23 決着
ガルドたちを残して森の奥へ駆け込んでから、どれくらい走っただろう。
日はすっかり落ちており、頭上を覆う木々のせいで月明かりさえほとんど届かない。足元も満足に見えない暗闇の中を、《異世界ナビ》が示す方向だけを頼りに進んでいく。
幸い、エレオノーラはそれほど速く移動していなかった。馬で運ばれているなら、とっくに追いつけないほど離されていてもおかしくないが、こちらが走った分だけ少しずつ距離は縮まっている。おそらく男爵たちがいた小屋より先は道が悪く、馬では進みにくいのだろう。
しばらく走ったところで、《異世界ナビ》が示すエレオノーラの位置が動かなくなった。
「……止まった?」
俺も足を止め、木の幹へ手をつきながら呼吸を整えた。距離はもうそれほどないが、ここから先は、ただ追いつけばいいというわけではない。
エレオノーラを連れ去った連中が何人いるのかも、どれほど強いのかも分かっていなかった。
レベルだけなら、俺はセラフィナより高い。
魔物との戦いを重ねるうちに身体の動きも以前とは変わり、《先読み》や《直感》のおかげで、相手の攻撃にもある程度対応できるようになっている。力や速さだけで比べれば、俺のほうが上回っている部分もあるはずだった。
だが、それでセラフィナより強いと言えるほど、戦いは単純ではない。
元近衛騎士の彼女は、人間を相手にする戦い方を身体に染み込ませている。相手の剣をどこへ流し、どう体勢を崩せば反撃を封じられるのか。さっき護衛たちを制圧したときも、俺が次に何をするべきか考えている間に、彼女はもう相手を地面へ倒していた。
俺には、ああいう対人戦の経験がほとんどない。身体の力が強くなったからといって、複数の人間を相手に、守るべき相手まで庇いながら戦えるとは限らなかった。
「できれば、戦わずに助けたいんだけどな……」
そう呟きながら森の奥へ目を向けたが、暗闇の向こうに人影は見えない。こちらが先に見つかれば、その時点でエレオノーラを盾に取られるかもしれなかった。
「何か……使えるスキルはないか」
これまでにも【天神地祇】は、必要になったときに新しい力を与えてくれた。《先読み》や《直感》、《異世界ナビ》と、異世界で行動するためのスキルをいくつも覚えている。
だったら、誰にも気づかれずに近づくためのスキルもあるのではないか。そんなことを考えながら意識を自分の中へ向けた瞬間、頭の中に新しい名前が浮かんだ。
《気配遮断》
「……本当にあるんだな」
我ながら都合がいいと思ったが、今はありがたく使わせてもらうしかない。
もっとも、使い方を意識してみると、姿そのものを消すような万能なスキルではないことも分かった。発動しても透明になるわけではなく、足音まで消えるわけでもない。ただ自分の存在感を薄くし、周囲から意識を向けられにくくするものらしい。
目の前を堂々と歩けば見つかるだろうが、今のような暗い森で、隠れながら移動するなら十分使える。
「これなら、近づくくらいはできるかもしれない」
俺は《気配遮断》を発動し、今度は走らず、できるだけ足音を立てないよう慎重に森の奥へ進んだ。
しばらくすると、暗闇の向こうに小さな明かりが見えてきた。木々の隙間に揺れているのは松明の火で、一本だけではない。明かりを数えながら近づいていくと、やがて男たちの話し声まで聞こえてきた。
「迎えはまだなのか?」
「もう少し待て。予定じゃとっくに来てるはずなんだがな」
「面倒な仕事だぜ。女一人攫うだけだって聞いてたのによ」
「金は出るんだ。黙って待ってろ」
太い木の陰へ身体を隠し、そっと向こうを覗く。
少し開けた場所に、男が二人立っていた。一人は剣を腰に下げ、もう一人は弓を持っている。その奥、松明の明かりが届く木の根元に、人が座らされていた。
「……エレオノーラ」
見間違えるはずがなかった。
両手を後ろで縛られ、口には布を噛まされている。それでも、遠目に見る限り大きな怪我をしている様子はなく、その姿を確かめた途端、胸の奥から安堵が込み上げてきた。
だが、まだ助けたわけではない。
エレオノーラのそばにも一人いる。さらに少し離れた場所で、別の二人が言葉を交わしているのが聞こえた。見えている三人と合わせれば、少なくとも五人はいるようだった。
正面から飛び込めば、一人か二人を倒している間に、残りがエレオノーラへ手を伸ばすだろう。俺自身が勝てるかどうかよりも、彼女に危害を加えられるほうが怖かった。
