第103話 太い川
北の背の高台から、険しい尾根をひとつ越えた。
山道を登る途中、物見の少年が道端に落ちていた栗の毬を草鞋の底で器用に踏み割った。
毬が裂け、中から艶やかな茶色い栗の実が転がり出る。
三つ割って、ひとつには小さな虫食いの穴が開いていた。
少年はその虫食いを見定めると谷底の藪へ放り捨て、残りの肥えた二つを素早く懐へ収めた。
尾根の頂に立つと、山肌を吹き抜ける秋風の冷たさが一段と鋭さを増した。
眼下には深く削り取られた広大な涸れ沢が横たわっていた。
長年の鉄砲水に洗われた白く乾いた巨岩が累々と積み重なっており、秋の日差しを浴びて青白く反射している。
水の一滴も見えなかった。
私のすぐ背後には出雲常雄が立ち、その隣には明石さんと由良が並んでいた。
◆◆◆
「……試すぞ」
明石さんが空を見上げながら言った。
右腕の包帯を風になびかせ、片眼鏡の奥の鋭利な瞳を細めている。
「あの山並みの向こう、観測網の境界の外側に、一機飛んでいる。あれを使う」
私も目を細めて天を仰いだ。
秋の青空の遥かな高みに、銀色の光粒がひとつ浮かんでいた。
さらに遠くの稜線上空にも、二つの機影が確認できた。
一定の半径を保ちながら、正確な円を描いて旋回を繰り返している。
先月、山肌の隠れ家から目にした軍の自律観測ドローンと同型だった。
「……危険ではございませんか」
由良が心配そうに小声で尋ねた。
麻の白衣が風に激しく煽られ、細い腰の線が露わになっている。
「危険だな」
明石さんは平然と言い放った。
「だが、使えるかどうかも定かでない力を、切羽詰まった本番で初めて試すことほど危険な博打はない」
明石さんは私の方を向き、左手の人差し指で空を短く切ってみせた。
「落とすなよ」
「……落ちてしまいますか」
「今の貴様の出力なら、確実に叩き落とせる。だが、機体を墜落させれば軍の記録に『当該座標に異常事態あり』と明記される。落ちた地点に赤い印が刻まれ、明朝には捜索機が編隊で押し寄せることになる」
明石さんは乾いた唇を舐めた。
「進路がわずかに逸れただけなら、乱気流の突風として処理できる。軍の定時報告書には『局所的な風』と書かれるのが一番都合がいい」
私は無言で頷いた。
港の帳場で行っていた検数の仕事と同じ論理だった。
荷の数が合わないとき、帳簿の管理者は必ず最も波風の立たない理由を探して余白を埋める。
人間は、書くことが許された理由の中で、常に最も軽いものを選ぶのだ。
◆◆◆
私は深く息を吸い、意識の耳を四方へと伸ばした。
伸ばそうとして——途中で意識の拡張を止めた。
止めても、すべての気配が皮膚の表面へと流れ込んできた。
都市部では、街の律動は無秩序に交差し、私はその雑踏をすり抜ける名もなき通行人に過ぎなかった。
端末の認証波も、配電網の脈動も、決して私の方を向いて発せられてはいなかった。
だが、この白地の輪の中では、世界の構造が完全に逆転していた。
大気中に散布された微粒子が、すべて、私を中心として整列していた。
前からも、後ろからも、そして立っている岩盤の底からも。
意識を張り巡らせるまでもなく、手を伸ばせば触れられる至近距離に、大気ぜんたいの気配が存在していた。
雑音はひとつもない。
一本の巨大で太い大河の真ん中に、私一人だけが立っていた。
◆◆◆
上空の機体を、意識の指先で捉えた。
距離は遥か数千メートル上空にあった。
だが、その物理的な隔たりは、何の意味も持たなかった。
私の皮膚から機体の主翼の下まで、禍津日の粉末が濃密な不可視の架橋を形成していた。
