第105話 南の煙
東の空が白み始める前の深い暗闇の中、私たちは里を出発した。
塩を回収に向かう隊商は、総勢五名だった。
物見の少年を先頭に、頑強な里の男たちが四名。
背負子には、里から南へ供出する品々がぎっしりと積み込まれていた。
私は六人目の荷担ぎ役として列の末尾に加えられた。
荷を背負える若い男の手が、一人でも多く必要だったからだ。
険しい峠を二つ越えた。
山並みを南へ下るにつれて、私の意識の耳が徐々に死滅していくのが分かった。
禍津日の粉が漂う円環の境界を、完全に外側へ踏み越えたのだ。
輪の内側にいたときは、意識を集中させずとも大気ぜんたいの気配が皮膚に触れていた。
だが、この尾根の向こうでは、どれほど感覚を研ぎ澄ませても、虚空から返ってくる気配は皆無だった。
十日ぶりに、私は特別な耳を持たない、ただの生身の男へと戻っていた。
◆◆◆
南の稜線へ登り詰めたのは、太陽が南中高度に達した頃だった。
開けた尾根の突端から、遥か南方の白地の境界線が一望できた。
青黒く霞む山並みの彼方に、煙が立ち上っていた。
一本ではなかった。
三筋の煙が、遠い地平から天へ向かって伸びていた。
最も手前の一筋は、風のない大気の中で垂直に高く立ち昇っていた。
二筋目は、わずかに西へ傾いで流れている。
三筋目はあまりにも遠方に位置しており、煙の根元は地平線の彼方に沈んで見通せなかった。
私は、遠景の中に何らかの数を数えようと目を凝らした。
だが、数えられる対象は何ひとつ存在しなかった。
ふた月ほど前、山の中腹の藪の中から軍の掃討作戦を目撃したときの記憶が蘇った。
あのときは、防護服の兵士が六名いた。装甲車輌が二台。泥の上に膝をつかされた男が三名。
距離は二百メートル足らずであり、すべての要素を正確に数え上げることができた。
だが、この尾根の上からは、何も数えられない。
人間が動いているのか、建物が燃えているのかすら判別できない。
数えることが許されていたのは、立ち上る煙の数だけだった。
——三筋。
「……二つは、村じゃな」
少年が、指を差すこともなく淡々と言った。
「手前と、その右のやつじゃ。二つとも、去年の秋までは人が暮らしておった」
「三筋目は」
「知らん。あんな遠い場所に、人の集落などあるはずがない」
里の男たちは、足を止めて見物しようとはしなかった。
一人が足を緩め、無言で南の煙を一瞥しただけで、すぐに視線を足元の山道へと戻した。
集落が焼き払われる光景を、彼らは昔から見慣れているのだ。
その見慣れるまでの年月の中で、一体いくつの村が地図から消し去られてきたのかを、私は尋ねることができなかった。
◆◆◆
塩の受け渡し場所は、尾根直下の巨岩の窪みにあった。
突き出した岩盤が天然の庇となっており、雨風が一切吹き込まない構造になっている。
男たちが背負子を地面へと下ろした。
持参した品々を、窪みの平らな岩肌の上に整然と並べていく。
素焼きの器が十二個。
固く縛られた木炭が三俵。
天日干しにした山菜の袋が二つ。
素焼きの器は強い衝撃で割れる危険があるため、決して荷の一番上には積まない。
代わりに、岩の奥に置かれていた物資を回収した。
粗塩の俵が二つ。
不揃いな鉄の角棒が四本。
物資を置く者と受け取る者が顔を合わせることは決してない。
一方の者が品を置いて去り、後から訪れた者がそれを受け取って自らの物資を置いていく。
「……毎回、この数量なのですか」
私が尋ねると、少年が鉄の棒を持ち上げて重さを確かめた。
「今年は鉄が一本少ないな。去年は五本置いてあった」
塩の俵を脇へ退けた瞬間、私は窪みの最奥の影に、不自然な白い物体が挟み込まれているのを見出した。
一枚の紙が、岩の裂け目に深く押し込まれていた。
◆◆◆
紙は固く巻かれていた。
