14 屋台の屋号が思いつかなかったので募集します
ここら辺から、一万文字超えが多くなります。
長くてすいません
屋台の準備をすると言っても、どこへ頼めばいいのか、俺にはまったく見当がつかない。
以前のように短い時間だけ商品を並べて売るのなら、適当な台さえあれば何とかなる。だが、今度はエレオノーラとセラフィナが毎日使う店になるのだ。鍋を置く台が丈夫かどうかだけでなく、日差しや雨を避けられることや、二人が無理な姿勢で働かずに済むことも考えておきたかった。
商業ギルドで紹介してもらった道具屋へ向かう途中、エレオノーラが先ほど受け取った許可札を布で丁寧に包み、鞄の中へしまった。あまりに大事そうに扱うので、なくすのが心配なのかと尋ねてみると、彼女は鞄の口に手を添えたまま首を横に振った。
「わたくしの名前でいただいたものですから、大切にしたいのです。まだ、何も売ってはいないのですけれど」
「それなら、店を開けたらちゃんと見えるところに飾ろう。せっかく取った許可なんだしな」
隣を歩いていたセラフィナも頷き、屋根の下に何かを掛けるような仕草をした。どうやら彼女の頭の中では、もう自分たちの店が出来上がりつつあるらしい。
道具屋へ着くと、荷車や木箱、桶などに混じって、商売に使うための屋台が何台か並んでいた。
店主に使い道を説明すると、最初に勧められたのは、車輪のついた木製の台に布の屋根を張った屋台だった。客に商品を渡すための広い板が前についており、内側には道具をしまえる棚もある。
「最初は借りるだけでも構わんよ。しばらく使ってみて、気に入ったら買えばいい。そのときに値段を相談しよう」
場所と同じように、屋台も試しに借りられるのはありがたかった。
俺が屋台の大きさを確認しているあいだに、セラフィナは内側へ回り込み、鍋を置く場所や皿を並べる場所を確かめている。エレオノーラが客の立つ側へ回ると、二人で身振りを交えながら、注文を受けて料理を渡すところまで試し始めた。
「どうだ? 使えそうか?」
セラフィナは頷いたものの、すぐに台の上を指さし、それから熱いものに触れたように手を引っ込めた。
「木の上で火を使うのが心配なのか。そこは店主に聞いてみよう」
尋ねてみると、火を使う店には専用の火床も貸しているという。鍋を支える鉄製の台と、火の粉や炭を受けるための受け皿を見せてもらい、屋台の木や屋根の布から十分に離して使えることも確認した。
それから、エレオノーラには内側へ回ってもらい、店主から借りた椅子へ座ってもらった。注文を受けるたびに立ち上がらなければならないのでは、座って会計を担当してもらう意味がない。硬貨や注文札へ無理なく手が届くか確かめると、前の板は少し高かったので、店主に相談して、会計用の小さな台も一緒に借りることにした。
「ここにお金と帳面を置けば、座ったままでもやれそうか?」
「はい。これでしたら、腕をあまり伸ばさずに済みます」
エレオノーラが手を動かして確かめると、セラフィナも隣へ立ち、注文札を受け取るところまで試してくれた。料理を客へ渡すのはセラフィナに任せ、エレオノーラは注文と会計に集中する。そのほうが二人とも動きやすそうだった。
借りるものを決めたあとは、市場の区画まで運んでもらう日を相談し、桶や蓋つきの容器、片づけに使う道具なども一緒に揃えていった。
皿とスプーンは、まずはこちらで普通に使われているものを選んだ。食べ終わった客には返してもらい、汚れた食器と洗った食器が混ざらないよう、それぞれ置く場所も分けることにする。持ち帰りまで始めると容器も必要になるので、最初からあれこれ手を広げず、まずは屋台の近くで食べてもらう形から始めることにした。
買い物が終わるころには、俺よりも二人のほうが店に必要なものを細かく見るようになっていた。
