀髪の女は男と聞き慣れない言葉で会話し、銀髪の女も身振りや筆談でそのやり取りに加わっている。彼女が筆談板に書くのは見慣れない文字だったが、画面には日本語の字幕が付くため、視聴者も三人の会話を追うことができた。


 当然、「どこの国の人なのか」「何語を話しているのか」という質問は何度もコメント欄へ書き込まれたものの、そのあたりについて男が詳しく説明することはなかった。


 ただ、動画が増えるにつれて、日本へ来たばかりというだけでは説明できないことも、少しずつ目につくようになった。


 白銀髪の女――エレオノーラという名前だと紹介された彼女は、暑い日でも肌を隠す服を着ていることが多かった。顔と首、それに手や腕の一部に火傷があることは最初から分かっていたものの、本人が傷について話すことはなく、カメラも必要以上にそこを映そうとはしない。


 銀髪の女――セラフィナについても同じで、どれほど動画が増えても一度として声を出さなかった。


 単に無口なのだろうか。それとも、日本語が話せないため、カメラの前では黙っているのだろうか。


 そんな疑問を抱きながら動画を見続けていた視聴者たちに、二人が初めて事情を明かしたのは、チャンネルを始めてからしばらく経った頃だった。


 その日投稿された動画には食べ物も飲み物も並んでおらず、三人がいつものリビングで座っているだけだった。『二人のことについて、少し話します』という簡素なタイトルも含め、それまでの動画とは明らかに雰囲気が違っていた。


 冒頭で男――タケシは二人の名前を改めて紹介すると、少し言葉を選びながら事情を説明し始めた。


 エレオノーラとセラフィナは、十年ほど前に大きな争いと火災に巻き込まれ、そこで重い傷を負ったのだという。詳しい場所や事情については話せないと前置きしたうえで、まず説明されたのがエレオノーラの火傷だった。


 視聴者の多くは、それまで彼女の火傷は顔や首、それに腕の一部だけだと思っていたのだが、実際には身体のかなり広い範囲に及んでいた。


 首から肩、腕、背中、胸部、腹部、さらに脚にまで古い火傷の痕が残っており、皮膚が引きつれている場所もある。そのため、十年という時間が経過した今でも、身体を大きく動かす際に不自由を感じることがあるという。


 動画で身体を直接見せたわけではなく、本人の了承を得たうえで腕の一部だけを映し、それ以外は簡単な図を使ってタケシが説明した。それでも、当時の火傷がどれほどひどいものだったのかは十分に伝わった。


 しかし、エレオノーラが長年苦しんできたものは、身体に残った傷だけではなかった。


「これ、本人に話していいって言われてるんで話しますけど、エレオノーラは火傷の痕を人に見られるのがすごく怖いんです」


 タケシはそう前置きすると、隣にいる彼女の様子を確かめながら説明を続けた。


「特に知らない人にじっと見られたりすると、身体が震えて動けなくなることがあって、ひどいときには引きつけみたいになっちゃうこともあります。だから、外へ出るだけでも本人にとっては大変なんですよ」


 そこで初めて、過去の動画を見続けてきた視聴者たちの中で、いくつもの場面がつながった。


 暑い日でも長袖を着ていたのは、単にそういう服が好きだったからではない。外を歩くとき、知らない人とすれ違うたびにタケシの後ろへ隠れるようにしていたことも、人の多い場所では楽しそうだった表情が急に硬くなっていたことも、日本へ来たばかりで慣れていないというだけではなかったのだ。


 十年前に負った火傷を十分に治療することができないまま、その傷とともに生きてきた。その間には人に見られ、驚かれ、ときには露骨に嫌な顔をされることもあったという。


 そんな経験を何年も積み重ねた結果、他人の視線そのものが怖くなってしまったのだった。


 事情を知ったコメント欄には、それまでの動画とは違う言葉が並んだ。


『そんな事情があったのか』


『普通に日本観光してる外国人だと思ってた』


『無理に傷を見せる必要ないからね』


『本人が嫌なら治療の動画も撮らなくていいと思う』


 そして動画の後半では、もう一人のセラフィナについても説明された。


 彼女は無口なのでも、日本語が話せないから黙っているのでもなく、声を出したくても出すことができなかった。


 十年前、セラフィナは喉を斬られ、そのうえ周辺にひどい火傷を負った。刃物による傷と火傷、その両方によって喉に深刻な損傷が残り、傷口が塞がったあとも発声に必要な部分が正常に働かなくなってしまったのだという。


