第101話 増える椀
朝の冷徹な光が、杉板の戸の節穴から細い白金色の筋となって土間へ差し込んでいた。
納屋の冷え切った空気の中には、乾燥した藁の匂いと、土壁が夜のあいだに吸い込んだ湿気が重く淀んでいた。
私のすぐ隣の藁の上で、由良が丸くなって眠っていた。
麻の白い上衣の襟元が寝返りの拍子にわずかに乱れ、朝の青白い光の中に、透き通るような白い鎖骨の起伏が覗いていた。
閉ざされた空間の中で、夜を明かした彼女の柔らかな素肌の体温と、清らかな井戸水のような匂いが、微かな吐息とともに漂ってくる。
低い軋み音を立てて外の閂が外され、板戸がゆっくりと引かれた。
逆光の中に、物見の少年の小柄な影が浮かび上がった。
少年は腰の革帯から小刀を抜いたが、刃の切っ先をこちらに向けることはしなかった。
私の前に静かにしゃがみ込み、手首に巻きつけられた麻縄の結び目に、小刀の厚い背の部分を器用にあてがった。
刃で断ち切れば縄は二度と使えなくなる。
鉄も繊維も極度に乏しいこの隠れ里では、一本の麻縄すら無駄に消費することは許されないのだ。
少年は鎌の背を使って、硬く締め合わされた結び目を一筋ずつ押し広げていった。
麻の繊維が擦れ合う微かな抵抗のあと、結び目が解け、両手首を圧迫していた冷たい締めつけが緩やかに消え去った。
私の手首の皮膚には、縄の網目が白い帯状の溝となってくっきりと残っていた。
鬱血させるような乱暴な縛り方ではなかったため、赤く腫れ上がってはいない。
ただ皮膚の表面に、麻縄の冷たさと強固な拘束の痕跡だけが刻まれていた。
「……常雄様が、呼んでおる」
少年は感情を交えずに告げると、明石さんと由良の足元へ回り、同じように手早く縄を解いていった。
明石さんは右腕の火傷を庇いながら、引きつる皮膚の痛みにわずかに眉を寄せ、左手で慎重に手首を回した。
見えない熱で焼かれた右腕は、赤く爛れたまま痛々しく残っていたが、白地の薬草を塗られたことで、あの嫌な匂いと滲み出る汁は引いていた。
由良は目を覚まし、解かれたばかりの細い手首をさすりながら、私と視線が合うと、安堵に満ちた深い息を吐いて微笑みかけた。
「……参りましょう、昊様」
その声は低く澄んでおり、朝の冷たい大気の中に静かに溶けていった。
◆◆◆
出雲常雄の住居は、前庭の社のすぐ真下の斜面に建っていた。
低く張り出した茅葺き屋根は長年の風雨で黒ずみ、深い軒先には干し草の束やトウモロコシの皮が幾重にも吊り下げられている。
土間に足を踏み入れると、中央に切られた一間四方の囲炉裏から、薪の爆ぜる乾いた熱気が肌を打った。
自在鉤に吊るされた黒い鋳鉄鍋の隙間から、白い湯気が幾筋も立ち上っている。
囲炉裏の縁を囲むように、素朴な木椀が伏せられた状態で整然と並べられていた。
欅の木地を荒削りしただけの古い椀で、縁の漆は長年の使用によってところどころ剥げ落ちている。
たすきの女が囲炉裏の前に正座し、伏せてあった椀をひとつずつ静かに起こしていった。
木と木が擦れ合う乾いた音が、静まり返った土間に小さく響く。
女は奥の板棚からさらに三つの木椀を取り出し、並べられた列の末尾へと迷いなく追加した。
——三つ、増やされた。
半月ほど前、西の遷移域の廃変電所で目にした光景が、鮮烈に私の脳裏に蘇った。
あの油と錆の匂いが充満した暗がりで、石上派の男たちが増やした三つの椀。
あのときの三つは、国家の監視網を狂わせるための「兵器」として、使い捨ての道具として増やされた数だった。
だが、いま目の前の囲炉裏端で増やされた三つは、まったく意味が異なっていた。
この山奥で命を繋ぐための、生きている人間の「口」の数だった。
「……六十二人おります」
たすきの女が、誰を見るでもなく、淡々とした実務的な声で言った。
「大人が四十九。子が十三。ここに三つ足せば、六十五になります」
明石さんが、煤けた梁を見上げたまま、指を折って数えることもなく短く頷いた。
「冬の蓄えは、持つのか」
「越せます。全員の麦の配分をわずかに削れば、何とか春まで持ちこたえられます」
女は菜の漬物が入った重い木桶の蓋を、手慣れた所作で膝で押さえながら開けた。
