第102話 祖霊の声
朝霧がまだ谷底を乳白色に埋め尽くしていた頃、薄暗い納屋の前に出雲常雄が姿を現した。
粗末な木綿の野良着の裾を太い藁縄で縛り、素足に履いた草鞋の先には、冷たい朝露がびっしりと光を放っていた。
「今日じゃ」
老人は短く言い捨てると、私たちが立ち上がるのを待つこともなく、杖代わりに握った樫の棒を土に突いて、谷の奥へ向かって力強く歩み出した。
明石さんは右腕の包帯を左手で軽く押さえながら、無言で常雄の後に続いた。
由良も麻の白衣の裾をからげ、私と視線を交わして小さく頷くと、静かに歩調を合わせた。
◆◆◆
集落の家並みを抜け、清冽な細流が岩を噛む踏み跡を登り詰めた谷の最奥に、半分土に埋もれた登り窯が築かれていた。
赤土と割栗石を漆喰で固めた天井は低く、焚き口の周囲には白く細かな灰が厚く積もっている。
長年の猛火で焼き締められた土壁からは、鉱物と乾燥した薪が放つ独特の乾いた熱気が立ち込めていた。
腰の曲がった老人が一人、鉄の平鍬を使って焚き口の奥から灰を掻き出していた。
掻き出された灰は目の詰まった竹畚へと手際よく移され、畑の隅にある堆肥場へと運ばれていく。
この里では、薪の灰すら大地へ還す循環の一部だった。
「……窯は、これ一つしかないのう」
老人は私たちの足音に顔を上げることすらなく、乾いた声で呟いた。
私たちが何者なのかを詮索する素振りすら見せなかった。
「ひと焚きで、三十六じゃ」
老人が天井の抜き穴から、焼き上がったばかりの器をひとつずつ取り出していく。
由良が素早く歩み寄り、まだ微かな余熱を帯びた器を両手で受け取って、地面に敷かれた筵の上へと順序よく並べていった。
赤みを帯びた素焼きの器だ。
表面には釉薬の一筋も塗られておらず、粗い砂粒の感触がそのまま残っている。
「土は、谷のもっと奥の沢から掘り出す」
老人は器の底の砂を掌で払いながら言った。
「掘って、冬のあいだ雪の下で寝かせ、練って、轆轤で挽いて、焼く。……器の形になるまでの手数は、昔から変わらん」
「……この器は、誰でも焼けるのですか」
私が尋ねると、老人は初めて口元をわずかに緩めた。
「焼けるとも。土をこねて火にくべるだけじゃ」
老人は冷めかけた器をひとつ取り上げ、私の両手の上へと載せた。
「だが、口の径と、側面の厚みだけは狂わせられん」
老人は節くれだった親指と人差し指をいっぱいに広げ、器の縁にあてがってみせた。
指の股が、器の外周の縁に吸い付くようにぴったりと収まっている。
「これより口が広いと、風に煽られて粉が散る。狭すぎれば、肝心のときに粉が寄ってこん」
「寸法の型や、尺木があるのですか」
「そんなものはない」
老人は広げた指先を私の目の前に突き出して見せた。
「わしの手が、初めからこの幅を覚えとる」
◆◆◆
粉を調合する小屋は、登り窯のさらに奥、鬱蒼とした杉林の木陰にひっそりと佇んでいた。
頑丈な閂が下ろされており、常雄はその前を素通りして視線すら向けなかった。
「あれは、見せられん」
理由は語られなかった。
私も、それ以上踏み込んで尋ねることはしなかった。
昼過ぎ、私たちは村の西の高台へと登った。
冷たく乾いた風が吹き抜ける尾根の突端で、里の若い男が二名、直径二尺ほどの大きな丸い篩を抱えて待機していた。
枠に張られた絹の網目は、私が港の荷捌き場で目にしてきたどの織物よりも緻密で、光に透かすと銀色の靄のように見えた。
足元の木桶の中には、あの細かい灰色の粉末が満たされていた。
二人の男は尾根の草の靡きを見つめ、谷底から吹き上げる風が一定の強さで山肌を這い上がる瞬間をじっと待った。
風の息が整った瞬間、男たちが手首を鋭く返して篩を振った。
白い粉煙が空中に放たれた。
だが、粉は重力に従って地面へ落ちることはなかった。
気流に乗って水平に棚引き、次の瞬間には秋の陽光の中に溶け込むようにして、完全に視界から掻き消えた。
「これを、どの程度の間隔で撒くのですか」
背後から明石さんが問いかけた。
「風の吹く日に撒く」
男が答えた。
「月に、何日ほど風が立つ」
「五日か、六日じゃな」