エレオノーラは支払った代金を帳面に書き留め、セラフィナは買った品物を一つずつ確認している。その様子を眺めていたミレーユさんが、俺の隣で小さく笑った。
「もう、お二人のお店ですね」
「そうですね。俺が全部決めるより、実際に使う二人に選んでもらったほうがよさそうです」
ちょうど店主と納品について話していたエレオノーラがこちらを振り返り、少し照れたように笑った。
* * *
日本へ戻ってからの二日間は、家の台所がほとんど練習場になった。
まずは俺が一度カレーを作って見せ、次はセラフィナに包丁を持ってもらい、エレオノーラと二人で材料を量るところから始めてもらった。
肉や野菜の大きさがばらばらでは、火の通り方も変わってしまう。市販のルーを使うとはいえ、水の量まで適当にしてしまえば毎回同じ味にはならないので、材料の分量や作る手順は紙に書いて残しておくことにした。
セラフィナは包丁そのものには慣れているようで、肉や野菜を切る手つきに危なっかしさはなかった。
ところが、玉ねぎを切り始めてしばらくすると、何度も目を瞬かせるようになった。やがて耐えきれなくなったのか包丁を置き、涙の浮かんだ目でこちらを見てから、恨めしそうに玉ねぎを指さした。
「目にしみるんだよな。手でこすると余計につらくなるから、少し離れててもいいぞ」
セラフィナは首を横に振り、再び包丁を握ったものの、間もなく涙が頬を伝い始めた。
それを見たエレオノーラが布を差し出すと、セラフィナは包丁を置き、礼を言うように頷いて受け取った。目元を拭いてから、今度は完全に敵を見るような目でまな板の玉ねぎを睨み、布を脇へ置いて再び切り始める。
「以前、訓練で負けたときにも泣かなかったのに」
エレオノーラがそう言うと、セラフィナが勢いよく顔を上げた。
どうやら何か言い返したいらしく、すぐに紙へ手を伸ばしたので、俺は慌てて声をかける。
「書くのはいいけど、先に包丁を置いてくれ」
言われて初めて気づいたらしく、セラフィナは包丁をまな板へ置いてから紙に何かを書き始めた。
差し出された紙をエレオノーラと一緒に覗くと、『剣なら、相手が目を狙ってくることくらい分かる』と書いてある。エレオノーラが口元を押さえ、笑いをこらえているので、俺は一応、慰めてやることにした。
「玉ねぎだって、次からは分かるだろ。今日は相手のことを知らなかったんだから仕方ない」
慰めたつもりだったのだが、セラフィナには余計なことを言うなと言いたげな目で睨まれた。
それでも作業へ戻れば、やはり手は早い。切った野菜を種類ごとにまとめ、使い終わった道具は邪魔にならない場所へ移していく。周囲を見ながら動くことが身についているようで、火加減や煮込む時間さえ覚えてしまえば、俺が横から手を出すことはすぐに減りそうだった。
ただし、最初に二人だけで作ったカレーは、少し水が多かった。
食べられないほどではないが、最初に俺が作ったものと比べると、とろみが足りず、味も少し薄い。味見をしたセラフィナは眉を寄せ、鍋の中と手順を書いた紙を何度も見比べていた。
途中の作業を二人に確かめると、決めた量の水を入れたあと、具材が完全には浸かっていないのが気になって、少し足したらしかった。セラフィナが水を注いだときの高さを鍋の内側に示し、エレオノーラも申し訳なさそうに頷く。
「煮ているうちに野菜からも水が出るし、具材が少し顔を出してても、混ぜながら煮れば火は通るんだ。心配になったら、足す前に聞いてくれればいいよ」
「次からは、書いてある分量のまま作ります」
エレオノーラがすぐに紙へ注意を書き足した。
セラフィナはもう一度味見をしてから、鍋を指さして俺を見る。
「もう少し煮詰めれば大丈夫だよ。ただ、焦げつかないように底からしっかり混ぜてくれ」