俺は一度大きく迂回し、木々を盾にしながらエレオノーラの背後へ回り込んだ。
《気配遮断》がどこまで効くのか不安だったが、十メートルほどの距離まで近づいても、男たちはこちらへ視線を向けようとしない。枝を踏まないよう足元を確かめながら、さらに距離を縮めても同じだった。
どうやら、思っていた以上に効果は高いらしい。
エレオノーラのそばにいる男は完全に油断しているようで、欠伸をしながら仲間と話していた。
「いつまでここにいるんだよ」
「俺に聞くな。迎えが来るまでだ」
「腹減ったな」
「戻ってから食え」
俺は木の陰を一つずつ移りながら近づいていった。あと五メートルほどのところで一度足を止め、男の視線が外れた隙に、さらに二歩進む。
そのとき、エレオノーラが顔を上げた。
木の陰から覗いていた俺と目が合い、彼女の目が大きく見開かれる。俺は慌てて人差し指を口元へ当てた。
声を出さないでくれ。
その意図を理解したのか、エレオノーラは驚いた表情のまま小さく頷いた。
問題は、すぐそばにいる男だった。あいつを彼女から引き離さなければ、縄を解く前に見つかってしまう。
俺は足元に落ちていた小石を拾い、少し離れた茂みへ投げ込んだ。
葉が揺れる音に、男が顔を向ける。
「なんだ?」
松明を手にした男が、エレオノーラへ背中を向けて茂みに近づいていった。
今しかない。
俺は木の陰から踏み出し、一気に距離を詰めた。男がこちらへ振り向きかけたところで、顎へ拳を叩き込む。
「ぐっ!」
男の身体が大きく傾いたが、それでも倒れなかった。すぐに腕を掴もうとしてきたため、俺はその手を払い、腹へ膝を入れる。
「て、てめえ……!」
声を上げられ、焦ってもう一度拳を叩き込むと、ようやく男の身体から力が抜けた。崩れ落ちた身体を咄嗟に支えたものの、手から落ちた松明が地面を打ち、乾いた音を立てる。
「何だ!?」
仲間がこちらを振り向いた。
もっと静かに倒せるつもりだったが、力があっても、狙った通りに相手を無力化できるわけではない。今さらそれを悔やんでいる暇はなかった。
「エレオノーラ!」
俺はすぐに彼女へ駆け寄り、《気配遮断》を解いて口を塞いでいた布を外した。
「タケシさん!」
「怪我は?」
「私は大丈夫です! でも、どうしてここが――」
「話はあと!」
腰の短剣を抜き、後ろ手に縛られていた縄を切る。周囲ではすでに男たちが騒ぎ始めており、松明の明かりがこちらへ動いていた。
「立てる?」
「はい!」
エレオノーラの手を取って立ち上がらせると、そのまま森へ向かって走り出した。
「いたぞ!」
「逃がすな!」
怒鳴り声とともに、複数の足音が追ってくる。
俺一人なら《気配遮断》を使い、木々に紛れて逃げ切れたかもしれない。しかし、このスキルはあくまで俺自身の存在感を薄くするもので、手を繋いだからといって、エレオノーラまで同じ効果を得られるわけではなかった。
「タケシさん、ごめんなさい!」
「何が!?」
「私に合わせていたら、逃げられません……!」
「それ言うの禁止! 助けに来たのに置いていったら意味ないでしょ!」
走りながら答えた直後、《直感》が強く警告した。
「伏せて!」
エレオノーラの身体を抱き寄せ、そのまま地面へ伏せる。直後、頭上を矢が通過し、前方の木へ突き刺さった。
「こんな暗い森で射ってくるのかよ……!」
すぐに立ち上がり、再び走り出す。
だが、エレオノーラは俺ほど速く走れない。朝から屋台で働いたあとに攫われ、そのまま長時間連れ回されているのだから当然だった。足場の悪い夜の森を全力で走り続けられるはずもなく、しばらくすると、繋いだ手を通して彼女の動きが鈍くなっているのが分かった。
「はぁ……はぁ……」
「もう少しだけ頑張って。ガルドさんたちのところまで戻れれば――」
そう声をかけたところで、エレオノーラが木の根に足を取られた。
「きゃっ!」
「危ない!」
転ぶ寸前で身体を抱き止める。怪我はなさそうだったが、足を踏み直している間に、背後の足音が一気に近づいた。
「いたぞ!」
木々の間から男が二人現れ、さらに少し遅れて二人が追いついてくる。弓を持っていた男も、今はそれを背中へ回し、腰から短い剣を抜いていた。
最初に倒した一人を除いて、四人。
このままでは、また走り出してもすぐに追いつかれる。