 それを聞けば、彼女の表情や身振りがやたらと大きい理由にも納得がいった。


 嬉しいときは満面の笑みを浮かべ、怒れば全身で怒りを表現し、何か伝えたいことがあれば筆談板へ猛烈な勢いで文字を書く。十年間、声以外の方法で自分の意思を伝え続けてきた彼女にとって、それはすでに当たり前のことになっていたのだろう。


 ただ、その動画は二人の過去を明かすだけでは終わらなかった。


「二人とも、今、日本の病院で診てもらっています」


 タケシがそう話すと、それまで静かに聞いていたエレオノーラが少しだけ笑い、セラフィナも小さく頷いた。


「十年前の傷なんで、もちろん完全に元通りにするのは難しいそうです。ただ、何もできないわけじゃないって言ってもらえました。エレオノーラは形成外科で火傷痕を診てもらっていて、セラフィナは耳鼻咽喉科と形成外科です」


 そこで一度言葉を切ったタケシは、セラフィナへ目を向けてから続けた。


「特にこっちは、喉を斬られた傷と火傷が重なってるんで簡単ではないみたいですけど、何回か手術をすれば、また声を出せるようになる可能性はあるそうです」


 その説明を聞きながらセラフィナは何度も頷いていたのだが、タケシが「ただし、一回じゃ済まないかもしれないからな」と本人へ念を押した途端、露骨に嫌そうな顔をした。


「いや、今さらそんな顔するなよ。診察のとき説明されたろ」


 セラフィナは首を横に振り、もう一度「聞いてただろ」と言われても、さらに大きく振ってみせる。


「お前、都合悪くなると聞いてなかったことにするよな」


 横でエレオノーラが笑い始めると、セラフィナは抗議するようにタケシの肩を何度も叩き、今度はタケシが「痛い痛い!」と身体をよじった。


 重かった動画の空気はそのやり取りでほどけ、最後の一分ほどはいつもの三人に戻っていた。


 そして、それからしばらくして、チャンネルには新しい種類の動画が加わることになった。


 エレオノーラの治療記録だった。


 ◇ ◇ ◇


 もちろん、手術そのものを撮影しているわけではない。


 病院内では撮影できる場所も限られているため、基本的には治療を受ける前の様子と、帰宅してからの経過、それに医師から説明された内容をタケシが可能な範囲で紹介するという形式だった。


 最初の治療記録が投稿されたとき、エレオノーラはすでに一回目の治療を受けていた。その動画では、現在の様子を見せながら、初めて形成外科へ行った日のことを二人で振り返っていた。


 病院へ向かう前から、エレオノーラはひどく緊張していたという。


 知らない場所で、知らない医師に、自分が十年間隠し続けてきた身体を見せなければならない。タケシが付き添っているとはいえ、治療のために必要だと理解することと、実際に傷を見せることは別だった。


 診察室へ入る直前には帰りたくなり、タケシの服を掴んだまま、なかなか手を離せなかったと本人が話すと、タケシも「あのときは本当に帰るかと思った」と頷いていた。


 それでも診察を受け、医師から説明を聞いた。


 完全に元の皮膚へ戻すことも、傷痕をすべて消すこともできない。それでも、皮膚の引きつれを改善して身体を動かしやすくしたり、顔を含めた目立つ傷を今より改善したりできる可能性はあるという。


 その説明を聞き、エレオノーラは治療を受けることを決めたのだった。


 ただ、十年前から残っている傷は、身体の広い範囲に及んでいる。一度の治療ですべてを終えられるわけではなく、顔や首、身体の引きつれが強い場所などを優先しながら、何度かに分けて治療を進めることになった。


 それから、治療と回復を待つ日々が幾度も繰り返され、その間には季節も移り変わっていった。


 動画を追い続けている視聴者には、治療が少しずつ進んでいることが分かった。右頬から顎、首にかけて残っていた大きな瘢痕は徐々に目立たなくなり、皮膚の引きつれが軽くなったことで表情も以前より自然になっていく。首や肩を動かせる範囲も広がり、本人が嬉しそうに腕を上げてみせる動画もあった。


 もちろん、傷が消えたわけではないし、治療を受けた翌日に綺麗な皮膚になるような都合のいい話でもなかった。治療直後には以前より目立つこともあり、タケシが「ここから落ち着くまで時間がかかるそうです」と説明する回もあった。