その日の夕飯は、練習で作ったカレーになった。
二人は自分たちで作ったカレーを食べながら、次はどこを変えればいいのか相談していたが、俺が二杯目をよそうと、それを見ていたセラフィナが少し嬉しそうに笑った。
翌日の練習では、昨日よりずっといいカレーが出来上がった。
エレオノーラも一口食べて頷き、セラフィナと顔を見合わせている。
俺の《調理師》を使えば、もっと簡単に作ることはできる。だが、俺がいなければ作れないのでは意味がない。これから二人の店になるのだから、時間がかかっても、自分たちだけで同じ味を作れるようになってもらう必要があった。
何より二人自身が、自分たちの手で昨日より美味しく作れたことを喜んでいるようだった。
料理の練習が終わると、今度は注文を受ける練習を始めた。
俺が客の役になって立ち、エレオノーラが椅子へ座って注文を受け、セラフィナが料理を用意する。店で使う台の高さに近い場所へ帳面や硬貨を並べ、二人の間で札を受け渡す位置も確かめた。
「カレーを一つ。パンで頼む」
「はい、パンですね。お代はこちらになります」
エレオノーラが注文を書いた札をセラフィナへ渡し、俺から代金を受け取る。そのあいだにセラフィナがパンを取り、カレーを皿によそうところまでは順調だった。
ところが、俺が続けて菓子パンも頼むと、エレオノーラは釣り銭を持ったまま、菓子パンを置いた棚へ手を伸ばしかけた。
「まずは会計を終わらせよう。途中で別のことをすると、いくら受け取ったのか分からなくなるかもしれないから」
「すみません。お待たせしてはいけないと思って……」
「少しくらい待ってもらって大丈夫だよ。慣れるまでは、一つずつ確実にやろう。パンを取るのも、セラフィナに頼めばいいからな」
注文に使う札は、ライスとパンで形を変えることにした。並んでいる札を見れば、まだ出していない料理が何皿あるのか分かるようにする。
声を出せないセラフィナのためには、客に見せるための札と、自由に文字を書ける板も用意した。接客のときに使い慣れた言い回しは二人のほうがよく知っているので、札の文面は二人に考えてもらい、俺も一緒に読みながら、文字の大きさや客への見せ方を確かめた。
最後に、セラフィナが新しく作った札を一枚見せてきた。
そこには、『店員へのおすそ分けは歓迎します』と書いてある。エレオノーラが途端に笑い出したので、俺は札とセラフィナの顔を見比べた。
「それは表に出さないでくれ。俺たちは売りに行くんだからな」
セラフィナは残念そうな顔で札を裏返したが、捨てるつもりはないらしく、そのまま大事そうに道具箱へしまっていた。
* * *
そして迎えた開店の日。
朝から三人で異世界へ向かい、市場へ着くと、約束どおり屋台が区画まで運ばれていた。
屋根の布がしっかり張られていることを確認し、借りた区画の中へ道具を運び込んでから、二人と一緒に鍋や食器を並べていく。日本で用意してきた食品は《アイテムボックス》から必要な分だけ取り出し、残りはそのまま中へしまっておいた。
エレオノーラの椅子と会計用の台も、練習したときと同じように並べた。通路を塞がず、セラフィナが料理を渡す邪魔にもならない位置を確かめてから、帳面や釣り銭を置いてもらう。
初日とはいえ、以前ここでカレーと菓子パンを売ったときには、かなりの数が売れている。あのとき買ってくれた客がまた来る可能性も考え、今回はカレーを五十食分、菓子パンを七十個用意してきた。
カレーにつけるご飯と食事用のパンについては、どちらか一方に注文が偏っても対応できるよう、少し多めに用意してある。
「これだけあれば、さすがに昼までは持つと思うけど、売り切れたら今日はそこで終わりにしよう。どっちがよく出たか分かれば、明日の準備にも使えるからな」
