第106話 圏の縁
〈手を叩いてから撃つのが、また北へ来てる〉
囲炉裏の縁板の上で、あの露草色の三行目を読み上げてから、二日の月日が流れた。
その二日間のあいだ、里のすべての生活は疎開の道の補修へと注ぎ込まれた。
秋の収穫作業を一日繰り上げて人手を工面し、動ける者のほぼ全員が山腹の巻き道へと動員された。
女たちが畑の仕舞いを急ぎ、男たちは重い樫の杭と割栗石を背負って急峻な山肌を往復した。
私も朝から晩まで石運びの列に加わった。
崩落した二箇所のうち、特に深刻だったのは涸れ川の手前、山肌が肩口からごっそりと谷底へ滑落していた箇所だった。
男たちが大槌を振り下ろし、岩盤の隙間へ太い樫の杭を幾本も打ち込んでいく。
木と鉄が激突する重い打撃音が、尾根を二つ越えた遥か向こうの谷底までこだましていた。
三日目の早朝、山肌を修繕する作業の最中に、物見の少年が息を切らして私の元へ駆け寄ってきた。
「……北の背から、見えとるぞ」
少年はそれだけ告げると、背負っていた道具を放り出し、獣道のような急斜面を身軽に駆け上がっていった。
理由は語らなかった。
だが、その引き締まった少年の横顔が、事態の切迫を雄弁に物語っていた。
◆◆◆
北の背の高台は、里の者たちが風の日に禍津日の粉末を散布する三つの拠点のうち、最も標高の高い尾根筋にあった。
風雨に晒された赤土の地面には、絹の篩を振るった男たちの足跡が幾重にも刻まれ、大気へ散布された粉の微粒子が、白く細い筋となって地面の窪みにうっすらと残っていた。
高台の頂には、すでに明石さんと由良が先着していた。
明石さんは片眼鏡の縁を指先で押さえ、冷徹な視線を南西の空へと注いでいた。
由良は麻の白衣の胸元を両手で固く握りしめ、強風に乱れる黒髪を押さえながら、息を殺して空を見上げていた。
空に、機影があった。
数えた。
——三機。
黒光りする紡錘形の胴体を持つ軍用観測ドローンが、等しい間隔を保ちながら、東から西へと一定の高度を維持して滑空していた。
「……先に来るやつだ」
明石さんが低く呟いた。
左手を額にかざして空を見上げたまま、指先で空中に三本の短い線を引いた。
「まず無人機で山の形を調べ、安全を確認した上で地上部隊を送り込む。奴らのいつものやり方だ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、遥か後方の雲の切れ間から、遅れてさらに二機のドローンが姿を現した。
合計五機。
完全な三角の隊形を組み、規則正しい合図の明滅を交わしながら、白地の境目へと真っ直ぐに迫ってくる。
五機の機首の丸い眼が、眼下の山肌を冷たく撫で回していた。
その光の筋が、この隠れ里の境界線をかすめるまで、あとわずかな猶予もなかった。
◆◆◆
私は、意識の耳を四方へ解放した。
禍津日の粉が漂う円環の内側では、大気中のすべての微粒子が、私の皮膚と直に繋がっていた。
五機の機体が発している合図の波が、極めて太い一本の帯となって私の掌に触れた。
各機が瞬きひとつの間に位置を知らせ合い、揃った航跡を保っている。
先頭の隊長機が、禍津日の粉の輪の縁へと突入した。
その瞬間、大気中の微粒子が機体同士の見えない糸を僅かに狂わせ、機体の間隔がわずかに広がった。
機械がそのズレを戻そうとして、翼を傾けようとする。
——そこが、介入すべき唯一の隙間だった。
私は、先頭機の羽を動かす力の筋へと、意識を割り込ませた。
手の甲の内側の皮膚が痺れ、前腕の骨を伝って、心臓の鼓動と見えない波が重なり合う。
隊長機が次に曲がろうとしていた方向。
その傾きの力を、私は大気の粉を使って逆さに押し戻した。
隊長機の左翼が激しい軋み音を立てて跳ね上がった。
滑らかな旋回が断ち切られ、機首が無理やり真っ直ぐに戻される。
後続の四機は、先頭機の動きに揃えるように作られていた。
先頭が急に直進したため、二番機と三番機がぶつかりそうになって慌てて横へ逃げた。
五機の小さな噴射口から煙が吹き、金属の翼がきしみ声を上げて歪む。
整っていた三角の隊列が完全に崩れ、互いに大きく離れて空中で散り散りになった。
開いた瞬間、私は意識の接続を静かに解いた。
落とすことは、完全に可能だった。
姿勢を保つ仕掛けをすべて固めてしまえば、五機とも錐揉みになって谷底の岩へ激突していたはずだ。