俺はエレオノーラを背後へ庇いながら剣を抜いた。
「面倒なことしやがって」
先頭の男が剣を構える。
「その女を置いて消えろ。そうすりゃ追わねえ」
「それを信じると思う?」
「だったら、ここで死ね」
男が踏み込んできた。
《先読み》によって、右上から振り下ろされる剣の軌道が一瞬早く分かる。俺は半歩下がりながら自分の剣を斜めに合わせ、真正面から受け止めるのではなく、セラフィナがやっていたように相手の力を横へ逃がした。
「なっ!」
男の上体が流れ、剣を握った腕が空いた。
ここを斬れば、武器を持っていられなくなる。
そう思って剣を振りかけたところで、俺の手が止まった。
相手は人間だ。このまま振り抜けば腕を深く斬り、下手をすれば骨まで届くかもしれない。そんな考えが頭をよぎった一瞬を、男は見逃さなかった。
「甘えんだよ!」
「ぐっ!」
腹へ蹴りを入れられ、身体が後ろへよろめく。
「タケシさん!」
「大丈夫!」
痛みを堪えて踏みとどまり、再びエレオノーラの前へ出た。
「なんだお前。剣を持ってるくせに斬れねえのか?」
男が嘲るように笑った。
図星だった。
魔物なら斬れる。オーガだって倒したし、こちらを殺そうと襲ってくる魔物を倒すことには、以前ほど迷わなくなっている。
だが、人間は違った。剣の向こうにいる相手が自分と同じ人間だと思った途端、どうしても最後まで振り抜けなかった。
斬らずに倒せばいいのだと、頭では分かっている。
それでも、セラフィナのように相手の剣を奪い、そのまま取り押さえるには、どの瞬間にどこへ踏み込めばいいのかが分からない。《先読み》で攻撃が分かっても、その先の動きまで教えてくれるわけではなかった。
そんな俺の迷いなど関係なく、別の男が横から回り込もうとする。
《直感》が危険を知らせ、俺はすぐにエレオノーラとの間へ身体を滑り込ませた。振り下ろされた剣を受け流し、相手の懐が空いたところへ肩からぶつかると、男は予想以上に大きく弾き飛ばされ、背後の仲間へぶつかった。
「くそっ、こいつ、力はあるぞ!」
やはり、力負けしているわけではない。
俺は踏み込み、倒れかけた男の剣を取り上げようとした。だが、腕を伸ばしたところへ、横にいた別の男が斬りつけてくる。
慌てて剣を引き戻し、その一撃を受け止めた。
相手一人に気を取られれば、残りへの注意が薄れる。力で押し込めても、それを相手の無力化まで繋げられないまま、俺は再び元の位置へ下がるしかなかった。
「エレオノーラ、俺の後ろから出ないで!」
「ですが!」
「大丈夫だから!」
本当は、全然大丈夫ではない。
俺が人間を斬れないと分かってから、相手の攻撃は明らかに大胆になっていた。一人が剣を打ち合わせている間に別の男が横へ回り、その動きへ対応すれば、今度は正面から攻められる。
攻撃を避ける速さはあっても、エレオノーラを残して大きく動くことはできない。目の前の剣だけに集中すればいい魔物との戦いとは、勝手がまるで違っていた。
俺は少しずつ後退しながら周囲を確認し、背後に太い木があることに気づいた。
「エレオノーラ、あの木まで下がって!」
彼女を木の根元まで下がらせ、自分はその正面へ立った。
これなら背後から直接襲われる危険は減らせる。ただし、左右から回り込まれることには気をつけなければならない。俺は木とエレオノーラの位置を確かめながら、男たちへ剣先を向けた。
「なるほど。女を守るつもりか」
「そのために来たんだよ」
「なら一緒に死ね!」
二人がほぼ同時に踏み込んでくる。
《先読み》がそれぞれの攻撃を知らせた。右の男が突きを放ち、わずかに遅れて左の男が横薙ぎに剣を振るう。
俺は先に迫った突きを身体を捻って躱しながら、男の手首を掴んだ。その勢いを殺さず前へ引くと、男が体勢を崩し、後ろから振られた剣の軌道を塞ぐ。
左の男が咄嗟に刃を止めた隙に、掴んでいた男をそちらへ押しやった。二人がもつれたところで、そのうちの一人の膝を蹴り、さらに剣を握る手へ刃を向ける。
だが、切っ先が手首へ届く直前、また腕が鈍った。
男は剣を引き、俺の刃を弾いた。
「だから甘いってんだ!」
横から迫ったもう一人の剣を避けきれず、肩へ鋭い痛みが走る。
「ぐっ!」
服が裂け、傷口から熱いものが流れた。
「タケシさん!」
「大丈夫、下がってて!」
剣を振って相手を牽制し、傷口へ手を当てる。
「《ヒール》!」
