第104話 里の暮らし
その翌日から、三日のあいだ、何事も起きない平穏な時間が流れた。
私は朝から畑へ出た。
冬越しの畝を起こす作業を手伝ったが、物見の少年から鍬の使い方を一から手厳しく指導された。
腕の力で振り下ろすのではなく、腰の重みで刃を土へ入れろと命じられた。
港の荷捌きで鍛えた筋肉の使い方は、硬い土を耕す作業にはまったく適合しなかった。
明石さんは里中の水路を見て回っていた。
段々畑の落ち口の落差を丹念に歩測し、水流を遮る石をひとつふたつ動かして微調整を繰り返していた。
三日目の昼には、最下段の畑へ流れ込む水量が目に見えて増していた。
由良は、里の女たちの輪の中に溶け込み、日々の炊事や布織りを手伝い続けていた。
鍛冶場は、集落の最も低い窪地にあった。
石組みの炉の前に大きな革鞴が据えられ、壁には重さの異なる三本の金鎚が掛けられていた。
鞴を踏む役目は里の子供たちに割り当てられており、二人の童が五十を数えるごとに交代しながら足踏みを続けていた。
その三日間に、鍛冶場で修繕された道具を私はすべて検分した。
鍬の先が二つ。
鎌が一挺。
底に穴の開いた鋳鉄鍋がひとつ。
それだけだった。
わずか一か月半前、私は西の遷移域の薄暗い廃変電所で、別の鍛冶の火を見つめていた。
あの場所では、男たちが通信線の被覆を剥ぎ、芯の銅線を抜き取り、鉄パイプに火薬を詰めていた。
同じ赤々とした炭火を焚き、同じ鋼の鎚を振るいながら、その向きだけが完全に逆だった。
物を破壊するために火を焚く手と、生活を繕うために火を焚く手は、使っている道具の構造が寸分違わず同じなのだ。
◆◆◆
三日目の夕暮れ時、子供が三人、私の立っている畑の縁へと小走りでやってきた。
先頭にいた背の低い童が、私の腰の帳面を指差した。
「……字、書けるんか」
「書けます」
「常雄様のほかに、字を書ける大人はおらんのじゃ」
三人は顔を見合わせ、それから一番小さな子供が一歩前へ進み出た。
「おれの名前、書いてくれ」
懐の紙を取り出すわけにはいかなかった。
手元に残された紙は最後の一枚だけであり、その一枚には今夜どうしても使う目的があった。
私は畑の縁の湿った黒土を掌で平らにならし、足元に落ちていた細い枯れ枝を拾い上げた。
名前を尋ね、土の表面へ一文字ずつゆっくりと刻んでいった。
三人分の名前を、丁寧に書き終えた。
子供たちは土の前にしゃがみ込み、彫られた文字を食い入るように見つめた。
しばらくの間、静寂が流れた。
やがて一番小さな子が、汚れた人差し指の腹で、自らの名前の溝をそっとなぞり始めた。
文字の意味を読もうとしているのではない。
自分という存在を証明する形が、確かにそこにあるという感触を確かめていたのだ。
「……これ、消えてしまうんか」
「雨が降れば、流れて消えます」
「そしたら、また書いてくれるか」
「何度でも書きます」
子供たちは歓声を上げ、茜色の山道を駆けて戻っていった。
少し離れたあぜ道の上に、由良が佇んでいた。
いつからそこに立っていたのかは分からなかった。
私が視線を向けると、由良は麻の上衣の裾を正し、膝の前に手をついて深く一礼した。
そして、女たちの待つ家並みの方へと静かに立ち去っていった。
◆◆◆
四日目の早朝、里の外れの小さな家で、ひとりの老女が息を引き取った。
前日の夕刻から呼吸が浅くなっていたという。
享年は八十を超えていた。
由良が呼ばれた。
呼びに来たのは、あのたすきの女だった。
「あんた、看取りの家にいたそうじゃな」
「……はい」
「なら、来てやってくれ」
私は家の中へは入らず、庭の片隅に立ち尽くしていた。
立ち入りを拒まれたわけではなかったが、見知らぬ者が足を踏み入れてよい空気ではなかった。