細い紙紐で二重に縛られ、結び目の上には墨継ぎの直線が一本、厳重に引かれていた。
紐の下の紙肌にだけ墨が乗っていない。
封が開かれた瞬間に線の連続性が断ち切られる、石上派特有の暗号封印だった。
紙巻きの太さを、右手の指をあてがって測った。
指五本分。
大人の掌の横幅と寸分違わぬ太さだった。
廃変電所にいた碍子作りの男の巻き方は、指三本半の細さだった。
若い連絡員の巻き方は、指四本分だった。
この五本指の太巻きは、そのどちらでもない。
石上派の頂点に立つ男——弓削徹自身の手による巻き方だった。
封を切った。
紙紐が千切れ、墨の直線が二度と戻らない形に分断された。
書かれていた文字は、露草の花弁から絞り出した青い染料で書かれていた。
水に濡れれば一瞬で滲んで消失する、揮発性の文字だ。
文面は、わずか三行だった。
〈縄張りを畳む。散る。北の帯まで押されてる〉
〈北の橋の下に、置いた。使えるなら、使え〉
二行目を読んだ瞬間、私は隣の少年に顔を向けた。
「……北の橋という場所に心当たりはありますか」
「知っとるぞ」
少年は即座に答えた。
「疎開の道に架かっとる、石造りの古い橋じゃ。涸れ川の上一箇所にしかない」
「疎開の道」
「上の谷から北の連峰へ抜ける脱出道じゃ。里を捨てて逃げるときに使う道だと、長老たちから教わっておる」
里を完全に放棄するための非常脱出路が、この隠れ里には最初から用意されていたのだ。
そういう宿命を背負った土地の上で、私たちはこの十日間、生活を送っていた。
私は紙を膝の上で押し広げた。
南の置き場へは、里から年に三度、物資の交換に訪れる。
この山奥から外の世界へ荷を運ぶ細い道が、確かに一本だけ存在している。
由良の帯の合わせ目の中に、私が昨夜書いた詩文への五通目の手紙が眠っている。
次の塩取りの折には、この場所へあの手紙を運んでこようと心に決めた。
三行目の文章を、私はそこで一度だけ黙読し、声に出すことなく胸の奥に押し込めた。
里へ戻り、常雄の前で直接開示するべきだと判断したからだ。
帰り道の四刻の間、私はその最後の一行の文字列を、頭の中で何度も反芻しながら歩み続けた。
◆◆◆
その夜、常雄の家の板の間に、里の重鎮たちが招集された。
出雲常雄、たすきの女、それに長老格の老人が三名。
物見の少年は土間の隅に控え、明石さんと由良も同席を許されていた。
たすきの女が、板の間の図面を指しながら先に状況を報告した。
「畑の作物の引き上げは、あと十日で完了します。禍津日の粉は、現在の窯の残熱であと二回分精製できます。素焼きの器の数は十分に足りております」
「……疎開の道の状態はどうか」
常雄が問うた。
「去年の大雪で、山腹の二箇所が崩落しております。補修には十名の人足と三日の日数が要ります」
「明日から人を出せ」
常雄は一言で決断した。
誰も異論を挟む者はいなかった。
常雄は囲炉裏の灰を平らに均すと、人差し指の先で二つの点を刻み込んだ。
「南の煙の位置じゃ」
手前の点と、奥の点。
「去年の秋、軍の境界線は手前の点にあった。それが今年、奥の点まで上がってきた」
明石さんが身を乗り出し、その二つの点の間隔を鋭く見つめた。
「一年で、この幅か。同じ速度で北上を続けた場合、次の冬にはこの谷の入口まで到達するぞ」
「来なんだら、どうする」
常雄が静かに訊き返した。
「来なんだら、それでよいだけの話じゃ。来ると思って支度を整え、来なんだ里は、麦が余るだけじゃからの」
常雄は囲炉裏の火から目を上げ、私の顔をじっと見据えた。
「……紙には、何と書いてあった」
私は懐から青い文字の紙を取り出し、囲炉裏の明かりにかざした。
「三行あります」
「読め」
私は深く息を吸い、全員へ向けてその最後の一行を静かに読み上げた。
〈手を叩いてから撃つのが、また北へ来てる〉