 それでも、十分な時間を置いてから最初の動画と並べて見れば、違いは明らかだった。


 そして、変わっていったのは傷痕だけではなかった。


 初期のエレオノーラは、カメラを向けられると無意識に火傷のある側を隠そうとしていた。髪を下ろして右頬を覆い、右側から撮影されそうになると少し身体の向きを変えることも珍しくなかったのだが、治療が進むにつれて、そうした仕草が少しずつ減っていった。


 ある動画では髪を後ろでまとめており、次に投稿された動画では半袖の服を着ていた。


 外を歩いているとき、すれ違った人がエレオノーラの顔を振り返って見たこともあったが、そのときも彼女は立ち止まらず、タケシやセラフィナと歩き続けた。一瞬だけタケシの袖に触れたものの、声をかけられると頷き、そのまま前を向いたのだった。


 以前から見ていた視聴者にとっては、傷痕が薄くなっていくことと同じくらい、その変化が印象に残った。


『最初の頃と表情が全然違う』


『顔の治療もすごいけど、普通に半袖着てることにびっくりした』


『前だったら人に見られた瞬間、タケシの後ろに隠れてたよな』


『少しずつ外に慣れてきてるんだね』


 そんなコメントが増えるにつれて、視聴者たちは三人を、単なる「白銀髪の女」「銀髪の女」「普通のおじさん」として見なくなっていた。


 全身に古い火傷を負いながら、少しずつ前へ進んでいるエレオノーラ。喉を斬られ、さらに火傷まで負ったことで声を失ったものの、誰よりも表情豊かなセラフィナ。そして、なぜ二人と暮らしているのか詳しい事情はいまだによく分からないが、病院へ連れていき、撮影をし、二人から好き放題に弄られているタケシ。


 チャンネル登録者も少しずつ増え、治療動画が投稿されるたびに、経過を気にするコメントが寄せられるようになった。


 そうして迎えた今日、待ち続けていた一本が投稿された。


 サムネイルの中央にいるのはエレオノーラで、右頬から首にかけて傷痕はまだ残っている。それでも、最初の動画を知っている者なら、一目見ただけでどれほど変わったのか分かる姿だった。


 タイトルには、『エレオノーラ治療編・最終回』と書かれていた。


 ◇ ◇ ◇


「はい、どうも」


 動画が始まると、いつものリビングでタケシが片手を上げ、その後ろにあるソファにはエレオノーラとセラフィナが並んで座っていた。


「今日はタイトルにもある通り、エレオノーラの治療についてなんですけど、先に結果から言っちゃいます。先生とも相談して、エレオノーラの大きな治療はいったんこれで終了することになりました」


 その言葉に、エレオノーラは少し照れたように笑い、カメラへ向かって頭を下げた。


 右頬から顎、首にかけて傷痕はまだあり、よく見れば周囲とは皮膚の色も違う。それでも初期の動画で目立っていた大きな瘢痕はかなり改善され、何より、以前のように髪で隠そうとしていなかった。


「もちろん、これで完全に治ったって意味じゃないです。傷痕はまだありますし、身体のほうにもかなり残っています。今後も経過を見てもらって、必要があれば追加で治療することもあると思います。ただ、最初に先生と相談して決めたところまでは来たので、ここでいったん区切りにしようということになりました」


 説明を終えたタケシが「どう?」と尋ねると、エレオノーラは右頬へ手を添え、少し考えてから自分たちの言葉で答えた。


 画面には、その言葉を訳した字幕が表示された。


『まだ、自分の顔ではないような気がします』


「前にもそれ言ってたな」


 タケシが笑うと、エレオノーラも頷きながら続けた。


『十年間、毎日同じ顔を見ていました。それが治療のたびに少しずつ変わっていくので、朝、鏡を見ると知らない人がいるような気がするときがあります』


「それは嫌なの?」


 そう尋ねられたエレオノーラは、すぐに首を横に振った。


『いいえ。とても嬉しいです』


 答えてから、彼女は右腕の袖を自分で捲り上げた。そこにもまだ火傷痕は残っているものの、以前の動画で見せたときと比べれば、盛り上がりや引きつれが目立たなくなっている。