「撒く場所は、この西の高台だけか」
「三箇所ある。ここと、東の尾根と、北の鞍部じゃ」
明石さんは顎に手をあて、視線を遠くの連峰へと走らせた。
「その三箇所の高台の、最も外側の境界まで歩いた場合、どれほどの時間を要する」
「……健脚の男の足で、半日じゃな」
明石さんは静かに息を吐き、それ以上は何も訊かなかった。
私の隣へ歩み寄ると、常雄たちに届かない低い声で囁いた。
「歩いて半日の円か」
明石さんの視線は、虚空に消えた粉の行方を冷徹に見据えていた。
「敵の観測網がまだこの山域に到達していないだけだ。一度でも網にかかれば、一日でこの歪みの中心を割り出されるぞ」
◆◆◆
高台の風に吹かれながら、私は目を閉じ、意識の耳を四方へと伸ばした。
——応えた。
白地に入ってからの十日間、私の耳は静かになり、ただの音を聞くだけの耳になっていた。
だが、この高台の上では違っていた。
耳を澄ませた分だけ、明確な律動の気配が皮膚の奥へと返ってくる。
都市部のように無数の電波が重なり合って耳を塞ぐような雑踏の感覚ではない。
雑音は一切なく、ただ一本の極めて太く静かな律動が、大地全体を包み込むように脈動していた。
かつて夜の山道を進んでいたとき、私の耳にただ一度だけ遠くから応えた不可思議な気配。
踏み跡を辿り、石積みの祠を過ぎ、火を焚かずに過ごした暗闇の中で、近づけば応え、離れれば薄らいだあの微かな律動。
あれは、人間や機械の放つ電波ではなかった。
大気中に散布された、この禍津日の粉末が形成する広大な無音の帯だったのだ。
私が二日かけて歩んできた道は、この半日の輪の縁へと向かう旅路そのものだった。
◆◆◆
夕暮れ時、私たちは社の裏手へと案内された。
昨日は少年に立ち入りを禁じられた、あの頑丈な板倉の前だった。
分厚い杉の引き戸の掛け金から、常雄が硬い樫の木の楔を引き抜いた。
戸が引かれ、薄暗い土間が姿を現した。
土間の中央の頑丈な木台の上に、漆塗りの古い木函が厳重に据え置かれていた。
膝ほどの高さの直方体で、常雄が蝶番のついた天板を持ち上げると、内部に組み込まれた真鍮の歯車群が鈍い光を放った。
幾重にも噛み合わされた歯車の軸受けには黒ずんだ機械油が差されており、極めて入念な手入れが施されていた。
函の側面から伸びた一本の細い銅線が、土壁を貫いて外へと這い出している。
外へ回って確認すると、被覆線は軒先の柱を伝い、鬱蒼とした杉の梢を抜けて、遥か背後の切り立った岩山の上へと伸びていた。
その先がどこへ至るのかは、深い樹海に阻まれて見通せなかった。
「……あの線の先を、見に行った者はいないのですか」
「おらん」
常雄は函の真鍮の針を見つめながら答えた。
「わしの祖父の代からここに据えられておる。祖父の代には一度も動かんかった。再び動き始めたのは、二年前の春のことじゃ」
函の正面の細いスリットから、白い紙の帯がだらりと垂れ下がっていた。
帯の表面には、細かな文字が規則正しく印字されていた。
私はあえて顔を近づけて読もうとはしなかった。
読める距離ではあったが、この里の掟を侵すわけにはいかなかった。
だが、視界の端に映った文字の並びだけで、異様な事実は明白だった。
印字された文字の大きさが、最初から最後まで寸分違わず均一だったのだ。
生身の人間が筆や鉛筆で書いた文字なら、書き手の息遣いや感情によって必ず線の太さや大きさに揺らぎが生じる。
だが、その紙帯の文字には、人間特有の揺らぎが一切存在しなかった。
「……粉の調合の手順も、この函から得たのですか」
「そうじゃ」
常雄は紙の帯を慎重に巻き取り、木函の蓋を閉じた。
「これは祖霊の声じゃ。この社には、大昔から天より文が届いておった。届く文の形が変わっただけの話よ」
里の民がこの紙を読むことはない。
文字を解するのは、出雲常雄ただ一人なのだ。
この紙の正体を疑うことができる人間も、この里には彼一人しか存在しない。
細い線は、薄暮の山の上へと伸びていた。
その線の遥かな終端で、いまこの瞬間も、正体不明の誰かがこの文字を打ち続けているのだ。




