2 武三特別区のタクシー
「さて、今日はどこを走るかな」
翌日の午前十時過ぎ。朝の予約を済ませ、別の客を新宿駅で降ろした俺は、空車表示に切り替えて再び車を走らせていた。
天気は晴れで、平日の都内としては普通の交通量だ。駅を回るか、ホテルを狙うか、それともこのまま流すか。十四年もタクシーをやっていれば、曜日や時間、天気などから客の動きをある程度は読めるが、最後はどうしても運が残る。
乗せるまで、行き先はわからない。千円で終わることもあれば、一万円を超えることもある。それがこの仕事だった。
少なくとも、以前の俺にとっては。
「……使ってみるか」
赤信号で停車している間に、俺は《先読み》を使った。
少し先に起こる可能性の高い出来事を、断片的な映像として捉えるスキルだ。好きな未来を選んで見られるわけではないし、俺が行動を変えれば、見えた通りにならないこともある。
それでも、頭に浮かんだ光景には思わず期待してしまった。
コンビニのある交差点。その近くの歩道に、黒いキャリーケースを持った男が立っている。
『羽田空港までお願いします』
そこで映像が途切れた。
「羽田か。悪くないな……で、どこの交差点だよ」
見覚えがある気もするが、場所まではわからない。コンビニのある交差点なんて、東京にはいくらでもある。
信号が青になったところで発進し、今度は《直感》を意識した。右か左か、進むかやめるか。選択肢を前にしたとき、どれか一つに「こっちだ」という感覚が生まれる能力だ。
必ず正解とは限らないが、これが妙に当たる。
「ホテルじゃないな。駅も違う……こっちか」
進行方向を考えると、右へ曲がりたいという感覚が強くなった。交通を確認して右折し、その先でも同じように道を選ぶ。
五分ほど走ったところで、前方にさっきの交差点が現れた。
角にはコンビニがあり、その少し先に、黒いキャリーケースを持った男が立っている。
「マジかよ……」
男が手を上げたので、俺は周囲を確認して車を寄せた。降りて荷物をトランクへ積み、後部座席に乗り込んだ客へ行き先を尋ねる。
答えは見えていたが、仕事の手順はいつも通りだ。
「羽田空港までお願いします」
「かしこまりました。ご利用のターミナルはお決まりでしょうか?」
確認を済ませて発進しながら、口元が緩みそうになるのをこらえた。
これは便利だ。思っていたより、ずっと便利だった。
「……こんなの営業に使っていいのか?」
「え?」
「あ、いえ。失礼しました」
危ない。客を乗せていることを忘れるな。
俺は気を取り直し、羽田空港へ車を走らせた。
* * *
「ありがとうございました」
客を見送り、運転席へ戻って売上を確認した。
羽田一本で一日の営業がどうにかなるほど甘くはないが、単価のいい仕事が入ると気持ちは随分楽になる。《先読み》と《直感》を組み合わせれば、こういう客に出会える機会を増やせるのかもしれない。
「とんでもないスキル取ったんじゃないか、これ」
もっとも、毎回都合よく長距離客が見えるわけではない。映像の場所を探しているうちに、別のタクシーが先に乗せてしまうことだってあるだろう。
能力だけを当てにして、本来なら客がいそうな場所を素通りするのも違う。
「まあ、経験と合わせて使うくらいがいいか」
そう呟いて都心へ戻った数時間後、俺はこの二つのスキルに、売上を伸ばすことより大事な使い道があると知った。
* * *
午後六時を回り、帰宅時間帯の道路は徐々に混み始めていた。
売上は悪くない。あと二、三本乗せたら終わりにしてもいいだろう。そんなことを考えながら大通りを走っていると、前方の信号が青に変わった。
交差点の流れに不自然なところは見当たらなかった。それなのに、胸の奥に突然、嫌な感覚が走った。
《直感》だった。
長距離客を探したときとは違う。理由を考える前に、進んではいけないという感覚が強くなる。
俺はアクセルから足を離し、バックミラーで後続車を確認しながら速度を落とした。その瞬間、意識して使ったわけでもない《先読み》が、頭の中へ短い映像を送り込んできた。
青信号の交差点へ進む俺のタクシーと、右側から突っ込んでくる赤い乗用車。
「――っ!」
すでに減速していたので、停止線の手前までに止まれた。後ろの車も速度を落とし、俺のタクシーに続いて停車する。
その直後、右側から赤い車が飛び出してきた。
「おい!」
こちらの信号は青なのに、赤い車はほとんど減速せず交差点へ進入し、対向車線から来たワゴン車の側面へ激突した。
金属のぶつかる音が響き、砕けた部品が道路へ飛び散る。俺はハンドルを握ったまま、しばらく動けなかった。
そのまま走っていたら、ぶつけられたのは俺だった。
背中に冷たい汗が流れ、半年前の事故が頭をよぎる。あのときは避けられなかった。だが、今は衝突する前に止まれた。
「……助かった」
息を吐いても、心臓の音はなかなか静かにならなかった。異世界で魔物と向き合うときとは違い、さっきまで俺は、自分が危険な場所にいるとさえ思っていなかったのだ。
ハザードを点け、周囲の安全を確かめて車を寄せると、事故を起こした車から人が出てきた。自力で歩ける様子だったが、それだけで怪我がないとは限らない。
俺も車を降り、安全な場所から声をかけた。近くの人が警察へ通報していたので、救急車も必要か確認し、自分が見た状況を伝える。警察が到着したあと、信号や衝突直前の様子について説明し、求められた連絡先を残した。
ようやく運転席へ戻ったころには、もう少し営業を続けようという気持ちはなくなっていた。
「……長距離の客を探すより、こっちのほうが大事だな」
客を乗せているときなら、その人の命を守ることにもつながる。タクシー運転手として、これほどありがたい能力はないだろう。
「金より命だよな、やっぱり」
少し落ち着くまで休んでから、俺は帰宅することにした。
* * *
「疲れた……」
家へ戻っても、交差点へ飛び込んできた赤い車の光景が頭に残っていた。売上は悪くなかったし、事故にも遭わずに済んだが、気持ちまでいい一日だったとは言いづらい。
それでも、取っておいたスキルが役に立ったことには間違いなかった。火を出す魔法だけが便利なわけではない。使う場所によって、能力の価値も変わる。
次に何を取ろうかと考えながら予定を確認すると、翌日は仕事を入れていなかった。
「そういや、あそこにも一度行ってみたいんだよな」
素材を売りに訪れた村で、近くの城塞都市には冒険者ギルドがあると聞いていた。登録すれば身分証が手に入り、仕事の紹介も受けられるらしい。
半年もこちらへ通っているくせに、俺はまだ街へ入ったことがなかった。これまでは森や草原で動くことが多く、買い物も小さな村で済ませていたのだ。
「冒険者ギルド、か」
いかにも異世界らしい響きに、少し気分が上がった。
スマホを充電器へ差し込み、今度こそ忘れないようにモバイルバッテリーも鞄へ入れる。明日はタクシーを休んで、冒険者らしいことをしてみよう。




