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第107話 祓えない

翌る日の朝、霧が出た。


白地の霧は、下から湧く。


谷底に溜まって、日が高くなるにつれて浅くなり、昼前には稜線から抜けていく。


その霧が抜けきらないうちに、物見が走ってきた。


「一人、入っとる」


少年ではない、もう一人の物見だった。息が上がっていた。


「馬も車もない。歩きだ。荷を、背負っとる」


常雄が社から出てきた。前庭に、里の者が集まりはじめた。


数えなかった。数えるより先に、私は耳を伸ばしていた。



   ◆◆◆



伸ばすまでもなかった。


輪の中の空気は、私の側に開いたままだ。


一つ、来る。


律動は太い。ただし、機のそれとは形が違った。機は同じ長さで刻む。これは刻みが揃っていない。


一つの太い線の中に、細かい震えがいくつも入っている。


背負われて運ばれているものの震えだった。


歩いているのは、人だ。


「兄様」


由良が、私の袖を掴んだ。


掴んでから、指を離して、掌を上に向け直した。


「あの……手を、叩く方でございましょうか」


「たぶん」


私は、その男の音を三度聞いている。


一度目は遠くの山道で。二度目は峠の検問で、板一枚を隔てて。三度目は霧の中で、二歩の距離だった。


三度とも、撃つ前に手を叩いた。



   ◆◆◆



霧の中から出てきた。


作業衣ではない。掛け襟のついた上衣で、袖を紐で括っている。


背中に、筒の付いた箱を負っていた。腰から先へ、腕木のような支えが一本出ている。


顔は、覚えていた。


向こうも、覚えていた。歩く速さが変わらなかったことで分かる。


探しに来た者の歩き方ではない。着いた者の歩き方だった。


前庭の手前、三十歩ばかりのところで止まった。


そして、手を叩いた。


二つ。


音は、鳴った。霧の中でも、はっきり鳴った。


鳴った直後に、社の前の祭壇で、素焼きの器が鳴った。


九つ。三つずつ三列に並んだ器が、ほとんど同時に、器同士の触れ合う音を立てた。


土の器の、乾いた音だ。


その音のほうが、大きかった。


男の柏手は、二つで終わっている。器の音は、九つが順に静まるまで続いた。


里の者が、後ろへ下がった。誰も、私の前には立たなかった。


器が鳴ったのは、私の側だった。



   ◆◆◆



男は、祝詞を上げはじめた。


低い声だった。節がついている。神前の作法だ。


途中で、器がまた鳴った。


今度は一列だけ。三つ。


息を継ぐために空く間に、土の音が入った。


男は一拍置いてから、続きを唱えた。次に息を継いだところでも、鳴った。


十一度、鳴った。


十一度とも、男の言葉が息を継ぐ場所だった。


男は、祝詞を最後まで唱えた。唱え終わって、しばらく黙っていた。


祓いというのは、応えのある作法だ。打つ。唱える。何かが退く。退いたかどうかを、当人が見て決める。


何も、退かなかった。


退くどころか、この土地の器は、彼の音を待たずに、彼の敵の側で鳴った。


「……そうか」


そう言うのが、聞こえた。



   ◆◆◆



男が、腰の支えへ手をかけた。


そこから先は、機械だ。


筒を向けるのは腕木で、腕木を動かすのは肘の関節に似た小さな駆動部だった。


引鉄は肉で引く。だが、どこへ向けるかは、その関節が決める。


関節には、合意が要る。


粉のある空気の中では、その合意が鈍る。鈍った側は、直そうとする。


直そうとしたところを、押さえた。


腕木が、右へ二寸ずれた。


音がした。空気が裂ける音ではなく、砂を強く撒いたような音だった。


私の左、四歩ほど離れた地面の土が、白くなった。焦げたのではない。乾いたのだ。


もう一度、叩いた。


今度は柏手ではない。腕木の付け根を、掌で叩いた。動かない機械を叩く手つきだった。


もう一度、向けた。


もう一度、ずらした。


三度目に向けたときには、腕木はもう動かなくなっていた。彼の腰の高さで、止まったままだった。


彼は、引鉄を引いた。


地面が白くなった。今度は彼の足先の、一歩前だった。


私は、動かなかった。


彼のほうが、二歩下がった。



   ◆◆◆



落とせた。


腕木ではなく、彼の背中の箱の、送りのところを潰せば、箱は開かなくなる。


開かない箱を背負ったまま霧の中を歩けば、この男は北の冬を越せない。


やらなかった。


一人が帰らなければ、次は探しに来る。探しに来る者は、探した記録を残す。


帰った者は、帰ったとしか書けない。


「この人を、峠まで送ってください」


私は、少年に言った。


少年が常雄を見た。常雄がうなずいた。


「二人つけろ。話すな」


男は、抵抗しなかった。


腰の支えを外して、地面に置いた。置いたものを取り上げようとした里の者を、常雄が止めた。


「持たせろ」


「じゃが」


「持って帰らんと、あれは帰れん。帰らん者は、次を呼ぶ」


私が考えたのと同じことを、老人は先に言った。



   ◆◆◆



霧は、まだ浅くなりきっていなかった。


男は、支えを担ぎ直した。担ぎ直す手つきが、ひどく丁寧だった。


紐の掛かる位置を確かめて、二度、背中で揺すって、収まりを見る。


道具を大切にする男の手つきだ。


行きかけて、止まった。


振り返らなかった。背中のまま、私の側へ言った。


「あんたか」


私は、答えなかった。


「いい字の」


答えなかった。


男は、しばらくそのままでいた。


霧の中で、彼の輪郭が薄くなっていく。


粉の中に立っていると、自分の輪郭が薄くなるのが分かる。彼のそれは、ただの霧だった。


「——惜しい、な」


そう言った。


言って、続けようとした。


続きの音が、口の形になるところまでは見えた。「けが」の「け」で、唇が開いた。


そこで、止まった。


閉じた。


言い直しもしなかった。


そのまま、峠のほうへ歩き出した。里の者が二人、離れてついていった。


「……」


音の出ない一拍を、私は数えていた。


三度聞いた男の独り言が、初めて、最後まで出てこなかった。

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