淡い光が肩を包み、開いた傷が塞がっていった。
「治癒魔法まで使えるのか!」
「なら何度でも斬れ! 治してる間に押せ!」
嫌なところを突いてくる。
《ヒール》は傷を治せても、消耗した体力まで戻してくれるわけではない。さっきのセラフィナがまさにそうだった。傷を治して戦い続けたところで、身体そのものが限界を迎えれば動けなくなる。
俺もここまで森の中を走り続けたうえに、今は四人を相手にしていた。レベルが高い分、まだ動く余力はあったが、剣を握る手には必要以上に力が入り、相手が少し動くたびに呼吸まで乱れる。
攻撃を受け流すだけの動きにも、セラフィナのような余裕はなかった。
男たちも、こちらを力で押し切ろうとはしなくなった。一人が仕掛けて俺が対応すればすぐに下がり、入れ替わるように別の男が斬り込んでくる。
反撃を恐れずに攻め、俺が押し返せば離れる。それを繰り返して、少しずつこちらを疲れさせるつもりだった。
「卑怯だぞ……」
思わず漏らすと、一人が鼻で笑った。
「四人相手に一人で喧嘩してる奴が何言ってやがる」
「……それはそうだけど」
そこは否定できない。
背後から、エレオノーラの声が聞こえた。
「タケシさん……私を置いて逃げてください」
「それは無理」
「ですが、このままではタケシさんが!」
「セラフィナにも約束したんだよ。絶対に連れて帰るって」
「でも……!」
「それに、俺が嫌なんだ」
男たちから目を離さないまま答える。
エレオノーラは日本で治療を始めたばかりだ。顔だけではなく、身体中に残っている火傷も、時間はかかるが治せる可能性がある。
屋台だって始めたばかりだった。最初は客と話すだけで緊張していたのに、今では笑顔で接客できるようになり、常連客まででき始めている。
ようやく少しずつ、新しい生活を始めたのだ。それを、こんなところで終わらせるわけにはいかなかった。
「絶対に帰るよ。三人で日本に帰るんだから」
背後から、小さく息を呑む音が聞こえた。
だが、それ以上話している余裕はなかった。
今度は三人が同時に動いた。
《先読み》が次々に攻撃の軌道を知らせてくる。右から来た剣を避け、正面の一撃を受け流し、左から斬り込んできた三人目の剣を、どうにか自分の剣で受け止めた。
押し返す力はこちらのほうが強い。男の腕を跳ね上げ、そのまま前へ出ようとしたところで、正面にいた男が俺の脚を蹴った。
膝が揺れ、踏み込みが止まる。
相手は俺と力比べをするつもりなどなく、こちらが反撃へ移る瞬間を狙っていた。剣を押し返すことばかり考えていた俺には、それが一拍遅れて分かった。
歯を食いしばって踏みとどまり、もう一度剣を構える。
俺が退けば、すぐ後ろにはエレオノーラがいる。彼女から引き離されないよう位置を戻したところで、男の一人が笑った。
「お前みたいなのが一番楽なんだよ」
剣先でこちらを指しながら、男は続ける。
「力もあるし、妙に避けるのも速え。だが、どうせ最後には止めるって分かってりゃ、怖くもなんともねえ」
何も言い返せなかった。
怖かったのだ。
人間を斬ることが。
目の前にいる男たちにも家族がいるかもしれない。帰りを待っている人間がいるかもしれない。俺が剣を振れば、その人間を殺すことになるかもしれない。
そう考えると、どうしても最後の一歩を踏み込めなかった。
だが、その迷いは俺一人の問題ではない。
「きゃっ!」
背後でエレオノーラの声が上がった。
正面の男たちに気を取られている間に、残る一人が木の横から回り込んでいた。
「しまった!」
振り返ると、男がエレオノーラの腕を掴んでいる。
「離せ!」
「タケシさん!」
考えるより先に身体が動いた。
男へ肩からぶつかり、無理やりエレオノーラから引き剥がす。男が地面へ転がった隙に彼女を再び木の根元へ戻した、その直後だった。
背中に激痛が走った。
「がっ……!」
斬られた。
今度は浅くない。熱いものが背中を伝い、脚から力が抜けて地面へ手をついた。
「タケシさん!」
「来るな!」
振り向きざまに剣を大きく振ると、男たちが一度距離を取った。その隙に剣を杖代わりにして立ち上がり、《ヒール》を発動する。
淡い光が身体を包むと、焼けるような痛みが少しずつ消えていった。
傷は治った。
しかし、身体はさっきより明らかに重かった。痛みが消えても、斬られた瞬間の恐怖や、無理に動き続けた疲労までは消えない。