セラフィナは大きな鍋の中を確認してから俺に頷き、エレオノーラは帳面を開いて、用意した数を書き込んでいった。
その手つきは落ち着いていたが、自分の名前で受け取った許可札を屋台へ掛けるときだけは、紐を結び直すために二度も手を止めていた。
「緊張してる?」
「はい。昨日までは、タケシ様がお客様でしたので」
「知らない人が相手だと違うよな。でも、困ったら俺に聞けばいいし、セラフィナもいる。二人だけで何とかしなきゃって思わなくていいから」
エレオノーラが頷いたところで、隣の露店の男が顔を出した。
朝から準備をしている俺たちのことが気になっていたらしく、新しくここを借りたのかと声をかけてくる。
挨拶を返して売る料理について説明すると、男は鍋から漂ってくる匂いを確かめるように鼻を動かした。
「これ、前にもこの辺で売ってなかったか?」
「ええ。そのときは俺が売ってました。今日からは、この二人が中心になってやるんです」
「なるほどな。俺もあとで一つ買うよ。朝から腹が減る匂いだ」
そう言って笑いながら自分の店へ戻っていく男を見送り、エレオノーラがほっと息を吐いた。
その隣で、セラフィナが『いらっしゃいませ』と書かれた札を持ち上げる。
俺も店の前から内側へ回り、いよいよ店を開けることにした。
最初の客は、その札よりも鍋から漂う匂いに引かれてきたらしい。
通りを歩いていた二人組の冒険者が足を止め、そのうちの一人が屋台を覗き込んだ。
「これ、前に食ったやつか? 香辛料を使った、茶色い煮込み」
「はい。カレーです。こちらのパンと、ライスのどちらかをお選びいただけます」
エレオノーラの声は練習のときより少し高くなっていたが、それでも客にはきちんと届いていた。
男がライスとは何かと尋ねると、彼女は見本として小さな器に盛っておいたものを示し、穀物を水で炊いたものだと説明する。
「じゃあ、俺は前と同じのでいい。こいつはパンにしてくれ」
「ライスとパンを一つずつですね。少々お待ちください」
エレオノーラから札を受け取ったセラフィナが、すぐに皿を用意する。
俺は隣で鍋や火床に問題がないことを確認していたが、盛りつけには手を出さなかった。そのままセラフィナが二人分の料理を完成させ、客へ渡すところまで見守る。
エレオノーラも代金を受け取ると、まず硬貨を手元へ置き、それから釣り銭を数え始めた。練習した手順を一つずつ思い出しているのだろう。硬貨を確認して客へ渡し終えてから、ようやく顔を上げた。
二人の男は屋台の脇へ移動し、立ったままカレーを食べ始めた。
パンを選んだ男が一口食べるなり隣を見ると、以前にも食べたことのある男は、どうだと言わんばかりに笑う。
「うまいな。最初は、何を煮たらこんな色になるのかと思ったが」
「だから言っただろ。匂いを嗅げば分かるって」
そのやり取りを聞いていたセラフィナが、俺の腕を軽く叩いた。
振り返ると、彼女は嬉しそうに笑いながら、客の皿を指さしている。
「聞こえたよ。気に入ってくれたみたいだな」
俺が小声で答えると、セラフィナは満足そうに頷き、次の客に備えてスプーンを並べ直した。
* * *
朝のうちは一人、二人とやって来る程度だった客も、時間が経つにつれて少しずつ増えていった。
以前俺から買ってくれた人だけでなく、カレーを食べている客を見て興味を持ち、屋台へ近づいてくる人もいる。中には前に食べた味を覚えていて、知り合いを連れてきた客までいた。
「ほら、これだよ。前に話したの」
「これがカレーってやつか?」
そんな会話が聞こえてくるようになると、客が新しい客を連れてきてくれるようになった。
菓子パンだけを買う客も多かった。一個買ってその場で食べ、気に入ったのかすぐに戻ってきて何個かまとめて買っていく者もいる。