「身体のほうも何か所か治療してもらっています。ただ、さすがに全部映すわけにはいかないんで、見せられるのはこの辺までです」


 タケシが説明すると、エレオノーラが隣から何かを言った。


「え? いや、それは駄目だろ」


 彼女は首を傾げ、さらに言葉を重ねたが、タケシは即座に首を振った。


「再生数の問題じゃねえよ」


 そこで画面下に、エレオノーラの発言を訳した字幕が出た。


『全部見せたほうが、たくさんの人が見てくれるのではありませんか?』


 それを見た視聴者から、早くもコメントが寄せられた。


『エレオノーラさんYouTubeに染まってるw』


『タケシ止めろw』


『そこは全力で止めて正解』


『再生数って概念教えたの誰だよ』


 タケシも同じ疑問を抱いたらしく、ゆっくりとセラフィナへ顔を向けた。


「お前か?」


 視線を向けられたセラフィナは、一瞬だけ目を逸らしてから首を横に振った。


「絶対お前だろ。なんで目合わせないんだよ」


 何も知らないと言わんばかりの顔をしたセラフィナは、そのまま立ち上がって台所へ向かおうとしたのだが、タケシに腕を掴まれて引き止められた。


「逃げんな」


 セラフィナは振り返ると、空いている手で筆談板を取ろうとする。ところがタケシがその前に「とりあえず座れ」と促したため、不満そうに眉を寄せながら、結局は元の場所へ腰を下ろすことになった。


 その様子を見ていたエレオノーラは、すでに笑いを堪えられなくなっていた。


 しばらく三人で騒いだあと、タケシは「まあ、冗談はこのくらいにして」と話を戻した。


「身体のほうは、顔よりまだ傷痕がかなり残っています。特に背中や脚ですね。全部の傷を完全に消すのは難しいそうですし、手術をすればするほどいいってものでもない。身体への負担もあるので、皮膚の引きつれが強くて動きに影響しているところや、本人が特に気にしているところを優先して治療してもらいました」


 その説明を聞きながら、エレオノーラは両腕を頭上まで持ち上げ、そのままゆっくりと肩を回してみせた。


「最初に診てもらったときは、肩からこの辺が結構引っ張られてたんですよ。本人は十年間ずっとその状態だったから、それが普通だと思ってたみたいですけど、治療してもらってからはかなり動かしやすくなったそうです」


 エレオノーラはもう一度腕を回すと、なぜか得意げに胸を張った。


「いや、なんでそこで勝ち誇るんだよ」


 そう言われても本人は満足そうで、隣のセラフィナまで肩を揺らして笑っている。タケシもつられて笑ったものの、しばらくすると今度はセラフィナへ顔を向けた。


「それで、エレオノーラの大きな治療はいったんここで区切りなんですけど、次はこっちですね」


 突然話を振られたセラフィナは、自分を指差して目を丸くした。


「そう、お前。今から初めて聞いたみたいな顔するなよ」


 途端に嫌そうな顔をしたセラフィナが首を横に振っても、タケシは相手にせず説明を続けた。


「前の動画でも話した通り、セラフィナの喉についても病院で診てもらっています。こっちは火傷だけじゃなくて、十年前に喉を斬られた傷もあるので、エレオノーラとはまた事情が違います」


 セラフィナは自分の喉へ手を当てた。そこには今も古い傷痕が残っており、タケシは彼女の仕草を見てから、カメラへ向き直った。


「刃物で傷ついたところと火傷したところが重なっていて、発声に関係する部分にも影響が残っているそうです。だから、一回の手術ですぐ普通に喋れるようになる、みたいな簡単な話じゃありません」


 そこを曖昧にしたまま期待だけを膨らませることはせず、タケシは診察で説明された内容を、自分の言葉で伝えていった。


「何回かに分けて手術が必要になる可能性があるし、最終的にどこまで声が戻るかも、まだ分からないそうです。普通に会話できるくらいになるかもしれないし、かすれた声になるかもしれない。大きな声は難しいかもしれないし、思ったほど改善しない可能性もあります。ただ、先生からは、発声できるようになる可能性はあると言ってもらっています」


