20 攫われたエレオノーラ
それから数日が経った。
エレオノーラとセラフィナの屋台は、すっかり市場の一角に馴染んでいた。
商売を始めたばかりの頃は、俺も異世界にいる時間を増やして二人を手伝っていたが、最初から朝から晩まで付きっきりだったわけではない。特に三日目ともなると二人だけでも十分に店を回せるようになっていたので、俺が屋台を離れている時間のほうが長くなっていた。
その後も特に大きな問題は起きず、カレーと菓子パンの売れ行きは順調だった。
最初は客を相手にするたび緊張していたエレオノーラも、今ではすっかり接客に慣れ、常連客と笑顔で言葉を交わす余裕まで出てきている。その隣ではセラフィナが調理や片付けを手際よくこなし、必要があれば身振りや筆談でエレオノーラとやり取りをする。
これなら、もう俺がずっとそばにいる必要はない。
そう判断してからは、朝に二人を市場まで送り届けて屋台の準備を手伝い、その後は日本へ戻ってタクシーの仕事をするのがいつもの流れになっていた。
その日も、朝までは何も変わらなかった。
「それじゃ、夕方に迎えに来るから」
「はい。いってらっしゃいませ、タケシ様」
エレオノーラが笑顔で俺を見送り、その隣でセラフィナも小さく手を振る。
二人の姿を確認してから俺は日本へ戻り、いつものようにタクシーで都内を走った。
午前中から客の途切れない一日で、昼飯を食べる時間も少し遅くなったものの、特に変わったことは起こらなかった。夕方になったところで営業を切り上げ、二人を迎えに行くため異世界へ転移する。
市場へ着く頃には日が傾き始め、昼間の賑わいもかなり落ち着いていた。
あちこちで店じまいが始まり、売れ残った商品を片付ける者や、屋台を引いて帰ろうとする者たちが行き交っている。
いつもなら、この時間にはエレオノーラたちも片付けを始めている。
俺を見つけたエレオノーラがその日の売り上げを嬉しそうに報告してきたり、セラフィナが「遅い」とでも言いたげな顔で俺を見たりするのも、すっかり見慣れた光景になっていた。
ところが、その日は様子が違った。
「……あれ?」
いつもの場所に屋台はある。
鍋も食器も、菓子パンを並べていた籠も残っていた。だが、そこにいるはずの二人の姿だけが見当たらない。
最初は、何か足りないものでもあって買いに行ったのかと思った。
しかし、二人揃って屋台を離れるとは考えにくい。しかも店じまいの途中だったらしく、使った食器はそのままで、布巾も作業台の上に放り出されている。
「エレオノーラ? セラフィナ?」
屋台の裏まで回って名前を呼んでみたが、返事はなかった。
胸の奥に、嫌な感覚が広がっていく。
何かがおかしい。
そう思ったところで、少し離れた場所から俺を呼ぶ声がした。
「兄ちゃん! あんた、あの二人の迎えに来たんだろ!」
振り返ると、近くで屋台を出している男がこちらへ駆け寄ってきた。
普段からエレオノーラたちと顔を合わせている男で、俺も何度か話をしたことがある。いつもなら気さくに笑っているのだが、今は明らかに様子が違い、店じまいも放り出して俺のところまで走ってきた。
「二人はどこです?」
「詳しいことは俺にも分からねえ。とにかく冒険者ギルドへ行ってくれ。あそこの受付の姉ちゃんが、あんたが来たらすぐギルドへ寄越してくれって」
「何があったんですか?」
「昼過ぎだったと思う。急にあっちが騒がしくなってな。俺も客がいたから最初から見てたわけじゃねえんだが、気づいたときには白銀の髪の嬢ちゃんがいなくなってた。それで、もう一人の姉ちゃんが血相変えて走っていったんだよ」
白銀の髪の嬢ちゃん。
それがエレオノーラを指していることくらい、聞き返す必要もなかった。
「どっちへ!?」
「街の北側だ! けど、もうずいぶん前の話だぞ!」
「ありがとうございます!」
それだけ告げると、俺は冒険者ギルドへ向かって走り出した。
市場を抜けながら、頭の中では嫌な想像ばかりが浮かんでくる。
エレオノーラがいなくなり、その直後にセラフィナが誰かを追いかけていった。
どう考えても、二人で買い物に出かけたなどという話ではない。
まして、セラフィナが屋台を放り出して一人で走っていくなど、よほどのことがなければあり得なかった。
冒険者ギルドへ到着すると、俺は勢いよく扉を開けた。
「ミレーユさん!」
受付にいたミレーユが、俺の声に顔を上げる。
その表情を見た瞬間、何も聞く前から悪い知らせなのだと分かった。
「タケシさん……!」
「二人はどこです?」
受付まで駆け寄ると、ミレーユは一瞬言葉に詰まり、それから周囲を気にするように声を落とした。
「落ち着いて聞いてください。まだ、すべて分かったわけではありません。ただ……状況から考えて、エレオノーラさんは何者かに連れ去られた可能性が高いです」
「……連れ去られた?」
