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神様に轢かれて【天神地祇】を授かりました ~東京と異世界を行き来する二重生活~  作者: 廻間 朔夜


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15 風雲タケシ城(屋台)

 翌朝、俺たちは昨日より少し早く家を出た。


 昨日はカレー五十食と菓子パン七十個がすべて売れたので、今日は販売用のカレーを六十食、菓子パンを八十個に増やしている。それとは別に、俺たち三人の昼食も用意した。初日の売れ方を考えればもっと増やしてもよさそうだったが、一日売れたからといって、次の日も同じように売れるとは限らない。売れ残れば材料費が無駄になるし、作る量を増やしすぎて二人の負担が大きくなっても困るので、とりあえず今日はこのくらいで様子を見ることにした。


 二人がここで働く目的は、店を大きくして商人として成功することではない。


 エレオノーラの顔や全身に残った古い火傷を治すには、これから何度も形成外科へ通わなければならず、セラフィナの喉も一度の手術で終わるとは限らない。日本の医療を受け続ける以上、そのたびに金が必要になる。


 俺が治療費を出しても構わないと思っていたが、二人はそれを望まず、自分たちの治療に必要な金はできるだけ自分たちで稼ぎたいと言った。そのために始めたのが、この屋台だった。


「今日は昨日より、俺は手を出さないようにするからな」


 市場へ向かいながらそう伝えると、エレオノーラが少し不安そうに俺を見た。


「わたくしたちだけで、ということでしょうか?」


「完全に二人だけじゃないよ。俺も近くにはいる。ただ、困ってないのに横から手を出すのはやめる。今日と明日で慣れて、それで大丈夫そうなら、その次からは二人だけでやってみよう」


 いつまでも俺が横に立っていたのでは、二人だけで店を回せるようにはならない。それに、屋台の手伝いをするために日本での仕事を休み続けていたら、今度は俺の生活のほうに影響が出てしまう。


 エレオノーラは少し考えてから、納得したように頷いた。


「そうですね。わたくしたちの治療に必要なお金を稼ぐために始めたのですから、タケシ様がお仕事を休んでいては意味がありませんものね」


「まあ、いきなり全部できなくてもいいんだけどな。分からないことがあったら聞けばいいし、失敗したって取り返せることなら問題ない。最初から完璧にやろうとしなくていいよ」


 そう言うと、隣を歩いていたセラフィナも胸の前で拳を握り、任せろと言いたげに頷いた。


 ところが、その直後に何かを思い出したらしく、鞄から紙とペンを取り出す。いったん道の端へ寄って何かを書き、それをエレオノーラへ渡すと、読んだ彼女が笑いをこらえながら俺を見た。


「『昨日、自分たちの昼食まで売ってしまった人に言われると、少し不安』だそうです」


 俺も横から紙を覗いたが、確かにそう書いてある。


「だから、あれは三人とも忘れてただろ。俺一人の責任にするなよ」


 俺が言い返しても、セラフィナは当然のように首を横に振る。


 どうやら昨日の昼食については、責任者だった俺の失敗ということで、彼女の中ではすでに決着しているらしい。


 * * *


 二日目の営業は、昨日よりずっと順調だった。


 預かり場から屋台を出し、借りた区画へ運ぶところまでは俺とセラフィナでやったが、そのあとの準備は昨日とは違った。俺がいちいち指示を出さなくても、セラフィナが火床と鍋を確認しているあいだに、エレオノーラが許可札を掛け、会計用の台へ帳面と釣り銭を並べている。座ったままでも手が届く場所へ注文札を揃えると、皿やスプーンの補充はセラフィナが引き受けた。


 昨日はカレーの注文が重なると菓子パンが客から見えにくくなっていたので、その置き場所も屋台の前からよく見えるところへ変えてあった。


 もちろん、昨日の反省を生かして俺たち三人の昼食も先に取り分けてある。


 特にセラフィナはよほど昨日のことが気になっていたらしく、自分たちの昼食を入れた容器を一度確認したあと、ほかの準備を終えてからもう一度蓋を開けて中を見ていた。


「そんなに確認しなくても、今日は売らないよ」


 俺が呆れて言うと、セラフィナは自分の分のカレーが確かに入っていることを確認してから、ようやく安心したように蓋を閉じた。


 準備を終えて店を開けると、昨日来た客が本当に何人も戻ってきた。


「今日はまだあるか?」


「はい。昨日より多くご用意しております」


「じゃあ二つ……と言いたいところだが、持って帰るのはまだ駄目なんだったな。昨日、家で話したら女房も食ってみたいって言っててよ」


「申し訳ありません。持ち帰りについては、もう少し準備ができてから始める予定です」


「そうか。じゃあ今日は俺だけ食ってくよ」


 そんな会話をエレオノーラが自然にできるようになっているのを見て、昨日一日だけでもずいぶん慣れたものだと思った。


 昨日は客が二、三人続いただけでも緊張していたのに、今日は相手の顔を見ながら受け答えをし、代金を受け取って会計を済ませてから次の客へ向かうという手順もきちんと守っている。