 セラフィナは真剣な顔で聞いていたが、やがてテーブルの上にあった筆談板を取り、何かを書いてカメラへ向けた。


 見慣れない文字の下に、日本語の字幕が付いた。


『声が出たら、最初にタケシの悪口を言う』


「おい」


 エレオノーラが吹き出す横で、タケシは筆談板と本人の顔を交互に見た。


「十年ぶりに声が出て最初の一言が俺の悪口だったら、さすがに泣くぞ」


 するとセラフィナは一度文字を消してから、すぐに書き直した。


『では二言目』


「順番の問題じゃねえよ」


 それでも懲りずに『三言目なら?』と書き足したため、タケシはとうとう声を張り上げた。


「そういう問題でもねえ!」


 声こそ出ないものの、セラフィナは肩を揺らして楽しそうに笑い、その隣ではエレオノーラも腹を抱えている。


 そのやり取りを見た視聴者からも、次々とコメントが寄せられた。


『セラフィナ治療編くるのか』


『声出たらこっちまで泣きそう』


『最初の一言が悪口宣言なの草』


『この人絶対もともとめちゃくちゃ喋るタイプだろ』


 その予想は、おそらく正しかった。


 少なくともエレオノーラは、声を失う前のセラフィナを知っているし、タケシも彼女がかなりのおしゃべりだったという話を聞いていた。


「まあ、セラフィナの話はまた今度にしよう。今日はエレオノーラの治療編最終回だから」


 タケシがそう言うと、エレオノーラも笑いを収め、改めて姿勢を正した。


「実は、最初に治療を始めたとき、俺はこれを動画にするつもりなかったんですよ。病気とか怪我ってかなり個人的なことだし、ましてエレオノーラにとって火傷の痕は、ずっと人に見られたくなくて隠してきたものですから」


 初めて形成外科へ行った日のことを、タケシは今でも覚えていた。


 病院へ向かう前からエレオノーラはひどく緊張しており、診察室へ入る直前には、本当に帰ってしまうのではないかと思ったほどだった。自分の服を掴む指に力が入っているのを見れば、無理に連れていくべきではなかったのかという迷いも生まれた。


 それでもエレオノーラは、少し待ってほしいと頼んだあと、自分から手を離して診察室へ入ったのだった。


「だから、俺は撮らなくてもいいと思ってました。治療だけちゃんと受ければ、それでいいだろって。最初の診察も、一回目の治療も、カメラは持っていってません」


 ところが、一回目の治療が終わったあと、これからの経過を動画にしたいと言い出したのは、エレオノーラ本人だった。


 理由を尋ねられた彼女は、少し考えてから答えた。


『私と同じような人がいるかもしれないと思いました』


 そのときの言葉が字幕として表示されると、タケシは隣にいる彼女を見てから説明を続けた。


「昔の傷だからもうどうにもならないと思ってる人とか、自分みたいに、傷を人に見られるのが怖くて病院へ行けない人がいるかもしれない。そういう人が見てくれるなら、自分の治療を動画にしてもいいって言ったんです」


 エレオノーラは静かにカメラを見ていた。


 以前の彼女なら、火傷のある右側を正面から映されれば、無意識に顔を背けていたはずだった。それが今は、髪で隠そうともせず、真正面からレンズを見ている。


「もちろん、同じ火傷でも状態は人によって違うんで、エレオノーラと同じ治療をすれば同じようになるって話じゃありません。そこはちゃんと病院で診てもらってください。ただ、少なくとも本人は、治療を受けて良かったと思ってます」


 タケシがそう言うと、エレオノーラは大きく頷き、自分たちの言葉でゆっくりと話し始めた。


 身体が以前より動かしやすくなったこと。鏡を見るのが嫌ではなくなったこと。そして、外を歩いていて誰かに顔を見られても、以前ほど怖くなくなったこと。


 タケシが一つずつ日本語へ訳していくうちに、エレオノーラの目には少しずつ涙が浮かんできた。


「……大丈夫か?」


 声をかけられた彼女は頷き、泣いていないと言うように笑ってみせたのだが、目元にはすでに涙が溜まっていた。


「いや、それで泣いてないは無理があるって」


 タケシが苦笑したところで、横からそっとティッシュが差し出された。


 セラフィナだった。


 エレオノーラはそれを受け取り、目元を拭いながら彼女へ笑いかける。セラフィナも何も言わずに肩を軽く叩き、その手をしばらく置いたままにしていた。


 十年前、二人は同じ場所ですべてを失った。


 エレオノーラは全身に重い火傷を負い、セラフィナは喉を斬られ、さらに火傷を負ったことで声を失った。それから十年間、傷を抱えたまま生きてきた二人が、まったく別の世界にある日本という国で治療を受けることになるなど、当時は想像したことすらなかっただろう。