俺は二人の後ろで袋を用意したり、足りなくなった食器を補充したりしながら、できるだけ二人自身に店を回してもらうことにした。
一度に四人、五人と客が来たときには、さすがにエレオノーラも戸惑った。
先に来た客へ釣り銭を渡そうとしているところへ、後ろから別の客が注文を言ってきたのだ。
「順番に伺いますので、少しお待ちください」
俺が代わりに声をかけると、その客は分かったと言って少し下がった。
エレオノーラは目の前の客との会計を終えてから次の人へ向き直り、セラフィナも受け取った札を順番に並べ、間違えないよう一皿ずつ料理を渡していく。
慌てたからといって、仕事が早くなるわけではない。
二人がいつもの手順に戻れたことを確認してから、俺はたまってきた洗い物を片づけることにした。
途中、エレオノーラの顔をじっと見つめる客もいた。
彼女が料理について説明しているあいだ、その男の視線が顔の火傷の痕へ向いていることに気づき、俺は少し身構えた。
だが、男は何も言わなかった。
注文した分の代金を払い、料理を受け取ると、そのまま連れのところへ戻っていく。
エレオノーラも何も言わず、次の客へいつもどおり挨拶をしていた。
ただ、手元の札を揃える指に少し力が入っていることには気づいたので、注文が途切れたところで水を渡した。
「少し休むか?」
「もう少し、ここにいてもよろしいですか?」
「もちろん。疲れたらいつでも言ってくれればいいよ」
エレオノーラは水を飲んでから頷き、空になったコップを棚へ置いた。
セラフィナも心配そうにこちらを見ていたが、エレオノーラが笑いかけると安心したのか、自分の持ち場へ戻っていった。
昼を過ぎても客足は途切れなかった。
五十食用意したカレーは、いつの間にか鍋の底が見えるところまで減っている。七十個あった菓子パンも、籠の中に残っている数を簡単に数えられるほどになっていた。
そんなところへ、ミレーユさんがやってきた。
仕事の合間に寄ってくれたらしく、まだ食べられるかと屋台を覗き込むと、エレオノーラが嬉しそうに迎える。
「はい。まだございます。パンとライスは、どちらになさいますか?」
「今日はライスでお願いします。これは、お二人が作ってくださったんですか?」
「仕込みは、わたくしたちでしました。タケシ様に、たくさん教えていただきましたけれど」
ミレーユさんは皿を受け取ると、セラフィナにも礼を言い、それからカレーを一口食べた。
その様子を、エレオノーラとセラフィナが揃ってじっと見つめている。
二人の視線に気づいたミレーユさんは、次の一口を食べようとしていた手を止め、困ったように笑った。
「そんなに見られると、緊張してしまいますね。とても美味しいですよ」
その言葉を聞いた途端、エレオノーラの肩から力が抜けた。
セラフィナも満足したらしく、ようやく次の注文のために新しい皿へ手を伸ばした。
それからしばらくして、俺が鍋を覗くと、残っているカレーはほんのわずかになっていた。
「あと何食くらいだ?」
尋ねると、セラフィナも鍋を覗き込み、指を三本立てる。
「三食か。菓子パンのほうは?」
エレオノーラが籠の中を確認した。
「あと五個です」
「そっちもほとんど売れたのか」
五十食と七十個。
前にもよく売れたとはいえ、初日から全部なくなることまでは考えていなかった。
だが、以前買ってくれた客がまた来てくれただけでなく、その客が知り合いを連れてきてくれた。さらに、目の前でカレーを食べている人を見て注文する客もいたのだから、ここまで売れたのも不思議ではないのかもしれない。
最後のカレーを買ったのは、以前にも食べたことがあるという冒険者だった。
「もう終わりか?」
「申し訳ありません。今日のカレーは、こちらで最後になります」