発酵した野沢菜の強い酸味と塩気が、囲炉裏の湯気と混じり合って土間いっぱいに広がる。
「塩と鉄だけは、この山の中では絶対に手に入りません。南の白地の境界にある秘密の置き場まで、年に三度、決まった時期に取りに行きます。……次は、初雪が降る直前です」
常雄は囲炉裏の向かい側に深く腰を下ろし、真っ赤に熾った炭火をじっと見つめていた。
「……わしが、手記を読んだ」
老人は火から目を離さないまま、低く重い声で言った。
「読んだ者が、そのすべての責を負う。三つ増えたぶんの麦は、わしの分け前から削ればよいだけの話じゃ」
それ以上、誰も何も言わなかった。
理由を詮索する者も、異論を差し挟む者も一人としていなかった。
朝の膳は、稗と粟を炊き込んだ粗末な飯に、塩辛い菜の漬物、それに野生の根菜を煮込んだ汁物だけだった。
調味料の乏しい食事だったが、塩気が驚くほど強烈だった。
何日も山道を歩き続け、汗とともに塩分を枯渇させていた私たちの身体の奥底へ、その濃密な塩分が染み渡っていくのが分かった。
由良は私のすぐ隣に膝を揃えて座り、麻の袖を重ね合わせるようにして、静かに椀を口に運んでいた。
触れ合う肩と太ももの布越しに伝わってくる生々しい温もりが、朝の冷気で凍え切っていた私の身体を芯から溶かしていく。
私は無言で木椀を抱え、右手の親指の腹でその縁をそっとなぞった。
椀の縁の一部が、滑らかに丸く欠けていた。
長年の歳月の中で、誰かの唇と指が幾千回と触れ続けたことによって、角が完全に削ぎ落とされた欠け方だった。
いつもなら、私は帳面を開く前に中指の第一関節にあるペンだこの位置を確かめていた。
だがいま、私の親指は、その椀の欠けの感触を何度も確かめていた。
二十四年間、国家の中央計算機から「零点」と判定され、どこの台帳にも一行すら載せてもらえなかった私が、いま、この見知らぬ山奥の六十五人目の口数として、確かに数えられている。
◆◆◆
昼過ぎ、私たちは里の中を自由に歩くことを許された。
監視の兵がつくこともなく、どこへ行くなとも命じられなかった。
白地の山肌を切り拓いて作られた七段の段々畑の上を、冷たく澄んだ秋の風が吹き抜けていく。
茅葺きの家の軒下では、里の女たちが大根の収穫作業に追われていた。
掘り起こした大根を井戸水で洗い、三本ずつ束ねて太い藁縄に挟み込んでいく。
根の太いほうを上にして交互に縄を締め上げると、縄が乾いた摩擦音を立てて軋んだ。
私たちの後ろから、小さな足音がついてきた。
昨日、前庭で器の底の粉が私の方へ立ち上がるのを見ていた子供たちだった。
怯えた様子はなく、ただ好奇心に満ちた澄んだ目で私を見上げている。
先頭にいた童が、道端から拾い上げた平たい小石を私の足元へと差し出した。
昨日の白い粉のように、小石が私の身体に吸い寄せられて跳ねるかどうかを試しているのだ。
小石は、地面に転がったまま微動だにしなかった。
子供は少し肩を落とし、つまらなそうに石を拾い直して山道を駆けて戻っていった。
水路の脇では、明石さんが石垣に腰を下ろし、落ち口から流れ落ちる水の高さを静かに目測していた。
白地の水力と落差を頭の中で計算し、この里のエネルギー収支を割り出そうとしているのだろう。
由良は、大根を干している女たちの輪の中へと自然に入り込んでいた。
白い麻の衣の袖を肩口までたくし上げ、細い注連縄のような腰紐で裾を高くからげている。
露わになった二の腕は、水仕事と看取りの過酷な労働で引き締まり、日差しを浴びて健康的な肌色に輝いていた。
泥のついた太い大根を両腕で抱え上げるたび、前屈みになった胸元の上衣がわずかに張り、豊かな身体の起伏が麻布越しに鮮明に浮かび上がる。
泥まみれの大根を軒下の高い竹竿へと軽々と持ち上げていくその所作には、余計な躊躇が一切なかった。
女たちの手の動きを二度見ただけで、縄の縛り方を正確に覚えていた。
額には玉のような汗が滲み、濡れた黒髪の束が白いこめかみに張りついている。
ふいに由良が顔を上げ、私の視線に気がついた。
目が合うと、大根を抱えたまま、悪戯が見つかった子供のように胸元をすくめて照れくさそうに笑った。