 昼前には昨日以上に客が集まる時間もあり、目の前の客へ釣り銭を渡している最中に、後ろから別の注文を言われることもあった。それでもエレオノーラは慌てず、まずは今対応している客との会計を終わらせる。


「順番に伺いますので、少々お待ちください」


 昨日は俺が代わりに言っていた言葉を、今日は彼女自身が客へ伝えていた。


 セラフィナのほうも、受け取った札を順番に並べ、ライスとパンを間違えないよう一皿ずつ確認しながら料理を渡している。客が途切れれば、汚れた食器を片づけ、次の客に備えて必要なものを補充していた。エレオノーラも座ったままでできる札の整理や紙袋の用意を引き受け、忙しいセラフィナの手を少しずつ空けている。


 俺は少し離れたところから二人の様子を見ていたものの、昼近くになってもほとんど出番がない。


 これなら、思っていたより早く二人だけでも店を回せそうだ。


 そう考えていたところで、セラフィナがこちらへ手を振った。


 何か困ったことでも起きたのかと思って近づくと、彼女は空になりかけた水桶を指さし、そのあと水場の方向を指した。


「ああ、水か。取ってくればいいんだな」


 笑顔で頷くセラフィナを見ながら水桶を受け取る。


 結局、その日俺に任された仕事らしい仕事は、水汲みくらいだった。


 * * *


 三日目になると、俺はさらに店から離れてみることにした。


「昼くらいまでは市場にいるけど、ずっとここにはいないからな。買い物もしたいし、冒険者ギルドにも寄ってくる」


「はい。こちらは、わたくしたちでやってみます」


 昨日の朝なら少しくらい不安そうな顔をしたかもしれないが、今日のエレオノーラは普通に頷いた。隣のセラフィナも問題ないと言いたげに手を上げたので、俺は二人に店を任せ、市場の通りへ歩き出した。


 少し離れたところで振り返ってみると、屋台の前にはすでに何人か客が立っている。


 エレオノーラが注文を聞いて代金を受け取り、その内容を確認したセラフィナが料理を用意する。まだ開店して三日目だというのに、遠くから眺めている限り、もう普通に営業している屋台と変わらなかった。


 二人がここで稼いだ金は、これから自分たちの治療に使われる。


 エレオノーラの火傷も、セラフィナの喉も、病院へ一度行けば治るようなものではなく、どれくらいの期間と費用が必要になるのかは今のところ分からない。それでも、こうして安定して稼ぐ方法を作ることができれば、少なくとも治療費がないという理由だけで途中で諦める必要はなくなる。


 自分たちの治療に必要な金を、できるだけ自分たちで用意したい。


 二人がそう望んで始めた店なのだから、俺がいつまでも横についているより、自分たちだけで続けられるようになったほうがいい。


 今の様子なら、それほど心配する必要はなさそうだった。


 * * *


 この数日、屋台の準備や二人の練習につき合う一方で、俺は新しいスキルもいくつか取っていた。


 異世界へ来たばかりのころは、何かあったときに身を守れるよう、戦闘や探索に使えそうなものへ目が向きがちだったが、最近は日本での生活や仕事に使えそうなものも探すようになっている。


 新しいスキルを取れば、次に取得できるのは地球時間で二十四時間後だ。その制限は変わらないので、屋台の準備や練習をしていた日から、一日ずつ間を空けて覚えていた。


 その一つが《暗算》だった。


 名前だけを見れば地味なスキルだが、実際に使ってみると思っていた以上に便利で、複数の数字を足したり引いたりするだけでなく、割合や単価の計算も以前よりずっと早くできるようになった。


