1 逆走神 うわっ、前から車が!!
――ズガァンッ!
巨大な棍棒が地面を叩き割り、爆ぜた土と小石が頬を掠めた。
「っと……危ねえな!」
横へ飛び退いた俺は、その勢いのまま地面を転がり、片膝をついて腰の剣を抜いた。目の前にいるのは、三メートル近い巨体を誇る魔物だ。灰色の皮膚に丸太のような腕、頭には二本の角が生えており、握っている棍棒だけでも俺の身長ほどある。
半年前なら、見た瞬間に逃げ出していただろう。今だって好き好んで近づきたい相手ではないが、少なくとも足がすくむことはなくなった。
「まあ、人間ってのは慣れるもんだな」
「グオオオオオッ!」
咆哮を上げた魔物が、巨体に似合わない速さで突っ込んできた。足元から土煙が上がり、瞬く間に距離が縮まっていく。それでも、振り上げられた棍棒の軌道は見えていた。
俺は右へ踏み込んでその軌道を外し、棍棒が地面を打った直後、魔物の懐へ飛び込んだ。《身体強化》で底上げされた脚力を使って地面を蹴り、腰を回して剣を振り抜く。
刃は、がら空きになった喉を深く切り裂いた。
「グ……ォ……」
魔物は棍棒を引き戻しかけた姿勢のままよろめき、一歩、二歩と俺の横を通り過ぎると、膝から崩れて地面へ倒れ込んだ。重い音が森に響き、足元にまで振動が伝わってくる。
「ふぅ……」
少し離れた場所から動かないことを確かめ、剣についた血を拭っていると、頭の中に聞き慣れた声が響いた。
『レベルが上がりました』
「お、久しぶりだな」
これでレベル三十三。最近は必要な経験値が増えたのか、以前ほど簡単には上がらない。
剣を鞘へ戻して顔を上げると、木々の向こうに、日本ではまず見られない巨大な山脈が見えた。その麓には深い森が広がり、遠くまで人の手が入った気配はない。
「……こっちに来るようになって、もう半年か」
初めてここへ来た日は、景色を楽しむ余裕なんてなかった。今では魔物を倒したあとに山を眺めているのだから、自分でも随分変わったと思う。
その始まりは、東京で起きた一件の交通事故だった。
* * *
その日も、朝から東京の街を走っていた。
駅やホテル、病院、オフィス街。客を乗せては目的地まで送り届け、空車になれば次の客を探す。十四年続けてきた、ごく普通の仕事の一日だ。
俺はタクシーの仕事が好きだった。毎日違う客を乗せ、同じ道を走っていても、昨日と同じ一日にはならない。もっとも、その半年後に剣を持って魔物と戦うことになるなんて、このときの俺に話しても鼻で笑われただろう。
あの車が現れるまでは、そのくらい普通の日だった。
「……ん?」
交差点へ差しかかる手前で、前方から近づいてくる乗用車に気づいた。最初は何がおかしいのかわからなかったが、次の瞬間、背筋が冷えた。
同じ車線を、真正面から走ってくる。
「逆走!?」
ブレーキを踏み込みながらハンドルを切った。だが、逃げ込める場所を探すより先に、相手の車が目の前を塞いだ。
――ガシャァァァンッ!
凄まじい衝撃に身体がシートへ押しつけられ、金属のひしゃげる音と、ガラスの砕ける音が重なった。何がどちらへ動いたのかもわからないまま視界が揺れ、全身に激痛が走る。
あ、これ、まずいやつだ。
そう思ったところで、俺の意識は途切れた。
* * *
「本当に申し訳ありませんでした」
目を開けると、知らない男が頭を下げていた。
辺りは真っ白で、壁と床の境目さえわからない。目の前の男は白い服を着て長い髪を垂らしており、若いのか年を取っているのかも判断しづらかった。
「……誰?」
「神です」
俺が黙っていると、男は少し困った顔で言い直した。
「神様です。信じていただけませんか?」
「事故った直後に知らない場所で、知らない男から『神です』って言われて、はいそうですかって信じる奴いる?」
「それもそうですね」
自称神様は、妙に素直に頷いた。俺は自分の身体を見下ろしたが、痛みもなければ血も出ていない。
「俺、死んだ?」
「いえ、死んではいません。ここは私の管理領域で、あなたの意識だけを一時的にお招きしています」
「……病院じゃないのはわかった。それで、なんで俺に謝ってるんだ?」
「実は私、別の世界を管理している神なのですが、少々休暇を取りまして、地球へ遊びに来ていたんです」
「神様って休暇あるんだ。労基とかもあるの?」
「休暇はありますが、労基に当たるものはありません」
「ブラックだな」
「否定できません」
神様は咳払いをして、話を続けた。
「地球には興味深い乗り物がたくさんあるでしょう。自動車というものを、一度運転してみたくなりまして……」
そこで、嫌な予感がした。
「まさか、俺に突っ込んできた車、お前?」
「……はい」
俺は思わず天を仰いだ。ここに天があるのかは知らないが、ほかに向ける場所がなかった。
「神様が観光に来て交通事故を起こしたの? しかも逆走?」
「左側通行というものを失念しておりまして」
「そこ、一番忘れちゃダメなやつだろ!」
「申し訳ありません!」
神様は深々と頭を下げた。その様子だけなら反省しているように見えるが、事故を起こされた側としては、頭を下げられてもすぐには納得できない。
「俺の身体は? 車はどうなった?」
「お身体も車両も、私の責任で元に戻します。ほかに事故へ巻き込まれた方はいません。地球へお戻しする際には、衝突前の安全な位置へお返ししますので、ご安心ください」
「……それなら、まあ」
「ありがとうございます!」
「いや、それで全部よくなったわけじゃないからな?」