「危なかったな。明日はもう少し作ってくれよ」
笑いながらそう言われ、エレオノーラも嬉しそうに頭を下げた。
それから間もなく、残っていた菓子パンもすべて売れた。
カレー五十食。
菓子パン七十個。
初日に用意した分は、一つも残らなかった。
最後の客を見送ったあと、セラフィナが空になったパンの籠を持ち上げ、何度か中を覗き込んだ。本当に何も残っていないことを確かめているらしい。
「全部売れたな」
俺が声をかけると、セラフィナは満面の笑みで何度も頷いた。
エレオノーラも帳面を開き、売れた数と手元にある硬貨を何度も見比べている。
「合わないところがある?」
「いいえ。きちんと合っています。ただ……本当に、これだけのお金をいただいたのかと思いまして」
俺も隣から帳面を覗き込んだ。
「今日は全部売れたからな。でも、これは売上だから、全部が儲けになるわけじゃないよ。材料代もあるし、場所代や道具を借りた金も引かないといけない」
そう説明すると、エレオノーラはすぐに別の頁を開いた。
「それも、こちらへ書いてあります。今日の分は、このように考えればよろしいでしょうか」
「うん、それでいい。最初にまとめて払ったものは、使う日数で分けて考えよう」
エレオノーラは頷き、数字を一つずつ確認しながら帳面へ書き込んでいった。
俺はその横で空になった鍋と籠を眺めていたが、そこで大事なことを思い出した。
「……そういえば、俺たちの昼飯は?」
エレオノーラが目を瞬かせた。
セラフィナも動きを止める。
三人で顔を見合わせ、それから空になった鍋とパンの籠へ視線を移した。
「全部、売っちゃったな」
セラフィナがゆっくり俺を見る。
その目は明らかに、どうして自分たちの分を取っておかなかったのかと訴えていた。
「いや、俺だけの責任じゃないだろ。三人とも忘れてたんだから」
セラフィナは納得していないらしく、じっと俺を見たままだった。
「……分かったよ。明日は先に取っておこう」
ようやく彼女が頷いたところで、エレオノーラが堪えきれなくなったように笑った。
腹は減っていたが、片づけずに店を離れるわけにもいかない。食べ終わった最後の客から皿とスプーンを受け取り、売り切れを知らせる札を出してから、三人で後始末を始めた。
セラフィナには火床の始末を頼み、俺は残った食器と鍋を洗った。洗い水やごみは教わった場所へ処理し、余ったご飯と食事用のパンは、販売分とは別に数えて《アイテムボックス》へ戻す。菓子パンもカレーも完売したが、注文の偏りに備えて多めに持ってきた主食までは、使い切らなかった。
屋台と椅子、会計用の台は、あらかじめ道具屋に紹介してもらった市場の預かり場へ運んだ。空の屋台なら車輪を転がして動かせるので、俺とセラフィナで押し、エレオノーラには帳面と許可札を持ってもらう。鍋や食器は俺が収納して持ち帰ることにし、明日の朝に何を出せばいいかも三人で確かめた。
すべて終わったころには、セラフィナが何度も食べ物の露店へ目を向けるようになっていた。
「悪かった。先に昼飯を買えばよかったな」
近くの店で焼いた肉を挟んだパンを三人分買い、少し遅い昼食にした。セラフィナは受け取るとすぐに一口かじり、ようやく落ち着いた顔になる。
エレオノーラも腰を下ろして食べながら、先ほどまで自分が注文を聞いていた屋台の方角を見ていた。他の店で食事を買うだけのことが、今日は少し違って感じられるのかもしれない。
食べ終わってから街の外へ出て、人目につかない場所で《異世界転移》を使った。初めての営業を終えた二人を連れ、三人で日本の家へ戻った。
* * *
家へ戻ると、セラフィナは居間の椅子へ座り、両手を膝の上へ置いたまま大きく息を吐いた。