 屋台の売上や材料費を確認するときにも便利だし、日本へ戻れば一日の売上や経費、高速代、燃料代など、数字を扱う場面はいくらでもあるので、取っておいて損はなかった。


 もう一つ取った《記憶》も、派手さはないが使い道は多い。


 一度見たものを何でも完全に覚えられるような能力ではなく、意識して覚えようとした情報が以前より頭に残りやすくなる程度だが、それでも、客を乗せやすかった場所や時間帯、その日に混んでいた道、工事をしていた場所などを覚えておけば、次に同じ辺りを走るときの判断材料になる。


 さらに《地図》というスキルも取った。


 これは一度通った場所や周囲の位置関係を頭の中で整理しやすくするもので、異世界だけでなく日本でも問題なく使えた。知らない土地の道まで勝手に分かるわけではないが、自分が見た道や、地図で確かめた位置関係を結びつけるのがずっと楽になる。


 《異世界ナビ》が現在地や目的地への道順を示す能力なら、こちらは自分の中にある地理の情報を整理する能力だ。何度も走っている東京の道なら、その違いは分かりやすかった。


 カーナビがあるとはいえ、表示された道だけを走ればいいわけではない。客から急に行き先を変えられることもあれば、「この先の細い道を入って」と言われることもあるし、大通りが渋滞していれば別の道へ逃げたほうが早い場合もある。


 周辺の道が頭に入っているだけで、そういうときの動きやすさはかなり違うし、以前から持っている《直感》や《先読み》と組み合わせれば、安全面でも役に立ちそうだった。


 剣が強くなったり、派手な魔法が使えるようになったりするわけではないが、今の俺にとっては、こういうスキルのほうが使う機会はずっと多い。


 せっかく覚えられるのだから、異世界で役立つかどうかだけを基準に選ぶ必要もないだろう。


 * * *


 三日目の昼過ぎに屋台へ戻ると、俺がいなくても店は問題なく回っていた。


 俺に気づいたエレオノーラも、目の前の客を放り出してこちらへ来るようなことはせず、きちんと会計を終えてから笑顔を向けてくる。


「お帰りなさいませ」


「どうだった? 何か困ったことはあった?」


「一度、お釣りを間違えそうになりました。でも、渡す前にセラフィナが気づいてくれました」


 横にいたセラフィナが少し得意そうに胸を張ったので、俺は思わず笑った。


「渡す前に気づいたなら大丈夫だよ。それに、一人が間違えそうになったときにもう一人が気づけるなら、そのほうが安心だ」


 エレオノーラもほっとしたように笑い、そのまま次の客へ向き直った。


 俺は閉店まで再び後ろで様子を見ていたが、大きな問題は起きなかった。


 片づけを終え、売上と帳面の数字が合っていることまで確認したところで、俺は二人へ尋ねた。


「明日から、二人だけでやってみるか?」


 エレオノーラはすぐには答えず、まずセラフィナを見た。セラフィナも彼女を見返し、しばらく二人だけで確かめ合うように目を合わせたあと、揃って俺へ向き直る。


「はい。やってみたいです」


「分かった。ただし、毎日送り迎えはするからな。それと、何かあったら無理して店を続けないこと。売上より二人の安全のほうが大事なんだから、危ないと思ったらすぐ閉めていい」


「はい」


 エレオノーラが真剣な顔で頷くと、セラフィナも同じように頷いた。


 俺が日本にいるあいだ、何かあっても携帯電話では連絡できない。そのため、困ったときは二人で冒険者ギルドへ行くことにし、朝に寄った際、ミレーユさんにも相談しておいた。彼女が受付にいなくても、ほかの職員へ事情を伝えれば待たせてもらえることになっている。


 これで、ひとまず開業までの手伝いは終わりだ。


 明日から二人はここで働き、自分たちの治療に必要な金を稼いでいく。俺は朝に二人を送り、夕方になったら迎えに来る。それ以外の時間は日本で仕事をすればいいので、これなら無理なく続けられそうだった。


 * * *


 翌朝、二人を異世界へ送り、店の準備が終わるところまで見届けてから、俺は一人で日本へ戻った。


 自宅の駐車場に停めてあるアルファードの周囲を確認し、運転席へ座る。エンジンを始動し、見慣れたメーターが点灯するのを眺めると、ここ数日ずっと異世界の屋台にいたせいか、妙に久しぶりのような気がした。


「さて、俺も稼がないとな」


 個人タクシーを始めた以上、休めばその分だけ売上は減る。


 予約が入っているわけではなかったので、まずは人が動きそうな場所へ向かいながら、覚えたばかりの《地図》を意識してみた。


 頭の中に地図そのものが表示されるわけではないが、次の交差点を曲がった先に何があり、その道がどこへつながっているのかが以前よりはっきり分かる。何度も走っている場所なら、普段あまり使わない細い道まで自然と思い出せた。