昼前、里の男たちが家の裏手の斜面に穴を掘った。
日当たりのよい赤土の地面だった。
掘られた穴の深さは、大人の膝の下ほどしかなかった。
遺体を火葬に付すことはしなかった。
「土に返すのじゃ」
常雄が鍬の柄に手を置いて言った。
「わしらは大昔から、そうして命を土へ戻してきた」
◆◆◆
由良は、掘られた穴の縁に静かに膝をついた。
そして、ゆっくりと天を仰いだ。
昇天派の看取りの詞は、顔を空へ向けて唱える。
私は丘の上の白い家でも、路傍の石塚の前でも、彼女が同じように天を見上げて祈る姿を目にしてきた。
一方で、里の民たちは地面に平伏した。
額を土の表面に擦り付けるようにして、大地へ向けて自らの祈りを唱え始めた。
二つの異なる詞が、静かな山肌に響き渡った。
途中まで、言葉の音の響きは酷似していた。
だが、その向かう方角だけが完全に逆だった。
由良の詞は肉体を離れて天の彼方へと昇り、国津の詞は地の底へと深く浸透していく。
由良の声が、ふいに途切れた。
驚いたように目を開け、平伏する里の民たちの姿を見つめた。
たすきの女が、祈りを唱え続けながら、わずかに体をずらして由良の座る場所を空けた。
常雄が言った。
「天と地と、両方から送り届けてやって、困る神はおらんよ」
「……よろしいのでございますか」
「わしが許す」
由良は深く一礼し、再び最初から詞を唱え直した。
里の者たちの唱和が終わり、最後の音が土に溶けるのを待ってから、自分の詞の結びを静かに響かせた。
二つの異なる祈りが、ひとつも欠けることなく最後まで捧げられた。
里の男たちが赤土を被せ、最後の三すくいだけは、常雄自身が自らの手で丁寧に盛り土を整えた。
◆◆◆
その夜、常雄の家の板の間で、私は懐から一枚の紙を取り出した。
この里には紙を作る設備はない。
手元に残された、正真正銘の最後の一枚だった。
黄詩文へ宛てる、五通目の手紙になる。
一通目は白地の縁の集落で書き、二通目は看取りの家から送り出した。
三通目は石上派の連絡網を通じて託し、四通目は廃集落の朽ちた家で書いたまま、未だ私の胴巻きの奥に眠っている。
この隔絶された里から、東京へ文を届ける手段は存在しない。
年に三度、南の境界まで塩を取りに行く隊商があるというが、そこから先へ手紙を運ぶ経路を、私は何ひとつ持っていなかった。
それでも、私は鉛筆を走らせた。
手紙が相手に届くかどうかという問題と、相手を想って書くかどうかという意志は、私の中で完全に別の勘定だった。
二行の近況を書き、末尾に自分の名前を記した。
書いている間、私の右手の親指は、中指の第一関節の横にある硬いペンだこを探していた。
この二か月間、文字を書く機会が激減したため、皮膚の角質はわずかに柔らかくなっていた。
紙を丁寧に四つ折りに畳んだ。
懐へ仕舞おうとした瞬間、私の目の前に、白い両の手が差し伸べられた。
由良が、いつの間にか私の正面に膝を揃えて座っていた。
掌を上へ向け、私の手元へと静かに両手を差し出している。
私は、手紙を渡すつもりなど毛頭なかった。
だが、気づいたときには、私の手はその折り畳まれた紙を彼女の掌の上へと載せていた。
由良は紙を両手で恭しく受け取ると、胸の前で折り目を上にして一度だけ丁寧に持ち直した。
そして、麻の白衣の胸元、固く締められた赤い帯の合わせ目の中へと、滑り込ませるようにして大切に仕舞い込んだ。
「……私は、文字が読めません」
由良は静かに言った。
一呼吸、間を置いた。
「読めませんから、お預かりできます」
その声には、一切の迷いも、哀しみもなかった。
ただ、何にも侵されない絶対的な信頼だけが、冷えた夜の空気を温めていた。