「なるほどな」
一人がこちらを見ながら笑う。
「傷は治せても、疲れまでは取れねえらしい」
「……よく見てるな」
「お前が勝手に教えてくれてんだよ」
四人がゆっくりと距離を詰めてくる。
俺は剣を構え直したが、腕に余計な力が入り、呼吸も整わなかった。このまま同じことを続ければ負ける。それだけは分かった。
「最後にもう一度だけ言ってやる」
男が剣先を俺へ向けた。
「女を渡せ。そうすりゃ、お前は見逃してやる」
「嫌だね」
「死ぬぞ?」
「だからって、渡すわけないだろ」
その答えには迷いがなかった。
人を斬ることは怖い。殺すなんて、できるなら絶対にしたくない。
だが、俺がその恐怖から逃げた結果、エレオノーラがまた連れ去られるのなら話は別だ。今度こそどこへ運ばれるか分からず、助けられる保証もない。
目の前の男たちは俺を殺そうとしているし、エレオノーラも連れ去ろうとしている。
それでも相手を傷つけることだけを怖がっていたら、守れるものまで守れなくなる。
俺は震えていた剣の柄を握り直した。
「……分かった」
「あ?」
「もう迷わない」
剣を構えると、心臓がうるさいくらい鳴っていた。それでも、今度は男たちから目を逸らさず、剣先を向けたまま言った。
「次に来たら斬る。死んでも文句言うなよ」
男たちの表情から笑みが消えた。
今までとは違うことが伝わったらしい。先頭の男が俺の剣へ目を落とし、隣の仲間と短く視線を交わした。
「エレオノーラ」
「……はい」
「俺の後ろから動かないで」
「タケシさん……」
「大丈夫。絶対に守るから」
大丈夫だという根拠などない。それでも、今度こそ覚悟は決まった。
「やれ」
一人の男が短く告げ、二人が同時に踏み込んでくる。
《先読み》が攻撃の順番を知らせた。右側の男が先で、左はわずかに遅い。俺は右から振り下ろされた剣を身体をずらして躱し、そのまま男の脇腹へ向かって剣を振った。
今までなら、ここで止めていた。
だが、今度は止めない。
刃が男の服へ触れ、そのまま振り抜けば肉を斬るところまで迫る。俺は歯を食いしばり、本当に剣を振り抜こうとした。
その瞬間だった。
「伏せろおおおっ!」
夜の森に、凄まじい怒鳴り声が響き渡った。
「え?」
反射的に身体を低くした直後、俺のすぐ横を大きな影が猛烈な勢いで通過した。
「ぐあっ!」
目の前にいた男が横から吹き飛ばされ、数メートル先の地面を転がる。
「なんだ!?」
「敵だ!」
残った男たちが一斉に振り返った。
暗闇の向こうから、いくつもの松明がこちらへ近づいている。最初に飛び込んできたのは、大きな盾を構えた冒険者だった。
「おおおおおっ!」
盾をぶつけて一人を吹き飛ばした冒険者は、そのままもう一人へ向き直った。相手が振った剣を盾で受け止め、力任せに押し込んでいく。
続いて左右の木々の間から何人もの冒険者が現れ、一気に男たちを取り囲んだ。
「武器を捨てろ!」
「抵抗するな!」
「逃げ道はねえぞ!」
突然現れた人数に男たちも動揺したらしい。一人はその場で剣を捨てたが、残る二人は突破しようと別々の方向へ走り出した。
だが、逃げられるはずがなかった。
一人には二人の冒険者が飛びかかり、地面へ押し倒す。もう一人は剣を振り回して近づかせまいとしたものの、背後から回り込んだ冒険者に腕を取られ、正面から盾で押されて、あっという間に地面へ転がされた。
「全員押さえろ! 殺すなよ!」
その声に聞き覚えがあった。
「……ギルドマスター?」
松明に照らされながら歩いてきたのは、間違いなく冒険者ギルドのギルドマスターだった。
「ようやく見つけたぞ」
俺とエレオノーラを確認すると、明らかに安堵した表情を見せたものの、すぐに周囲の冒険者へ指示を飛ばす。
「拘束を急げ! こいつら以外にも仲間がいるかもしれん。二人一組で周囲を警戒しろ!」
冒険者たちは慣れた様子で動き、倒した男たちから武器を取り上げて縄を掛けていく。最初に吹き飛ばされた男も、起き上がる前に剣を取り上げられ、後ろ手に縛られていた。
さっきまで俺一人ではどうにもならなかった四人が、ほんのわずかな時間で全員制圧されてしまった。
「……助かった」
その光景を見た瞬間、張り詰めていたものが切れた。
剣を握っていた手から力が抜け、膝まで急に震え始める。
「タケシさん!」
倒れそうになった俺を、エレオノーラが慌てて支えてくれた。