 もちろん、動画を見ている視聴者はそんな事情を知らない。


 二人が異世界から来たことも、エレオノーラが滅亡した王国の王女だったことも、セラフィナがその王女に仕えていた騎士だったことも、画面には映らなかった。


 視聴者に見えているのは、長く傷に苦しんできたエレオノーラと、彼女の肩にそっと手を置くセラフィナ、それに二人を見守るタケシの姿だった。


 その様子を見ているだけでも、三人が今日という日をどれほど大切に迎えているのかは伝わっていた。


「さて、最後なんですけど」


 しばらくしてタケシが空気を変えるように手を叩くと、エレオノーラは急に緊張した顔になった。


「そんな顔すんなって。昨日練習しただろ?」


 彼女は頷いたものの、明らかに不安そうだった。


「今日は最後に、エレオノーラ本人から見てくれた皆さんへ挨拶があります。日本語で」


 そう説明されると、エレオノーラは膝の上で両手を握った。


「間違えたって大丈夫だよ。意味が伝わればいいんだから」


 それでも彼女が何かを尋ねたため、タケシは少し呆れたように笑った。


「発音? 今さら気にするなよ。前にコンビニで店員さんから『温めますか』って聞かれて、自分の名前聞かれたと思って『エレオノーラ』って答えただろ」


 途端にエレオノーラの顔が赤くなり、隣ではセラフィナが声もなく大笑いする。


「お前も笑うな。レジ袋いるか聞かれたとき、何言われたか分からなくて警戒してたくせに」


 今度はセラフィナの笑いが止まり、代わりにエレオノーラが笑い始めた。


「はいはい、どっちもどっちだから。それじゃ最後、お願いします」


 タケシはそう言って画面の外へ移動したが、エレオノーラは不安になったのか、隣にいたセラフィナの腕を掴んだ。セラフィナが頷き、その場に残ってくれるのを確認してから、ようやく一度大きく息を吸い、カメラへ向き直った。