 信号待ちで時計を確認すると、この時間ならホテルから駅や空港へ向かう客が動き始めるころだった。


 駅へ向かうか、大通りを流すか、それともホテルの多いほうへ行くか。


 そんなことを考えていると、《直感》が右へ行けと告げるような感覚があったので、青信号に変わったところで右折し、そのまましばらく流してみる。


 すると、ホテルの前で大きなキャリーケースを持った客が手を上げた。


 行き先は羽田空港だった。


 客を降ろしたあとで今日の売上を確認しながら、思わず笑ってしまう。


「やっぱり便利だな」


 もちろん、《直感》を使えば必ず長距離の客を拾えるなどと思ってはいないし、そんな都合のいい能力でもない。それでも、《暗算》《記憶》《地図》に《直感》や《先読み》まで組み合わせれば、普段の営業がかなりやりやすくなるのは間違いなかった。


 特に《先読み》は、売上よりも安全面でありがたい。


 路地から自転車が飛び出してきそうなときや、前を走る車が急に車線を変えそうなとき、ほんの少し早く違和感に気づけるだけでも余裕を持って対応できる。


 異世界で使うことばかり考えていた能力が、日本へ戻ればまったく別の使い方をできる。そのことが分かってからは、新しいスキルを選ぶときにも、以前とは違った見方をするようになっていた。


 その日は夕方まで東京を走り、久しぶりに本業だけに集中した。


 * * *


 夕方になり、営業を切り上げた俺は二人を迎えに異世界へ向かった。


 市場へ着くと、屋台はすでに片づけに入っており、俺を見つけたセラフィナが大きく手を振った。


「無事に終わったみたいだな」


「はい。今日は、最初から最後までわたくしたちだけでできました」


 そう答えたエレオノーラの声には、三日前にはなかった自信が感じられた。


「売上はどうだった?」


「昨日とほとんど変わりません。こちらです」


 差し出された帳面を受け取り、覚えたばかりの《暗算》も使いながら数字を確認していく。売上と手元の硬貨に違いはなく、材料費や場所代についても、教えたとおりに分けて書かれていた。


「うん、合ってる。これなら大丈夫そうだな」


「ありがとうございます」


 エレオノーラが嬉しそうに笑い、セラフィナも横から帳面を覗き込みながら満足そうに頷く。


 この調子で店を続けられれば、二人の治療費も少しずつ貯めていけるだろう。


 形成外科の治療も、セラフィナの喉の手術も、最終的にどれくらい金がかかるのかはまだ分からない。それでも、治療を続けるための方法が一つ形になったことは大きかった。


 俺が昼間に日本で仕事をしているあいだ、二人はここで屋台を開き、夕方になれば俺が迎えに来る。そんな生活にも、少しずつ慣れていけそうだった。


 片づけを手伝いながら、明日はカレーを何食用意するか二人と話していると、後ろから名前を呼ばれた。


「タケシ様」


 振り返ると、ミレーユさんが立っていた。


「お疲れさまです。今日は遅かったですね」


「ええ。少し、調べていたことがありまして」


 そう答えたミレーユさんの表情を見て、俺は手を止めた。


 普段の穏やかな顔とは明らかに違っている。


「もしかして、例の件ですか?」


 俺が尋ねると、ミレーユさんは小さく頷いたあと、周囲へ目を向けた。


「ここでは少し……。場所を変えてもよろしいでしょうか」


「分かりました」


 エレオノーラには帳面と食器の整理を、セラフィナには鍋や火床の後始末を続けてもらい、俺とミレーユさんは屋台から少し離れ、人通りの少ない場所へ移動した。


 以前、ミレーユさんが盗賊にさらわれた事件については、その後もずっと気になっていた。


 あのときの盗賊たちは、たまたま通りかかった女性を狙ったわけではなく、最初からミレーユさんを狙って動いていた。捕らえた男の一人が貴族から金を受け取ったと口を滑らせ、ミレーユさんからは、以前からしつこく誘ってくる下級貴族がいたとも聞いている。