だが、私は決して落とさなかった。
一機でも墜落すれば、軍の記録に座標が刻まれ、武装した捜索隊が山を焼き払いに来る。
向きが逸れただけなら、突風として処理できるのだ。
五機のドローンは、隊列をバラバラに解いたまま南へ逃げ、禍津日の輪の外側へと遠ざかっていった。
◆◆◆
尾根の真下を通る林道に、地上の影があった。
防護塗装を施された六輪の装甲車輌が二台。
車輌の周囲には、濃緑色の戦闘服に身を包んだ兵士が十数名展開していた。
この距離なら正確に数え上げることができる。
——十三名。
そのうちの二名が、空を見上げて双眼鏡を覗き込んでいた。
一人が腕に装着した携帯情報端末に何事かを素早く入力し、隣の指揮官らしき男がそれを覗き込んで短く指示を出した。
やがて二名が踵を返し、展開していた十三名全員が装甲車輌の車内へと素早く収容された。
二台の車輌はエンジン音を低く響かせながら回頭し、登ってきた山道を南へ向かって引き返していった。
血の一滴すら、大地に流れることはなかった。
私は、あの兵士が端末に何と記録したかを頭の中で推し量っていた。
〈対象山岳空域において無人偵察機の隊列に電磁障害を伴う乱れが発生、原因不明につき一時後退〉
そう書ける。
人間は、書くことが許された理由の中で、常に最も波風の立たない無難な記述を選ぶ。
だが——その「原因不明」の空欄は、観測が繰り返されればいずれ埋まる。
その空欄が埋まるまでの猶予こそが、この里に残された本当の持ち時間だった。
◆◆◆
背後を振り返ると、物見の少年が地面を見つめたまま立ち尽くしていた。
由良が、私の右肘のあたりへ両手を差し伸べていた。
肌に触れてはいなかった。
麻の袖からわずか一寸ほどの至近距離に、彼女の柔らかな掌が開かれたまま静止していた。
「……昊様、お戻りくださいまし」
「大丈夫です」
私は答えたが、声が喉から出るまでに半拍の遅れが生じていた。
鼻血は出ていなかった。
後頭部の古い傷跡が痛むこともなかった。
だがその代わりに、自分自身の肉体の輪郭が極度に薄れていた。
自分の指先がどこで終わり、禍津日の粉が舞う大気がどこから始まっているのか、その境界線が知覚できない。
私は右手を強く握り締め、そして開いた。
親指の腹で、人差し指の第一関節にある硬いペンだこの感触を強く確かめた。
硬い皮膚の抵抗を感じる。
その硬さがある場所までが、確かに私自身の肉体だった。
「満ちて、ございます」
由良が囁くように言った。
「まだ、お身体の中に、大気の力が満ちすぎております」
高台の下から、大勢の足音が登ってきた。
道普請に出ていた里の男たちだった。
大槌を持ったままの者、泥にまみれた手拭いを首に巻いた女たち、そして最後尾に出雲常雄がいた。
誰も、何が起きたのかを問い質そうとはしなかった。
十数名の村人たちが、敵の消え去った南の青空をただ無言で見上げていた。
やがて、一人の農夫が土の上に膝をついた。
続いて、二人、三人と、地面へ平伏していった。
「……神意じゃ」
誰かが震える声で呟いた。
「国津の神が、天の機械を追い払ってくださったんじゃ」
◆◆◆
村人たちが次々と頭を垂れる中で、出雲常雄だけが仁王立ちのまま空を睨み据えていた。
「見たか」
老人は平伏する村人たちへ向けて、低く響く声で言った。
「見た者は、ただ見たとだけ言え。余計な尾ひれをつけて増やすな」
膝をついていた男たちが、気圧されたように立ち上がった。
道具を持ち直し、無言で山道の作業現場へと引き返していく。
常雄は一人その場に残り、静かに南の空を見つめ続けた。
「……あれは、自ら帰ったんじゃないの」
「はい」
「お前が、追い返したんじゃな」
「……軍の報告書に、そう書く者はいないはずです」
常雄は鋭い視線を私の顔へと向けた。
重苦しい沈黙が、秋の尾根を包み込んだ。
「記録を書く者がおる、ということか」
「必ず、おります。軍はすべてを記録する組織です」
老人は何かを言いかけて口を噤み、胸の奥から深い溜息をひとつ吐き出した。
そして、下の集落へ向かってゆっくりと歩き出した。
「粉は、あと二回分じゃ」
歩きながら、老人は自らに言い聞かせるように呟いた。
「二回分が、この里を守る輪の、すべての残り時間じゃ」