「大丈夫ですか!?」
「大丈夫。ちょっと疲れただけ」
「大丈夫なわけがありません! 何度も斬られていたではありませんか!」
「傷はヒールで治したから」
「そういう問題ではありません!」
珍しく強い口調で怒られ、俺は思わず苦笑した。
「……はい。すみません」
でも、怒ってくれる声を聞けたことすら嬉しかった。
エレオノーラがここにいる。無事に助け出せた。その事実をようやく実感した途端、身体中から一気に力が抜けていった。
「本当に……無事でよかった」
俺がそう言うと、エレオノーラは一瞬何かを言おうとして、結局言葉にできなかったのか、唇を噛んで俯いた。
「タケシ」
ギルドマスターがこちらへ歩いてくる。
「怪我はどうした?」
「《ヒール》で治しました」
「自分でか?」
「はい」
「まったく、お前は相変わらず妙なところで便利だな。だが、顔色を見る限り体力までは戻っていないんだろう。しばらく座っていろ」
「そうします……。あ、その前に」
木の根元へ腰を下ろしかけたところで、俺はエレオノーラが捕まっていた方角を指差した。
「少し先の開けた場所に、もう一人倒れています。この子を見張っていた男です。俺が殴って倒したんですが、そのまま置いてきました」
「場所は分かるな?」
「はい。ここまで逃げてきた方向を戻れば――」
「案内はこの娘に聞く。お前は座っていろ」
ギルドマスターは近くにいた冒険者二人を呼び、エレオノーラから待機場所の様子と方角を聞かせたうえで、倒した男の確保へ向かわせた。
「ほかにも人がいる可能性がある。無理はするな。何かあればすぐ知らせろ」
二人が森の奥へ向かうのを見届けてから、ギルドマスターは改めてエレオノーラへ視線を移した。
「この娘がエレオノーラで間違いないな?」
「はい」
エレオノーラが頭を下げようとしたが、ギルドマスターは片手を上げて止めた。
「礼はあとでいい。今は安全を確保するのが先だ。攫った連中から事情を聞くのも、それからでいい」
再び冒険者たちへ指示を出す姿を眺めながら、俺はようやく少し呼吸を整えることができた。
「でも、どうやってここまで来たんです?」
俺が尋ねると、ギルドマスターは拘束されている男たちから目を離さないまま答えた。
「街道から森へ入ったと連絡が来てな。俺も救出に回す連中を連れて追ってきた。捜索隊には、お前たちが進んだ方角を中心に、逃げ道になりそうな場所も調べさせていたんだ」
「それで、ここを?」
「途中で複数人が森の奥へ入った痕跡を見つけた連中がいた。それを追ってきたら、怒鳴り声や剣の音が聞こえてきた。おかげで最後は迷わずに済んだ」
「なるほど……」
もう少し到着が遅ければ、俺は本当に人を斬っていた。
そのことを考えると、剣を握っていた右手が今さら震えた。
覚悟は決めた。あの瞬間は、本気で斬るつもりだった。それでも、実際に人間の身体へ刃を入れずに済んだことに、安堵している自分もいる。
ギルドマスターがそんな俺の手元をちらりと見たが、何も聞かなかった。
しばらくして、森の向こうから新しい松明の明かりが見えてきた。
「ギルドマスター!」
冒険者の一人が声を上げる。
「後続が来ました!」
誰だろうと思って目を凝らしていると、聞き覚えのある声が飛んできた。
「タケシ!」
「……ガルドさん?」
やがて木々の間から、ガルドが姿を現した。その後ろには数人の冒険者が続いている。
だが、俺が驚いたのはガルドではなかった。
「セラフィナ!?」
ガルドに肩を貸してもらいながら、その隣を歩いているのはセラフィナだった。
さっきまで立つことすらできなかったはずなのに、顔色を悪くしたまま、それでも自分の足でこちらへ向かってくる。
「なんで来たんだよ……」
思わず呟いたが、理由など聞くまでもなかった。
セラフィナは俺を見ていない。その視線は最初から、俺の隣にいるエレオノーラだけへ向けられていた。
「セラフィナ……」
エレオノーラが立ち上がる。
その声に気づいたセラフィナの足が止まり、二人の視線が重なった。
しばらく、どちらも動かなかった。周囲では冒険者たちが忙しく動き回っているのに、二人だけが互いの姿を確かめるように、じっと見つめ合っていた。
やがて、セラフィナがガルドの肩から腕を離す。
「おい、まだ一人じゃ歩けねえだろ」