 当時は、その貴族が相手にされなかったことで、無理やりさらわせようとしたのではないかと考えた。ただ、それを裏付ける証拠はなく、その後の調べは衛兵に任せていた。


「何か分かったんですね?」


「はい。捕らえられていた盗賊の一人が、ようやく話したそうです」


 ミレーユさんは周囲に人がいないことを確かめてから、声を落として続けた。


「やはり、わたしをさらうよう依頼した人物がいました。盗賊が直接その人物から依頼を受けたわけではなく、間に仲介人が入っていたそうです」


「その仲介人から、依頼した人間までたどれたんですか?」


「そう聞いています」


「やっぱり、貴族でしたか」


「はい。下級貴族です」


 驚きはなかった。


 むしろ、以前から考えていた可能性の一つが、ようやく事実として裏付けられたという感覚のほうが強かった。


「名前も分かったんですか?」


「分かっています」


「それなら、どうしてミレーユさんを狙ったのかも?」


「いいえ。そこまでは、まだ分かっていないそうです」


 依頼した人物まで分かったのなら、これで事件の理由にも近づけるかと思ったが、どうやら肝心な部分はまだ残っているらしい。


 ところが、ミレーユさんはそこで話を終わらせず、少し迷うような表情を見せた。


「ただ、その貴族について調べている中で、もう一つ気になることが分かりました」


「何です?」


「最近、人を使ってある女性のことを調べさせているそうなんです」


「女性?」


「はい。名前までは分かっていないそうなのですが、聞き回っている内容が少し気になりまして……」


 そこまで言ったところで、ミレーユさんは屋台のほうへ目を向けた。


 俺もその視線を追う。


 少し離れたところで、エレオノーラとセラフィナが二人で道具を片づけていた。


「まさか……エレオノーラ?」


「わたしも、そうではないかと思っています」


「どんなことを聞いてたんです?」


「若い女性で、顔にひどい火傷の痕があり、最近この市場で商売を始めたらしい、と」


 そこまで特徴が一致していれば、別人だと考えるほうが難しい。


「いつから調べてるんです?」


「それは、まだ分かりません。ただ、その貴族の使いと思われる者が市場で何度か聞き回っていたことは確認できたそうです」


 俺はもう一度エレオノーラを見る。


 ミレーユさんは、エレオノーラが滅亡したアルセニア王国の第三王女だったことを知らない。もちろん、その隣で片づけをしているセラフィナが、かつて彼女を守っていた近衛騎士だったことも知らなかった。


 だからこそ、俺にはこの話が偶然とは思えなかった。


 ミレーユさんをさらうよう盗賊へ依頼した下級貴族が、今度はエレオノーラについて調べている。


 何かつながりがある。


 そう考えながら、俺はミレーユさんへ視線を戻した。


「その貴族の名前、教えてもらえますか?」


「ベルニエ男爵です」


「……以前、何度もギルドに来て、ミレーユさんを誘っていた人ですか?」


「はい。その方です」


 疑っていた人物が、ようやく名前を持った。


 ミレーユさんをしつこく誘っていた男と、盗賊へ依頼を出したとされる男。そして、エレオノーラを探している男が、同じベルニエ男爵だという。


「それと、もう一つお伝えしておいたほうがいいことがあります」


 ミレーユさんはそう言うと、少し声を落とした。


「盗賊へ依頼を伝えた仲介人について調べたところ、その人物は以前、外国との交易に関わる仕事をしていたことが分かったそうです」


「外国との交易?」


「はい。今はもう存在しない国との取引にも関わっていたそうで……」


 その言い方に、胸の奥で何かが引っかかった。


「どこの国です?」


「アルセニア王国です」


 一瞬、周囲の音が遠くなったような気がした。


 ミレーユさんにとっては、すでに滅びた外国の名前にすぎない。


 だが、俺にとっては違う。


 少し離れたところで屋台を片づけている、顔に古い火傷を負った女性が、その国の第三王女だった。そして、その隣にいる声を失った女性は、王女を守っていた近衛騎士だ。


 ミレーユさんを狙った下級貴族。


 その依頼を仲介した、かつてアルセニア王国との交易に関わっていた人物。


 そして今、その貴族はエレオノーラについて調べている。


 そこまで重なってしまえば、ただの偶然で片づけることはできなかった。


 俺は事情を知らないミレーユさんの前では何も言わず、もう一度だけ屋台のほうへ目を向けた。


 エレオノーラとセラフィナは、こちらの話など知らずに片づけを続けている。


 二人にとっては、ようやく自分たちで治療費を稼げるようになったばかりだった。


 それなのに、二人が遠く離れたこの街で静かに暮らすことは過去が許してはくれないらしい。

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