覚悟していたはずなのに、その言葉を聞いた途端、頭の中が真っ白になった。
「誰にです?」
「分かりません。市場にいた人たちから話を聞いていますが、実際に連れ去られるところをはっきり見ていた人がいないんです。ただ、エレオノーラさんがいなくなった直後、セラフィナさんが何人かの男を追って市場を飛び出したという証言があります」
「セラフィナは?」
俺が聞くと、ミレーユは唇を噛んだ。
「まだ戻ってきていません」
その一言で、さらに血の気が引いた。
セラフィナは強い。
レベル二十七という数字だけでなく、アルセニア王国の近衛騎士として実戦を経験してきた人間だ。そこらのごろつき数人を相手にした程度なら、簡単に負けるとは思えない。
そんなセラフィナが、エレオノーラを追いかけてから何時間も戻っていない。
「捜索は?」
「ギルドからすでに何人か出ています。衛兵にも連絡しました。ただ、セラフィナさんがどこまで追いかけたのか分からなくて……」
「俺も探しに――」
行きます。
そう言いかけたときだった。
「おい! 誰か手ぇ貸してくれ!」
ギルドの入口から、野太い声が響いた。
聞き覚えのある声に振り返る。
そこにいたのはガルドだった。
数日前、十年前にアルセニア王国へ物資を運んでいた謎の商会について話を聞かせてもらった冒険者だ。
だが、俺の目はすぐにガルド本人から、その肩に担がれている人物へ移った。
泥と血に汚れた服。
見覚えのある銀色の髪。
「セラフィナ!」
考えるより先に身体が動いていた。
ガルドのところまで駆け寄ると、担がれていたセラフィナの姿がはっきり見える。
酷い有様だった。
服のあちこちが裂け、腕や脚にはいくつもの傷がある。額から流れた血が頬を伝い、銀色の髪にまでこびりついていた。右の頬は腫れ、唇も切れている。
「生きてる! 気を失ってるだけだ!」
「降ろしてください!」
ガルドがセラフィナを床へ横たえると、俺はすぐそばに膝をついた。
「《ヒール》!」
淡い光がセラフィナの身体を包み込む。
傷が塞がっていくのを確認しながら、さらにもう一度ヒールをかける。額の傷が消え、腫れていた頬が元に戻り、裂けていた唇も治っていった。
呼吸も安定しているが、顔色はまだ悪く、身体からは力が抜けていた。傷が塞がったからといって、すぐに動ける状態まで戻ったとは限らない。
ようやく少しだけ安心できたところで、俺はガルドを見上げた。
「どこで見つけたんです?」
「街の北側だ。俺もたまたま近くを通ってただけなんだが、あの姉ちゃんがものすげえ勢いで走っていくのが見えてな」
「セラフィナだって分かったんですか?」
「そりゃ分かるさ。あの屋台のカレー、何度か食ってるからな。喋れねえ姉ちゃんだろ?」
そういえば、ガルドが屋台に来ているところを何度か見かけたことがある。
俺がガルドから十年前の話を聞いたとき、エレオノーラとセラフィナはその場にいなかった。ガルドにとって二人は、あくまで市場でカレーを売っている顔見知りの店員という認識なのだろう。
「いつもと様子が全然違ったから声をかけたんだが、こっちを見る余裕もなかったみてえでな。そのまま走っていっちまった。何かあったと思って俺も追いかけたんだが……あの姉ちゃん、見た目によらず速えのなんの。途中で見失っちまった」
「それで、探してくれたんですか?」
「まあな。あんな顔して走ってる奴を見たら、さすがに放っておけねえだろ。ただ、見失ってからはどこへ向かったのかも分からなくてな。北門を出て街道沿いを探したり、脇道へ入ったりしてるうちに、ずいぶん時間がかかっちまった」
ガルドはそう言うと、床に横たわるセラフィナを見下ろし、険しい表情になった。
「ようやく見つけたのは、日が傾き始めた頃だ。街道から外れた林の近くで、こいつの周りには十人以上倒れてたよ」
「十人以上……?」
「ああ。全員男だ。死んでる奴もいたし、まだ息がある奴もいた。たぶん、こいつが全部やったんだろうな」
俺は思わずセラフィナを見る。
レベル二十七の元近衛騎士とはいえ、十人以上を相手に一人で戦ったのか。
「その男たち、連れ去った相手のことを知っているかもしれません。ミレーユさん、現場へ人を向かわせてもらえますか?」
「はい。ガルドさん、詳しい場所を教えてください。すぐに衛兵にも伝えます」
ガルドが北門からの道順と目印を説明すると、ミレーユはそれを書き留め、駆けつけていたギルド職員に渡した。男たちの確保と周辺の捜索を頼まれた職員が足早に出ていくのを見送ってから、俺はガルドへ視線を戻す。
「見つけたとき、セラフィナはどんな様子でした?」
「もうまともに立てる状態じゃなかった。それでもな……」
ガルドが言葉を切った。
何かを思い出したのか、苦々しい顔で頭を掻く。
