第99話 読まれる
日が完全に沈み、深い闇が訪れてからしばらくの後、納屋の板戸が開いた。
出雲常雄が、一人だけで立っていた。
手にした素焼きの油皿に、灯心の芯が一本、細く頼りなく燃えていた。
常雄は戸口で草履を静かに脱ぎ、土間へと上がり、油皿を足元の床へと置いた。
そして——私の正面に、どっかりと腰を据えた。
その太い膝頭が、私の膝からわずか三尺ほどの至近距離にあった。
「……話を、聞こう」
私は、即座には答えなかった。
答えなかったのは、頑なな意地や反抗心からでは決してなかった。
昨日の昼、社の前庭で固く心に誓っていたのだ。
いまこの場で私が何を弁明しようとも、それはすべて「悪魔の口から出た虚偽」として処理されるだけだ。
数えられない無意味な言葉をいくら並べ立てたところで、それは私のこれまでの検数の職能の誇りに反する行為だった。
「言うことは、何もないのか」
「……あります」
「ならば、申してみよ」
「私が口頭で申しますと、おそらく……お聞きになる側で、真実が削り減らされてしまいます」
常雄の細い眼光が、ピタリと動きを止めた。
◆◆◆
「……私たちの背負い籠の中に、藍染めの端布で括られた包みがございます。その中身を、直接ご自身の目で読んでいただけませんでしょうか」
しばらくの沈黙の後、常雄は板戸の外へ向けて短く声をかけた。
あの物見の少年が夜道を駆け足で去り、やがて息を切らせて戻ってきた。
社の縁側に保管されていた私たちの荷物の中から、その包みだけが運ばれてきた。
厚い油紙で幾重にも包まれ、上から古い藍染めの端布で十文字にきつく括られた包み。
布地の藍色は、長年の摩擦でところどころ白く色が抜けていた。
常雄は、その結び目を太い指先で丁寧に解いた。
中から、使い古された三冊の帳面が現れた。
「……読んでいただく前に、ひとつだけ申し上げておきます」
私は言った。
「その帳面には、私の誤解で間違って書き記した箇所がいくつもございます。人から聞いた噂話を、自分自身で十分に確かめないまま書き留めた頁もございます。日付を書き落とした部分も……。ですから、ここに書かれたすべてが客観的な真実であるとは、私自身の口からも断言はできません」
常雄は、一冊目の帳面の擦り切れた表紙を、指の腹で静かになぞった。
「……文字は、読める」
男は、それだけを短く口にした。
その読み書きをどこで誰から習い覚えたのかも、なぜ辺境の白地で文字が読めるのかも、何ひとつ語ろうとはしなかった。
「昼のあいだ、ずっと社の中に籠もっておった」
常雄は、帳面の最初の頁を静かに開いた。
「神に、おまえたちのことを問いかけた。だが……神は、何ひとつ答えを返してはくださらんかった」
常雄は、指の腹を自らの耳の後ろの皮膚へ一度当てて湿らせ、頁を繰った。
指を舐めて唾液をつけるような真似はしない。
日常的に黒い土を素手で扱う人間特有の、紙を傷めないための慎重な繰り方だった。
「神が答えを下さらんときは……人間自身の目で、紙を読んで確かめるしかないからの」
◆◆◆
出雲常雄は、そこから無言で手記を読み進め始めた。
油皿を、帳面の右上の位置へと少しずつ寄せていく。
灯心の明かりが紙面を照らし出す角度が、頁をめくるごとに微かに変化する。
ひとつの頁を読み終えると、皿の位置を直して、次の頁をめくる。
乾いた紙が擦れ合う微かな紙擦れの音だけが、納屋の暗闇の中に規則正しく響き続けた。
二十四年のあいだ、私は常に他人から一方的に「読まれる側」の人間だった。
能力検定の小窓に表示される無機質な数値に読まれ、役所の冷酷な稟議書に読まれ、新興宗教の独善的な教義によって勝手に読まれてきた。
私を読み解こうとした連中は、常に私の安全な外側にいて、一方的に読まれているあいだ、私にできる抵抗など何ひとつ存在しなかった。
だが——いまは、決定的に違っていた。
私が、自らの意思で手渡したのだ。
差し出した手記を、目の前の生身の人間が、息を詰めて一頁ずつ繰っている。
紙をめくる皮膚の擦過音が耳元で聞こえるほどの至近距離で、私は正当に読まれていた。
それは、これまでの人生で味わったことのない、まったく新しい体験だった。
一刻ほどが経過した頃、壁際に座っていた明石さんが静かに口を開いた。
コンクリートの壁に背中を預けたまま、目を閉じた状態で低く呟いた。
「……そこに書かれている、能力検定の判定精度百パーセントという数字だがね」
常雄が、帳面の頁から視線をスッと上げた。
「現実に人間が計測した統計の数字であるならば、どこかで必ず測定誤差が生じる。百パーセントなどという完全な一致は、現実世界には絶対に存在しない」
「ほう」
「一度も外れない数字というのは、人間が測った数字ではない。国家の誰かが、最初から意図して『そう決めた数字』だ」
常雄は、少しのあいだ沈黙を守った。
「……その数字を事前に決めた首謀者が、国家の奥におるということかの」
「そうだと言い切っているわけじゃない。そうでなければ、統計の計算の辻褄が合わない、と言っているんだ」
明石さんはそう言って、それきり固く口を閉ざした。
◆◆◆
夜が、深く更けていった。
由良が、火桶の中へ新しい炭をそっと足した。
二度、足した。
二度目に炭を足した際、常雄の木製の湯呑みが空になっていることに気づき、薬缶から温かい白湯を音もなく注いだ。
常雄は湯呑みを手元で見ることすらなく、手記から目を離さないまま、その白湯を静かに飲み干した。
一冊目の手記の中盤に差し掛かったとき、常雄の手が完全に静止した。
長い静止だった。
頁は開かれたままで、指先も微動だにしなかった。
それから——常雄は、前の頁へと、一頁だけ紙を戻した。
戻して、もう一度、同じ文章を最初から読み直した。
どの頁のどの記述を読み直しているのかは、私の位置からは見えなかった。
見えたのは、その指先の動きだけだった。
頁を戻す際、紙の縁で指先が二度ほど、迷うように滑っていた。
二冊目の手記に入る頃、明石さんは静かな寝息を立てて眠りに落ちていた。
私は、最後まで一睡もすることができなかった。
三冊目の手記には、あの二つの名前が記されている。
日向澪、そして日向律。
私が二十四年間、自分自身の出自の血筋だとは知らずに記録してきた、あの二つの名前。
その名前を、見知らぬ他人が読むのは、これが正真正銘の初めてだった。
私は、自らの両手の指先を、胸の前で無心に数え続けていた。
◆◆◆
板壁の三筋の隙間が、ゆっくりと色を変え始めた。
外の世界が、白々と明け始めていたのだ。
出雲常雄が、三冊目の手記の最後の頁を静かに閉じた。
閉じてから、両手の太い指先で自らの両目のあたりを強く押さえ、しばらくのあいだ、その姿勢を保ち続けた。
油皿の灯心は、とうに短く燃え尽きかけていた。
私は、自分自身の両の手のひらが、冷たい汗でびっしょりと湿っていることに気づいた。
かつて港町の能力検定の小窓の前に立ったとき、私の掌はいつもこのように湿っていた。
十六年の歳月が流れても、この身体の反応だけは直らなかったのだ。
常雄が、ゆっくりと顔を上げた。
読まれた、のではなかった。
私が、読ませたのだ。
「……お前は、穢れなどではない」




