第100話 正読
出雲常雄は、三冊の手記を丁寧に重ね合わせ、あの使い古された藍染めの端布で元通りに十文字に括り直した。
その結び方の手順は、私が日頃行っている括り方と寸分違わぬものだった。
昨夜、自らの手で解いた布の折り目を、そのまま正確に辿り直してくれたのだ。
常雄は、その包みを私の前へと静かに差し出した。
「……昼に、前庭へ出す」
男はそれだけを低く言い残すと、納屋を出て行った。
◆◆◆
昼の太陽が天頂に達した頃、私たちは前庭へと引き出された。
庭には、昨日の昼を遥かに上回る大勢の村人たちが集まっていた。
人数を数えようとして、途中でやめた。
段々畑の農夫たちも、家の中にいた女たちも、山道の遥か上方に至るまでびっしりと立ち並んでおり、人垣の端が見通せなかった。
数え切れないほどの群衆を、数え切れたふりをして誤魔化すのは、私の検数の流儀に反していた。
祭壇の石台の上には、昨日と同じ九つの素焼きの器が整然と並べられていた。
常雄は石台の前ではなく、前庭の真ん中の土の上に堂々と立ち塞がっていた。
集まった里の人間たちのほうへと向き直っていた。
「……大昔の話を聞かせよう」
低く、だが前庭の隅々にまで染み渡る声だった。
「天の彼方からやって来た神々が、この豊穣な大地をすべて明け渡せと迫った。従わねば、力ずくで奪い去ると脅した。この国を治めていた神は、その脅迫に屈して土地を譲った。譲り渡し、社の奥深くへと閉じこもった」
庭の片隅で、幼い子供が地面の小石を拾い集めて並べていた。
七つの小石を、自分の膝の前へと一列に引き寄せている。
誰もその子供を叱りつけたり、止めたりする者はいなかった。
「だが……土地を譲らなかった者たちも、確かにこの山に残った。畑を焼き払われ、水路の水を止められようとも、自らの先祖の土から一歩も動こうとはしなかった。わしらの親の親の、そのまた遥かな親たちじゃ」
常雄は、そこで一度言葉を区切った。
「わしらは、その譲らなかった者たちの側に、いまも生き続けておる」
村人たちは、誰一人として声を上げようとはしなかった。
幼い頃から幾度となく耳に叩き込まれてきた、この里の血の掟なのだろう。
◆◆◆
常雄は祭壇の石台へ歩み寄り、九つの器の中からひとつを取り上げ、前庭の土間の中央へと静かに置いた。
上向きに口を開けたまま、置いた。
「昨日、わしはこの器の動きを見て、あの男を悪魔の心臓と断じた」
そして、常雄は自らの足で、器へ向けてゆっくりと歩みを進めた。
十歩。
五歩。
三歩。
器のすぐ目の前まで歩み寄り、地面にしゃがみ込んで、その底を覗き込んだ。
器の底に敷き詰められた白い粉塵は、中央に留まったまま、微動だにしなかった。
常雄は立ち上がり、あの物見の少年を手招きして歩かせた。
少年が三歩の距離まで近づいても、粉塵は動かなかった。
「……あんたも、前へ出よ」
由良が指名された。
由良は地面についた両手を静かに引き上げ、立ち上がり、器の前へと凛として歩み寄った。
三歩手前の位置で静止し、しばらくのあいだ息を潜めた。
粉塵は、少しも動かなかった。
「……歩く順番を、入れ替えろ」
明石さんが、背後から声を上げた。
手首を縄で縛られたまま、木柵の内側に立っていた。
「先にその少年を歩かせ、その後に由良さんを歩かせる。……それから、逆の順序でもう一度歩かせてみろ」
常雄が、鋭い視線を明石さんへと向けた。
「なぜ、そんな小細工をするのじゃ」
「特定の順番でしか現れない現象は、歩いた順序という条件が引き起こしている誤差に過ぎない。器そのものが反応しているとは科学的に断定できないからだ」
常雄は、少年に向けて無言で合図を送った。
二度、実験の順序が組み替えられた。
四人の人間が、順序と立ち位置を変えながら器の前を往復した。
だが——器の底の白い粉塵は、四度の試行のすべてにおいて、一粒たりとも動くことはなかった。