 日本へ来てから、簡単な言葉なら少しずつ覚えている。


 挨拶や買い物で使う言葉、料理の名前、それにタケシやセラフィナとふざけるための言葉まで覚え始めているものの、これほど長く日本語だけで話すのは初めてだった。


 エレオノーラは膝の上で両手を握り直し、少し緊張した表情のまま口を開いた。


「ミナサン……イママデ、ミテクレテ……アリガト、ゴザイマシタ」


 そこで一度、画面の外にいるタケシを見ると、「大丈夫。そのまま」と声が返ってきた。その言葉に小さく頷き、彼女はもう一度カメラへ視線を戻した。


「ワタシ、ニホン、キテ……ビョーイン、イキマシタ。サイショ、トテモ……コワカッタ、デス」


 一語ずつ、昨日練習した言葉を思い出しながら続けていく。


「カオ、ミセマス。カラダ、ミセマス。ワタシ……トテモ、コワイ、デシタ」


 文法も発音も完璧ではなかったが、何を伝えたいのかは十分に分かった。エレオノーラは途中で言葉に詰まりながらも、隣に座るセラフィナを見て、また話し始めた。


「デモ、センセイ、ヤサシイ。セラフィナ、イッショ。タケシモ……」


 そこで一度止まり、画面の外へ目を向ける。


 緊張が少しほぐれたのか、その顔には何かを思いついたような笑みが浮かんでいた。


「……トキドキ、ウルサイ」


「おい!」


 すぐにタケシの声が飛んできたため、エレオノーラは堪えきれずに笑った。その横ではセラフィナが猛烈な勢いで頷いており、今度はそちらにも「お前は頷くな!」と声が飛ぶ。


 セラフィナが知らん顔で姿勢を正すのを見て、エレオノーラはさらに笑ったが、やがて呼吸を整えると、もう一度カメラへ向き直った。


「デモ、タケシモ、イッショ。ダカラ……ダイジョーブ、デシタ」


 そう続けてから、自分の右頬へ手を添えた。


「ココ、マダ、キズ、アリマス。カラダモ……マダ、イッパイ、アリマス」


 以前なら、傷について話そうとするだけで表情が曇っていた。それが今は、頬へ手を当てたまま、少し照れたように笑っている。


「デモ……イマノ、ワタシ、スキ、デス」


 隣にいるセラフィナが、ゆっくりと彼女を見た。


 エレオノーラは一度言葉を切り、次に伝えたいことを確かめるように、小さく息を吸った。


「マエノ、ワタシモ……キライ、ジャナイ、デス」


 画面の外にいるタケシも、今度は何も言わなかった。


 エレオノーラは頬から手を離して膝の上へ戻すと、レンズを見つめたまま最後の言葉を続けた。


「キズ、ゼンブ、ナクナラナイ。デモ……ダイジョーブ、デス。ミナサン、タクサン、オウエン……アリガト、ゴザイマシタ。ワタシ……トテモ、ウレシイ、デス」


 言い終えて深く頭を下げ、再び顔を上げたときには、緊張の中にもほっとしたような笑みが浮かんでいた。


 これで終わりなのだろうと視聴者の多くが思ったところで、エレオノーラは隣にいるセラフィナと顔を見合わせた。


 二人の表情を見る限り、どうやらまだ何かあるらしい。


「ん? まだなんかあんの?」


 タケシが尋ねると、エレオノーラは笑顔のままカメラへ向き直った。


「ツギハ――セラフィナ、デス」


 隣でセラフィナが大きく頷いた。


「セラフィナ、ビョーイン、ガンバリマス。ミナサン、オウエン、ヨロシク、オネガイシマス!」


 言い終えると二人揃って頭を下げ、その姿を見たタケシの呆れた声が、画面の外から聞こえてきた。


「最後の宣伝だけ、妙にすらすら言えるんだな……」


 それを聞いた二人が顔を上げ、楽しそうに笑ったところで、動画は終わった。


 ◇ ◇ ◇


 投稿から一時間も経たないうちに、コメント欄はこれまで以上の勢いで伸び始めた。


『治療完走おめでとう!』


『最後の挨拶は反則だろ』


『今の私が好きです、で泣いた』


『前の私も嫌いじゃないって言えるのすごくいいな』


『最初の炭酸動画から見てるけど、本当に表情変わった』


『傷が薄くなったことより、普通にカメラ見て話してるのが一番変わった気がする』


『タケシときどきうるさいで泣いた涙返せw』


『セラフィナが全力で頷いてるの草』


『次はいよいよセラフィナか』


『声が出たら俺まで泣くかもしれん』


『この三人ずっと見てたい』


 再生回数は今までの動画を上回る勢いで伸び、それに合わせてチャンネル登録者も増えていった。


 最初は、ほんの思いつきだった。


 異世界から来たセラフィナに炭酸飲料を飲ませたところ、あまりにも面白い反応をしたので動画にしてみた。タケシとしてはそれだけで、YouTuberとして有名になりたいわけでも、本格的に動画で稼ごうと思っていたわけでもなかった。


 それなのに、動画を何本か投稿するうちに視聴者が増え、いつの間にかエレオノーラとセラフィナのことまで、多くの人が気にかけてくれるようになった。


 もっとも、画面の向こうにいる人たちが知っている三人と、本当の三人との間には、とてつもなく大きな隔たりがある。


 エレオノーラ・アルセニアは、十年前に滅亡したアルセニア王国の第三王女であり、セラフィナは、かつて彼女を守っていた近衛騎士だった。


 そしてタケシは、東京でタクシーを走らせる一方、神様の交通事故に巻き込まれたことで与えられた【天神地祇】によって、一日一つ新たなスキルを身につけ続けている。《異世界転移》を使えば地球と異世界を自由に行き来することもでき、二人と出会ったのも、その先にある世界だった。


 視聴者は誰も、そんなことを知らない。


 まして、三人がこうして笑っていられるようになるまでに、異世界で何があったのかなど、動画から知ることはできなかった。


 ミレーユの誘拐から始まった一連の出来事は、ベルニエ男爵と十年前のアルセニア王国を巡る疑惑へつながり、最後にはエレオノーラ自身まで攫われる事態になった。


 タケシたちは彼女を救出し、ベルニエ男爵をはじめ事件に関わった者たちは国の役人へ引き渡された。そして、その事件で得られた報奨金があったからこそ、エレオノーラに必要だった治療も、予定していたところまで受けさせることができたのだった。


 救出から今日までには、治療だけでなく、普段の暮らしを重ねる時間もあった。


 傷の回復を待ちながら屋台へ戻り、体調を見て仕事を増やし、通院の日にはセラフィナとタケシで支える。そんな日々の先に、今日の動画があった。


 エレオノーラの身体から火傷の痕がすべて消えたわけではない。それでも、十年間まともに治療を受けることさえできなかった彼女が、鏡の中の自分を見て笑い、カメラへ向かって自分の言葉で話せるようになった。


 そのことが、タケシには何より嬉しかった。


 次に本格的な治療を控えているのは、セラフィナの喉だった。


 屋台の商売も順調に続いており、タケシ自身も冒険者としてEランクへ昇格している。日本では相変わらずタクシーを走らせ、異世界へ行けば二人を市場へ送り届け、時間があれば冒険者として依頼を受ける。