ガルドが止めようとしたが、セラフィナは一歩踏み出した。身体が大きく揺れ、それでも次の一歩を進めようとしたところで、今度はエレオノーラのほうが走り出す。
「セラフィナ!」
エレオノーラがその身体へ抱きついた。
勢いを受け止めきれずセラフィナがよろめき、ガルドがすぐに背中を支える。それでも彼女はエレオノーラから離れようとはせず、震える腕をその背中へ回した。
「ごめんなさい……心配かけて、ごめんなさい……」
エレオノーラの声が震えている。
セラフィナは声を出すことができない。それでも、エレオノーラを抱きしめる腕に少しずつ力がこもっていくのを見れば、何を伝えたいのかは十分に分かった。
俺はその光景を眺めながら、ようやく胸の奥に残っていた緊張がほどけていくのを感じた。
今度こそ、本当に助けられたんだ。
エレオノーラが身体を支えるのを確かめ、ガルドがセラフィナの背中から手を離した。そして俺の隣へ来ると、息を吐きながら腰を下ろす。
「ずいぶん派手にやったみてえだな」
「死ぬかと思いましたよ。もう少しギルドマスターたちが遅かったら、本当にやばかったです」
「見りゃ分かる。だが、エレオノーラは無事だったんだろ?」
「はい。なんとか」
俺たちは揃って二人を見た。
エレオノーラはまだセラフィナから離れようとせず、セラフィナも彼女の背中を何度も確かめるように撫でていた。
「男爵たちは?」
「後続の連中に引き渡した。男爵と連れ、それに護衛二人も、全員縛ったままだ。小屋も調べさせてる」
「よかった……。でも、セラフィナまで連れてくるとは思いませんでした」
「俺だって待ってろって言ったんだぞ。少し休んで、ようやく立てるようになったと思ったら、どうしても行くって聞かねえんだ」
ガルドが呆れたように二人を見る。
「後続が来たところで、お前が走ってった方角を伝えたら、一組がこっちを調べに向かった。俺たちはその後をゆっくり追ってきたんだが、途中から騒ぎが聞こえたからな。最後はそっちを目指して来た」
「無茶するなあ……」
「お前が言うか?」
「……それもそうですね」
言い返せずに苦笑すると、ガルドは小さく鼻を鳴らした。
「まあ、間に合ったな」
「……はい」
俺も頷いた。
捕まえた連中から聞かなければならないことは山ほどある。誰の依頼でエレオノーラを攫ったのか。ベルニエ男爵がなぜあの小屋にいたのか。そして、男爵と会っていた上等な服の男は何者なのか。
十年前のアルセニア王国滅亡との関係だって、まだ何も分かっていない。
それでも、今だけはそんなことを考えなくていい気がした。
エレオノーラが無事だった。セラフィナもここまで来られた。俺自身も、どうにか生きている。
今は、それだけで十分だった。
しばらくして、エレオノーラがセラフィナに肩を貸しながら、俺のところへ戻ってきた。
「タケシさん」
「ん?」
顔を上げると、エレオノーラは俺の前で立ち止まった。セラフィナを支えているため大きく身体を傾けることはできなかったが、それでも丁寧に頭を下げる。
「助けに来てくださって、本当にありがとうございました」
「そんなのいいって。俺一人じゃ助けられなかったし、最後はギルドマスターたちに助けてもらったんだから」
「それでもです。タケシさんが来てくださらなければ、私は今もあの人たちに捕まっていました」
「まあ……それはそうかもしれないけど」
改めて礼を言われると、どうにも照れくさい。
隣を見ると、セラフィナまで俺へ向かって頭を下げようとしていた。
「いやいや、セラフィナまでやめてよ。そもそも俺が先に行けたのは、セラフィナが男爵たちを止めてくれたからなんだから」
セラフィナは顔を上げたものの、納得していないらしく首を横へ振った。
「そこは否定しなくていいって」
もう一度首を振られる。
その様子を見て、エレオノーラが小さく笑った。まだ目元は赤く、疲れも隠せていなかったが、確かにいつもの彼女の笑顔だった。
それを見た瞬間、俺もつられて笑ってしまった。
「まあ、とにかく帰ろう。明日はもう店どころじゃないし、家に帰ったら三人とも休み」
すると、セラフィナがわずかに眉を動かした。
「いや、セラフィナは特に休むんだからね。立てなくなるまで戦った人に拒否権はありません」
今度は不満そうな顔をされる。
エレオノーラもそれに気づいたらしく、セラフィナの腕を支えながらきっぱりと言った。
「タケシさんの言う通りです。明日は絶対に休んでください」