「まだ追いかけようとしてたよ。剣を杖代わりにして立とうとして、立てなくなったら地面を這ってでも先へ行こうとしてた。さすがに止めたが、俺が近づいたときなんか、本気で斬りかかろうとしてきやがった」
胸の奥が締めつけられる。
そこまでして、セラフィナが追いかけようとしていた相手。
考えるまでもない。
エレオノーラだ。
十年前、国が滅びたときに守りきれなかった第三王女。
今度こそ守ると決めた相手を、また目の前で連れ去られたのだ。
「……っ」
小さく身体が動いた。
「セラフィナ?」
呼びかけると、閉じていた瞼がゆっくりと開いた。
まだ意識がはっきりしないのか、視線がしばらく宙を彷徨っている。やがて俺の顔を捉えると、セラフィナの目が大きく見開かれた。
「大丈夫だ。傷は治したから」
そう声をかけた瞬間だった。
セラフィナが俺の服を掴んだ。
「どうした?」
指に力が入る。
何かを言おうとするように口が動いたものの、傷ついた喉から声が出ることはない。それでも何かを必死に伝えようとして、何度も俺の服を引っ張った。
何を伝えたいのかは、すぐに分かった。
「……エレオノーラか?」
その名前を口にした途端、セラフィナの表情が崩れた。
何度も頷く。
「連れていかれたんだな?」
また頷いた。
「それを追いかけた?」
さらに頷く。
「途中で、さっきの奴らに囲まれたのか?」
今度は激しく頷いた。
そして次の瞬間、セラフィナは俺から手を離すと、握り締めた拳を床へ叩きつけた。
一度ではない。
二度、三度と、自分自身への怒りをぶつけるように何度も床を殴る。
「やめろ、セラフィナ!」
慌てて手首を掴んだ。
ヒールで傷は治したばかりなのに、このままではまた自分で傷を作ってしまう。
それでもセラフィナは俺の手を振りほどこうとした。
立ち上がろうと身体を起こし、足に力が入らず再び床へ手をつく。どうにか起き上がろうとする腕まで震えていて、傷が治ってもなお、ひどく消耗しているのが分かった。
「どこへ行くつもりだ!」
答えられるはずもない。
それでもセラフィナは必死に立とうとする。
エレオノーラを追うつもりなのだ。
「待て! 俺も行くから!」
その言葉に、セラフィナの動きが止まった。
「エレオノーラは俺も探す。絶対に助けに行く。だから一人で行こうとするな」
俺の顔を見つめたまま、セラフィナの目から涙が溢れた。
「何があったのか教えてくれ。どっちへ連れていかれたのか、何人いたのか、覚えていることだけでいい」
セラフィナは震える手で腰のポーチを探り、紙と炭筆を取り出した。
ところが、指にうまく力が入らないのか、炭筆が床へ落ちる。
俺が拾って渡すと、セラフィナは震える手で紙に文字を書こうとした。
一本線を引き、次の文字を書こうとして手が止まる。
紙の上に涙が落ちた。
もう一度書こうとする。
しかし、また涙が落ちて文字が滲んだ。
やがてセラフィナは炭筆を握っていられなくなったのか、それを床へ落とすと、両手で顔を覆った。
声は聞こえない。
嗚咽すらない。
ただ肩だけが大きく震え、指の隙間から次々と涙がこぼれていく。
その姿を見ていると、何を考えているのか痛いほど伝わってきた。
守れなかった。
また守れなかった。
きっと、そうやって自分を責め続けている。
「セラフィナ……」
大丈夫だ、とは言えなかった。
何が大丈夫なのか、俺自身にも分からない。
エレオノーラがどこへ連れていかれたのかも分からなければ、攫った相手が何者なのかも分からない。セラフィナは追跡を妨害した十人以上を倒したものの、その間にエレオノーラを連れ去った者たちを見失ってしまった。
それでも、ここで立ち止まっているわけにはいかない。
俺は泣き続けるセラフィナの肩に手を置きながら、頭の中でこれからどう動くべきか必死に考えた。
いつの間にか、騒がしかったギルドの中も静まり返っていた。
ミレーユも、ガルドも、周囲にいた冒険者たちも、声を出さずにこちらを見ている。
そんな重苦しい空気の中、ギルドの奥から低い声が聞こえた。
「……タケシ」
振り返る。
そこに立っていたのはギルドマスターだった。
いつもの豪快な雰囲気はなく、その顔には今まで見たことがないほど深刻な表情が浮かんでいる。
ギルドマスターはゆっくりこちらへ歩いてくると、床に座り込んで泣いているセラフィナを見て眉を寄せた。
それから俺へ視線を戻す。
「ギルドマスター……」
「話がある」
「エレオノーラのことですか?」
「ああ」
ギルドマスターはすぐには続きを口にしなかった。
周囲にいる冒険者たちを一度見回してから、もう一度俺を見る。
その表情を見ただけで、単なる誘拐では済まない何かが起きているのだと分かった。
「どうやら――かなり厄介なことになったらしい」
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