◆◆◆
「……おまえが、行け」
常雄が私を指差した。
私の手首の麻縄は、解かれなかった。
前で縛られた姿勢のまま、私は前庭の端から、土の上に置かれた器へ向けて一歩を踏み出した。
十歩手前の距離で、足を止めた。
その瞬間——器の底の白い粉塵の表面が、風もないのに微かにさざめいた。
そして、私の立つ方角へ向けて、薄く引き寄せられるように偏った。
五歩手前。
粉塵の動きが、劇的に変化した。
器の内壁の、私に最も近い側の面に沿って、白い粉がまるで生き物のように垂直に立ち上がりかけ、そして崩れ落ちた。
崩れ落ちて、再び立ち上がろうと蠢く。
私の両手の甲の内側が激しく痺れ、その電撃のような痛覚が前腕の骨の内側を駆け抜け、肋骨の奥深くまで達した。
三歩手前。
器の中の白い粉塵は、もはや底には一粒も残っていなかった。
そのすべての粒子が、器の内側の、私の胸元を真っ直ぐに向いた垂直の壁面へと、磁石に吸い寄せられるようにぴったりと張りついていたのだ。
風など、吹いていなかった。
私は両手を縛られたままであり、何の物理的な動作も起こしていなかった。
前庭を取り囲む群衆の中で、声を上げる者はただの一人もいなかった。
出雲常雄が、私の一歩手前まで歩み寄り、土間へと静かに両膝をついた。
私に祈りを捧げるためではなかった。
器の内壁に張りついた粉の姿を、真下からじっと見上げるためだった。
◆◆◆
「……この粉をな」
常雄は、器に触れようとはせず、低く語りかけた。
「禍津日という」
私の人生で、初めて耳にする名前だった。
「国家によって祓い清められ、掃き捨てられ、不要な異物として切り捨てられたものたちの名じゃ。……国が『完全な浄化』を謳ったとき、その浄化によって排除された側にあったものこそが、この粉なのじゃ」
常雄は、ゆっくりと顔を上げ、私の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「おまえの書き記した手記を、夜通し読ませてもらった」
私の帳面のことだった。
「十六年もの歳月、百のうち百、すべてにおいて『完全な機械の適合者』と烙印を押され続けてきたと記されておった。……連れの男は、あれは計測した数字などではなく、国家が最初から決めた数字じゃと申した」
常雄は、言葉を一度だけ切った。
「国家の機械が、この世で最も強く『おまえは機械の僕だ』と決めつけた存在が、この広大な国にたった一人だけ存在するとする」
老人は、土間に膝をついたまま、私を見上げ続けた。
「それがもし……機械が自らの手で絶対に作ることのできなかった、ただひとつの【本物の人間】であったとしたら、一体どうなるのじゃ」
二十四年のあいだ、私という人間を読み解こうとした他者は数多く存在した。
能力検定は私を「非認証の零点」と読み、
国家は私を「生体通信の実験場」と読み、
三つの宗教の教理は、私を「素通り」し、「神聖な源」と読み、「機械を殺す兵器」と読んだ。
そして六つ目に、この目の前の老人が、私を「悪魔の心臓」と読み違えた。
そして——いま。
「……あなたがたのことを」
私は口を開いた。
声が、喉の奥の震えのせいで、かすれて低くなった。
「国津派、と呼ぶ者たちがいます。……南の白地の境界の山奥で、そう耳にいたしました」
出雲常雄は、首を横に振ろうとはしなかった。
肯定の頷きすら、見せなかった。
「そう呼ぶ者たちが外の世界におることは、とうに知っておる。……わしらにとっては、ここはただの生きるための里に過ぎん」
常雄は、両膝についた土の汚れを手で静かに払い、ゆっくりと立ち上がった。
「じゃが……その呼び名も、決して間違うてはおらん」
老人は、白地の高い空を見上げた。
「国津の神は……あの天の機械に、決して己を譲らなかった者たちの神じゃからの」