「止まれ」と念じる必要すらなかった。
ドローンが姿勢を保つために交わしている目に見えない合図の、わずかに外れかけている揺れを、外れたままの形でおさえるだけでよかった。
機体の旋回が止まった。
滑らかな円を描いていた飛行航跡が寸断され、直線的な滑空へと移行した。
明石さんが、片眼鏡の奥の鋭い目を空へ向けた。
「……円が切れたな」
次に、私は機体の高度を徐々に下げさせた。
急激な失速ではない。
大気の浮力をわずかに奪い、降下を緩やかに維持させた。
機体は、指三本分ほど空の中で高度を落とした。
三度目に、右の翼を傾ける微かな力の筋を、右へ押しやった。
機体は空中で一瞬の静止を見せた後、機首を北から東へ、そして南へと緩やかに回頭させた。
観測領域の外側へと、自ら進路を変えて遠ざかっていく。
二度と戻ってはこなかった。
少年の喉から息を呑む音が漏れ、慌てて自らの手で口元を塞いだ。
私は意識の糸を静かに解いた。
落とすことは完全に可能だった。
三度目の操作の瞬間に確信していた。
すべての制御合意を完全に断ち切れば、あの銀色の機体は石ころのように谷底へ墜落していたはずだ。
だが、私は落とさなかった。
◆◆◆
手の甲の内側の皮膚に、微かな痺れが残っていた。
だが、鼻血は一滴も垂れてこなかった。
後頭部の古い手術痕が締め付けられるような激痛も、一切走らなかった。
半月前の私であれば、この半分の出力を解放しただけでも、袖口を真っ赤に染めて膝をついていたはずだった。
だがその代わりに、まったく異質な現象が私の肉体を襲っていた。
尾根の上に立っている自分自身の身体の輪郭が、急速に薄れていた。
指先の先端が、空間のどの位置で終わっているのかが知覚できない。
肉体は確かにそこに存在しているのに、皮膚の内側にある自分と、大気中に漂う粉末との境目が、どこを探しても見当たらないのだ。
あの産霊派の地下集会で目にした光景が蘇った。
あのときは、私に引きずられた三十七人の意識が、呑み込まれかけて悲鳴を上げた。
だが今度は、完全に逆だった。
私を取り囲む大気側の存在量があまりにも多すぎた。
「……兄様」
突然、由良の冷たい掌が私の右手首を強く掴んだ。
骨がきしむほどの強い力で引き寄せられた。
「満ちすぎて、ございます」
由良の張り詰めた声が、私の鼓膜を震わせた。
深く息を吸い込んだ。
肺腑に冷たい大気が満ち、私の指先は、再び自分自身の肉体の先端として確固たる境界を取り戻した。
常雄は少し離れた岩の上から、その一部始終を無言で見つめていた。
「……祖霊は」
老人は低く呟き、そこで言葉を濁した。
「お前という器のために、この粉を山へ撒かせておったのかもしれんな」
私は何も答えなかった。
答えるための言葉を、何ひとつ持ち合わせていなかった。
◆◆◆
山を下りる際、私たちは涸れ沢の脇の小道を辿った。
沢の中央に差しかかったとき、私の足が止まった。
見渡す限り、乾いた白い岩石が積み重なっているだけで、水流はどこにも存在しない。
この山域には、ひと月以上も雨が降っていないのだ。
それにもかかわらず、音が聞こえていた。
一筋のせせらぎではない。
足元の巨岩の底から、あちこちの岩の隙間から、無数の激しい奔流の気配が立ち上っていた。
それは空気の振動による音波ではなかった。
私の耳が拾っているものは、物理的な水ではない。
それでも、私の耳は、それを大地の底を流れる太い激流の音として明瞭に受け取っていた。
乾ききった涸れ沢の底で、生身の人間には決して聞こえない巨大な川が、いま、一斉にその水量を増していた。