 慌ただしくはあっても、三人で帰ってきて夕飯を食べられるのなら、それで十分だった。


 いろいろありすぎたのだから、そろそろ少しくらい穏やかな日々が続いてもいいのではないか。


 タケシは、そんなことを考えていた。


 ◇ ◇ ◇


 その日の夜、夕食を終えたタケシはソファに腰を下ろし、スマートフォンで動画の再生回数を確認していた。


「伸びてるなあ……」


 思っていた以上の数字に感心しながら画面を眺めていると、隣に座るエレオノーラのスマートフォンから、聞き覚えのある声が流れてきた。


『イマノ、ワタシ、スキ、デス』


 その瞬間、エレオノーラは慌てて再生を止めた。


「なんで止めるんだよ」


 タケシが笑うと、彼女は恥ずかしそうに顔を赤くし、自分の声を聞くのは変な感じがするのだと言い返した。


「いや、ちゃんと言えてたじゃん。ほら、みんな良かったって書いてくれてるぞ」


 タケシは自分の画面を見せ、コメントをいくつか選んで二人の言葉へ訳した。エレオノーラは照れながらも耳を傾けていたが、その隣ではセラフィナが肩を揺らしている。


 止めていた動画をもう一度再生した。今度は自分の挨拶を最後まで見てからコメント欄を開き、覚えたばかりの日本語を指で追っていく。


 まだ長い文章を一人で読むことはできないものの、「ありがとう」や「おめでとう」なら分かる。読めない言葉が出てくるとタケシへ画面を向け、隣から覗き込んだセラフィナも、一緒になって説明を聞いていた。


 テレビがついていて、テーブルには飲みかけのお茶があり、二人は当たり前のようにスマートフォンを触りながら、自分たちの動画に寄せられた言葉を確かめている。


 日本へ来たばかりの頃は、二人とも画面が光るだけで驚き、どうして小さな板の中に人がいるのかと不思議そうにしていた。それが今では、エレオノーラは自分で動画を再生できるようになり、セラフィナに至っては、再生数という概念まで彼女に教えている。


 慣れるって怖いな。


 そんなことを考えながら、タケシはスマートフォンをテーブルへ置いた。


「さて、そろそろ寝るぞ。明日は向こうに行くんだから、あんまり夜更かしするなよ」


 二人が揃って顔を上げたところで、タケシは念を押すようにセラフィナを見た。


 さっきまで楽しそうだったセラフィナの表情が、目に見えて曇った。その分かりやすい反応にエレオノーラが吹き出すと、セラフィナは不満そうに彼女を見てから、タケシへ首を横に振ってみせた。


「そんな顔しても駄目。俺も朝から予約の仕事が入ってるんだから」


 セラフィナは筆談板を持ったまま動きを止め、助けを求めるようにエレオノーラへ顔を向ける。だが、基本真面目なエレオノーラが、そこで味方をしてくれるはずもなかった。


 彼女は少し考えたあと、にっこりと笑い、動画のために練習した日本語をさっそく使った。


「セラフィナ」


 呼ばれた本人が期待するように顔を向けると、エレオノーラは笑顔のまま続けた。


「ガンバッテ」


 セラフィナの表情が固まり、一瞬の沈黙のあと、タケシは堪えきれずに笑い出した。


「ははっ! エレオノーラ、もう日本語の使い方バッチシじゃねえか!」


 エレオノーラも笑ったが、セラフィナは不満そうに頬を膨らませ、筆談板へ猛烈な勢いで文字を書いた。それを読んだエレオノーラがさらに笑い、タケシも覗き込むと、そこには次の言葉が並んでいた。


『声が出たら、エレオノーラの悪口も言う』


「悪口言う相手ばっかり増やすなよ。最初に覚える日本語、それになったらどうすんだ」


 セラフィナは少し考えたあと、もう一行書き足した。


『タケシ、ウルサイ』


「それはもういいよ!」


 その夜も、東京の家には三人の笑いがあった。


 エレオノーラの大きな治療は、これでひとまず終わった。それでも、明日にはセラフィナの診察があり、異世界へ戻れば屋台の仕事も、冒険者としての仕事も待っている。


 タケシは二人に寝るよう促しながら、テーブルに残った湯飲みを片づけた。明日の予定を思い浮かべても、そこにあるのは通院と仕事、それに、帰ってきてから何を食べるかという程度のことだった。


 ベルニエ男爵を捕らえ、エレオノーラを救い出した夜のような出来事は、もうしばらく御免だった。


 しかし、十年前のアルセニア王国を巡る一連の出来事が、あれですべて片づいたわけではないことを、タケシはまだ知らなかった。


 寝室へ向かう二人の後ろから声をかけ、廊下の明かりを消す。


 東京と異世界を行き来する三人の日々は、こうして再び動き始めた。


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