「もちろんです。こちらの全面的な過失ですので、別途、相応のお詫びをさせていただきます」
神様が右手を上げると、何もない空間に淡い光が集まり、俺の目の前で文字になった。
【天神地祇】
「……てんじんちぎ?」
「あなたへ差し上げる特殊スキルです。簡単に言えば、私が管理する世界に存在する、ほぼすべてのスキルを習得できます」
「ほぼ全部? 例えば?」
「剣術、魔法、身体強化、鑑定、錬金術、鍛冶、料理、隠密、各種の耐性などですね」
「ちょっと待て。それ、無茶苦茶じゃない?」
「無茶苦茶ですね」
「認めるんだ……。神様の交通事故って、慰謝料のスケールがおかしいだろ」
とはいえ、貰えるなら貰っておきたい。目の前に浮かぶ文字を眺めながら、俺は思いついたことを聞いてみた。
「じゃあ、強いスキルを最初から全部取れば無敵じゃん」
「それはできません。【天神地祇】で新しいスキルを習得すると、それから地球時間で二十四時間は、次のスキルを習得できなくなります」
「今日《剣術》を取ったら、明日の同じ時間までほかは取れないってこと?」
「その通りです。ただし、習得済みのスキルはいつでも使えますし、消えることもありません」
何でも覚えられるが、一度に手に入るのは一つだけ。怪我をすれば回復魔法が欲しくなるし、強い敵が出れば攻撃魔法が必要になるだろう。毒を受けてから耐性を覚えようとしても、その日に別のスキルを取っていれば間に合わない。
「何を取るか、ちゃんと考えろってことか」
「ええ。習得できる能力にも段階があり、強力なものにはレベルや、先に覚えておくべきスキルなどの条件があります。まずは取得可能なものからお選びください」
「なるほどね……。ところで、剣術はともかく、魔法なんて地球じゃ使い道がないよな?」
「習得した魔法は地球でも使えますが、お試しになるなら、私が管理している世界のほうがよろしいでしょう」
「……異世界に行けるの?」
そう聞くと、神様は待っていましたとばかりに笑った。
「もちろん。地球とその世界を行き来できる《異世界転移》を、今回に限り【天神地祇】とは別枠で差し上げます」
「別枠?」
「サービスです」
「通販みたいに言うなよ」
「お得ですよ?」
「神様から『お得』って言葉を聞きたくなかったわ」
それでも、地球へ帰ってこられるなら話は別だった。今の暮らしを捨てる必要はなく、仕事も続けられる。剣と魔法の世界が本当にあるのなら、一度くらい見てみたい。
俺がそう答えると、神様は転移の使い方を教えてくれた。最初に着くのは街から離れた草原で、二度目からは訪れた場所を行き先として選べるらしい。地球側も同じで、帰る場所を決めてから発動する仕組みだ。
「ただし、転移先の状況まではわかりませんから、安全な場所を選んでくださいね」
「そこは自分で気をつけろってことか」
こうして、交通事故のお詫びにしては随分と大きすぎる贈り物を貰い、俺の奇妙な二重生活が始まった。
* * *
最初の頃は、とにかく怖かった。
初めてゴブリンを見たときなんて、本気で逃げた。ゲームなら雑魚敵でも、錆びたナイフを握った化け物が、こちらを殺すつもりで追いかけてくるのだ。昨日まで東京で客を乗せていた俺に、落ち着いて対処しろというほうが無理だった。
だから、最初に手に入れたのは《身体強化》だった。翌日は《語学理解》、その次は《ヒール》。さらに《簡易鑑定》《剣術》《索敵》と、まずは生きて帰るために必要そうなものから揃えていった。
初めの数か月は、防御や耐性、逃げるための能力を優先した。新しいスキルを取らずに、いざというときのため取得できる状態を残しておく日もあったし、覚えたものを使いこなす練習にも時間がかかった。
焦る必要はない。俺には日本での生活も、仕事もある。
休みの日や営業を早く終えた日にこちらへ通い、少しずつ行動範囲を広げていくうちに、ゴブリン一匹から逃げ回っていた俺も、三メートル級の魔物を一人で倒せるようになった。
* * *
「……そろそろ戻るか」
倒れた魔物から離れ、スマートフォンで時刻を確認した。
こちらでは電波が入らないが、時計としては使える。異世界で強くなったからといって、日本の予定がなくなるわけではない。
日本では個人タクシー事業者。こちらでは、まだ冒険者の真似事をしているだけの男だ。好きな時間に動ける仕事だからこそ、こんな生活も続けられる。
「明日は朝から予約入ってるしな……」
巨大な魔物を斬り倒した翌朝には、東京で「ご乗車ありがとうございます」と客を迎える。冷静に考えると随分おかしな暮らしだが、半年も続けていれば、それなりに慣れるものだった。
ただ、スマホの画面に表示された数字には、慣れたくないものがある。
バッテリー残量、十一パーセント。
「……またかよ」
剣は使えるし、傷も治せる。火だって出せるのに、スマホの電池だけはいつも通り減っていく。モバイルバッテリーを持ってくれば済む話だが、忘れるものは忘れる。
「《発電》とか取れないかな」
【天神地祇】を意識すると、候補の一つに、本当に《発電》が浮かんだ。
「あんのかよ!」
思わず取得しかけたが、どうやってスマホへ電気を流すのか考えたところで手が止まった。発電できることと、安全に充電できることは別だろう。
「……モバイルバッテリー持ってこよう」
そのほうが確実だった。
スマホをしまい、自宅を行き先に指定して《異世界転移》を発動する。森の景色が消え、次の瞬間には、見慣れた部屋の明かりが俺を迎えていた。