その無防備な笑顔の眩しさと生々しい肉体の躍動感に、私は胸の奥を激しく突かれたような動揺を覚え、慌てて視線を逸らして社の方角へと歩き出した。
社の裏手の杉林へ回ろうとしたとき、物見の少年が木陰から音もなく姿を現し、私の行く手を遮った。
「……そっちは、入るな」
少年は感情を交えずに言った。
社の裏には、私たちが閉じ込められていた納屋のほかに、もう一棟、土台の低い頑丈な板倉が建っていた。
窓はひとつもなく、分厚い杉板の引き戸には重い掛け金が下ろされ、硬い木の楔が固く打ち込まれている。
板戸の隙間からは、一切の光も漏れていなかった。
夕刻、囲炉裏端に戻った際、私はその建物のことを常雄に尋ねた。
常雄は鉄瓶から白湯を椀に注ぎながら、火を見つめたまま短く答えた。
「……板戸の奥は、まだ見せん」
木椀を板の間に置く。
「見せるときが来れば、わしのほうから呼ぶ。それまでは、触れるな」
◆◆◆
日が山陰へと完全に沈み、谷底から深い夜霧が這い上がってきた頃、たすきの女が土間に入ってきた。
女は無言で由良を手招きした。
由良は静かに立ち上がり、女の後について外の暗がりへと出て行った。
しばらくの間、土間には囲炉裏の薪が爆ぜるかすかな音だけが流れていた。
やがて戸が開き、由良が一人で戻ってきた。
由良は何も語らなかった。
私のすぐ隣へと静かに歩み寄り、膝を揃えて腰を下ろした。
触れ合うほど近い距離から、夜風で冷えた衣服の匂いと、微かな薬草の香りが伝わってくる。
由良は火箸を取り、薪の燃え残りを中央へ寄せて火の加減を整えた。
私は、何も尋ねなかった。
外で何を言われたのかを訊けば、彼女は答えたかもしれない。
だが、理由を詮索しないことが、この旅において相手の尊厳を守る唯一の作法なのだと、私は知っていた。
私は懐から帳面を取り出し、それを固く十文字に括っていた藍染めの端布を解いた。
解いた布を膝の上に置いた瞬間、囲炉裏の向こうにいたたすきの女の手が、その場で静止した。
女の視線が、私の膝の上の藍色の布へと釘付けになっていた。
女は無言のまま、自らの首元に固く巻かれていた藍染めの手拭いに手を伸ばした。
結び目を解き、それを囲炉裏の縁の木肌の上へと静かに置いた。
私の端布のすぐ隣に、並べるようにして置いた。
「……常雄様」
女が低く呼んだ。
奥から常雄が歩み出てきて、土間に置かれた二枚の布を見下ろした。
身をかがめ、私の端布の端を節くれだった指先で静かにつまみ上げた。
織り目の荒さ、藍の染まり具合、そして長年の摩擦によって端から白く擦れ落ちた色合いを、無言で見つめた。
「……どこで、手に入れた」
「白地の縁の集落です」
私は答えた。
「民家が六軒しかない、山あいの小さな集落でした。……足を悪くした老いた女の人が、私たちの火傷と傷を手当てしてくれました」
「名は」
「……トメさん、と名乗っていました」
常雄は指を離し、布を元の位置へと静かに戻した。
「トメか」
老人は囲炉裏の向こうへ戻り、再び燃え盛る火を見つめた。
「あれは、わしらの筋の者じゃ。……若い頃に、山を下りた」
「……あの方は、この里のことも、ご自身の来歴も、何ひとつ口にしませんでした」
「言わんよ」
常雄は鉄鍋の湯を自分の椀に注ぎ入れた。
「何も訊かんかったろう。……あれは、相手の素性を決して訊かん。訊かない代わりに、必要な手だけを差し出す。それが、あいつの生き方じゃ」
白地の縁のあの家で、鉈を研ぎながら無言で薬草の束を差し出してくれた老女の姿が、鮮明に蘇った。
あの徹底した「訊かない作法」は、トメさん個人の気難しい気性などではなかった。
天の支配を拒み、この過酷な山奥で沈黙を守り続けてきた国津の民の、何世代にもわたる血の掟だったのだ。
たすきの女は、囲炉裏の縁に置いた自分の手拭いを取り上げようとはしなかった。
二枚の藍染めの布が、薄暗い土間の中で並んだまま、静かに置かれていた。
風雨に晒され、何度も水で洗われたことで、どちらの布も端のほうから同じように白く褪せていた。
同じ藍の甕から生まれた布は、何十年の歳月が流れようとも、まったく同じ褪せ方をする。