二人から言われ、さすがのセラフィナも諦めたのか、小さく肩を落とした。
俺とエレオノーラは顔を見合わせ、また笑った。
家へ帰ったら、まずは二人を座らせよう。飲み物を用意して、腹が減っているなら何か食べさせて、それからゆっくり休ませる。俺も今日は、風呂に入ったらすぐに寝てしまいたかった。
そんなことを考えながら、日本へ戻る段取りを頭の中で組み立てていたところで、ふと動きが止まった。
「……あ」
「どうした?」
ガルドがこちらを見る。
「いえ……ちょっと」
俺は曖昧に答え、額へ手を当てた。
《異世界転移》。
エレオノーラの縄を切り、手を取った時点で、それを使って日本へ逃げればよかったのだ。
彼女を見つけるまでは、どう近づくか、どう見張りを引き離すか、そればかり考えていた。男たちに見つかってからは、とにかくその場から逃げなければと焦り、追いつかれてからは、目の前の剣とエレオノーラを守ることだけで頭がいっぱいになっていた。
興奮して心臓が鳴り続けている間、使い慣れているはずのスキルが、まるごと頭から抜け落ちていたのだ。
「……何やってんだ、俺」
思わず呟くと、エレオノーラが心配そうに顔を覗き込んできた。
「タケシさん?」
「いや……。エレオノーラの手を取ったとき、日本へ転移すればよかったんだなって、今気づいて」
彼女が目を瞬かせた。
その隣で、セラフィナも俺を見ている。
「焦っててさ。捕まったらまずい、逃げなきゃ、守らなきゃって、そればっかり考えてた。落ち着いたら、ようやく思い出したよ」
口に出すと、余計に情けなかった。
逃げる手段があったのに、自分で気づかず戦い続けていた。そのせいでエレオノーラをまた危険に晒し、危うく俺自身まで命を落とすところだった。
レベルが高くても、使えるスキルが多くても、それを必要なときに使えなければ意味がない。
対人戦に慣れていないというのは、剣の扱いだけの話ではなかった。命の危険を感じながら、何を選ぶべきか落ち着いて考えることすら、俺にはできていなかったのだ。
「でも、タケシさんは来てくださいました」
俯きかけたところへ、エレオノーラの声がした。
「私を見つけて、縄を切って、ずっと守ってくださいました。それまで間違っていたことにはならないと思います」
「……ありがとう」
その言葉は嬉しかった。
だが、助かったからそれでよかったと、忘れてしまうわけにもいかない。もしギルドマスターたちが間に合わなければ、何を失っていたか分からないのだから。
セラフィナが俺へ手を伸ばし、肩へそっと触れた。
その手を見てから顔を上げると、彼女は静かに頷いた。慰めてくれているのか、それとも次は気をつけろと言っているのかは分からなかったが、俺も小さく頷き返した。
「次は、ちゃんと思い出すよ」
そう答えると、セラフィナはもう一度頷いた。
そのとき、森の奥へ向かわせていた冒険者たちが戻ってきた。
「残っていた一人も確保しました。意識は戻っていましたが、抵抗できる状態ではありません。周囲にほかの人間は見当たりませんでした」
報告を受けたギルドマスターが頷き、連れてこられた男へ目を向ける。
男は後ろ手に縛られ、冒険者に腕を取られて歩いていた。俺に殴られた顔をしかめていたが、自分の仲間が全員捕まっているのを見ると、何も言わずに視線を落とした。
これで、エレオノーラを連れていた五人は全員捕まった。
あちこちで揺れる松明が木々を照らし、その明かりの向こうでは、冒険者たちが連行の準備を進めている。縄を締め直す声や、周囲を警戒する者同士の呼びかけを聞きながら、俺は木の幹へ背中を預けた。
ベルニエ男爵も、その面会相手も捕まえた。エレオノーラを攫った連中も、生け捕りにできた。
これまでは十年前に何があったのか、わずかな手がかりを拾いながら追いかけるばかりだった。だが、捕らえた人間たちから話を聞けば、これまで見えなかったものが見えてくるかもしれない。
ようやくこちらから、十年前の真相へ手を伸ばせるところまで来たのだ。
もっとも、それを考えるのは明日でもいい。今はまず、三人揃って帰ることのほうが大事だった。
俺はエレオノーラと、その隣で彼女に身体を支えられているセラフィナを見る。
二人とも、ちゃんとここにいる。
「……ほんと、よかった」
誰に聞かせるでもなく呟いてから、俺は枝葉の隙間に見える夜空を見上げた。