エレオノーラも靴を脱ぐのにいつもより時間がかかっていたので、今日は二人とも休んでいてくれと伝えた。俺も少し休んでから、夕飯の支度に取りかかることにする。
「明日もカレーを作るんだから、今夜は別のものにしよう。簡単なのでいいよな」
セラフィナが勢いよく頷いた。
ところが、疲れているはずなのに、すぐ鞄から紙とペンを取り出す。まだ言いたいことがあるらしく、何行も書いてから俺とエレオノーラへ紙を差し出した。
お客様に美味しいと言ってもらえたのが、とても嬉しかった。それから、明日はパンをもう少し見やすい場所へ並べたい。そう書かれた部分を読み、俺も頷いた。
「それは俺も思った。カレーの注文を受けてると、奥に置いたパンが見えなくなってたからな。明日は場所を変えてみよう」
俺が答えると、隣で紙の続きを読んでいたエレオノーラが笑い出した。
そこには、明日は自分たちの昼ご飯を、売り始める前に必ず分けておいてほしいと、ほかの行より大きな文字で書いてあった。
「ああ。それは絶対にやろう」
今日用意したカレー五十食と菓子パン七十個は、一つ残らず売れた。
もちろん喜ぶべきことなのだが、俺たち三人の昼飯まで売ってしまい、結局は他の店で買うことになったのだから、そこだけは完全に失敗だった。
「明日は最初に三人分を取っておく。それなら文句ないだろ?」
セラフィナは満足そうに頷いたあと、少し考えてから指を一本立てた。
「……一人一食だからな。自分だけ二食確保しようとするなよ」
俺がそう言うと、セラフィナは心外だと言わんばかりの顔をした。
エレオノーラがその隣で笑っている。
「セラフィナなら、二食くらい食べられるかもしれませんね」
エレオノーラまでそんなことを言うものだから、セラフィナは今度は彼女のほうを振り返った。
何か言いたそうに口を開きかけ、声が出ないことを思い出したのか、すぐに紙へ手を伸ばす。
「いや、もういいって。夕飯できるまで休んでろ」
俺が止めると、セラフィナは不満そうにペンを置いた。
夕飯が出来上がるころには、エレオノーラも帳面を鞄へしまっていた。
三人で食卓につくと、エレオノーラは今日最初に来た二人組の客について話し始め、セラフィナも身振りを交えながら話に加わる。
俺もずっと同じ屋台にいたはずなのに、二人が覚えているのは、俺が見ていなかった客の表情や、聞き逃していた短いやり取りばかりだった。
「明日もまた来ると言ってくださった方がいらしたのです」
「そうか。それなら、明日もちゃんと作らないとな。今日全部売れたからって、いきなり倍にするわけにもいかないし、どれくらい増やすかも考えよう」
エレオノーラは嬉しそうに頷いたあと、食卓の上に置いた自分の手へ目を落とした。
「今日は少し、怖いと思うこともありました。でも、料理をお渡しすると、皆さん普通に受け取ってくださって……」
そこで一度言葉を止めてから、彼女は顔を上げた。
「明日も、わたくしが注文を伺いたいです」
「もちろん、頼むよ。明日は今日より慣れてる分、少しやりやすくなると思う。俺もあと二日は一緒にいるから、気づいたところを直しながらやっていこう」
すると、隣に座っていたセラフィナが手を伸ばし、エレオノーラの手に自分の手を重ねた。
そのまま俺のほうを見る。
「料理のほうはセラフィナに任せるよ。今日みたいに頼むな」
そう言うと、セラフィナは大きく頷いた。
エレオノーラも彼女の手を握り返し、二人で顔を見合わせて笑う。
俺は明日の仕込みに必要なものを頭の中で考えかけたが、ひとまず箸を取ることにした。
カレーを何食増やすか、菓子パンをいくつ用意するか、買い足すものは何か。それを考えるのは、夕飯が終わってからでも遅くない。
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