第108話 濡れた布
その晩、私は震えていた。
寒いのではない。
里の板の間には囲炉裏があって、火は落としていなかった。
震えているのは、輪郭のほうだった。
朝から昼まで、私は圏の全部と繋がっていた。
器が九つ鳴るのを、鳴る前から知っていた。
腕木の関節がどちらへ動きたがっているかを、動く前から知っていた。
そういうものが、日が落ちても引かない。
指を折って、一から数えた。
十まで数えて、また一から数えた。
数えているあいだは、指のところまでが自分だと分かる。
数をやめると、分からなくなる。
歯が鳴った。
自分の歯の音で、鳴っていることに気づいた。
「兄様」
由良が、板の間の向こうから起きてきた。
常雄は寝ていた。奥の間で、里の年寄りが二人、泊まりで来ていた。
明石さんは土間の隅で、方眼紙を膝に乗せたまま寝入っている。
「……大丈夫です」
「大丈夫な音ではございません」
由良は、私の額へ手の甲を当てた。
挨拶と同じ位置に、この人の手はいつも来る。
「熱は、ございません」
そして、少し黙ってから言った。
「離れのほうが、ようございます。ここでは、皆さんが眠れません」
◆◆◆
納屋は、社の裏にある。
板戸が一枚。明かり取りの隙間が三筋。
私が十四日前に閉じ込められていた場所だ。
藁を敷いた。上に、常雄の家から借りた掻巻を二枚。
火は入れなかった。納屋には炉がない。
持ち込むこともできる。しなかった。
藁と板の建物で、寝ている者のそばに火を置く里はない。
「湯を沸かしてまいります」
由良が出ていった。
隙間の三筋を、私は数え直した。
一筋目が段畑と水路。二筋目が井戸。三筋目が社の裏壁。
数えているあいだに、由良が戻ってこないことに気づいた。
湯を沸かすだけにしては、長い。
◆◆◆
戻ってきたとき、湯は桶に入っていた。手拭いも持っていた。
「失礼いたします」
作業着の前を開けさせられた。抗う気力はなかった。
絞った布が、首の後ろに当てられた。温かい。
次に、鎖骨のあたり。次に、胸の中ほど。
拭う手は、正確だった。
看取りの家で何百回も同じ順にやってきた手だ。順番に迷いがない。
三度目に布を絞ったとき、絞り方が変わった。
一度目と二度目は、水気を落とすだけの絞り方だった。
三度目は、両手で端から巻き込むように絞っていた。丁寧すぎる。湯が減っているわけでもない。
「……由良さん」
「まだ、震えておいでです」
「もう、いいです」
「よくは、ございません」
声が、硬かった。
この人は、感極まると丁寧になる。崩れるのではない。硬くなる。
私は十四日前の裁きの庭で、それを一度見ている。
◆◆◆
布が、置かれた。
桶の縁に、絞ったままの形で置かれた。
由良が、帯に手をかけた。
音がした。木綿の帯が、擦れて解ける音だ。長い音だった。
「何を」
「温めます」
「いえ」
「布では、戻りません」
掻巻が持ち上げられた。
冷えた空気が一度だけ入って、すぐに閉じた。
背中に、当たった。
肌ではなかった。襦袢の、木綿だ。
木綿越しに、体温が伝わってきた。
伝わってくるまでに、少し間があった。布が温まるぶんの間だ。
その間のあいだ、私は何も考えられなかった。
温まった。
温まってから、重さが分かった。
重さは、上から来た。由良が、私の肩の向こうへ回り込んで、顔を寄せてきていた。
耳の下が、温かくなった。
息だった。
「……昊様」
人前では兄様と呼ぶ人が、いま二人しかいないので、そう呼んでいる。
「昊様のお傍は、満ちております」
「由良さん」
「白い家でも、道でも、ここでも、ずっと満ちております」
「離れてください」
「私は、留めるだけでございます。これは、看取りの手でございます」
看取りの手ではなかった。
看取りの手は、正確だ。順番に迷いがない。
この手には、迷いがあった。
◆◆◆
私は、胴巻きを掴んだ。
腹に巻いた布の内側に、紙が一枚入っている。
廃集落の端の家で書いて、出せないまま持っている四通目だ。
三行ぶんの厚みだった。
指の腹に、その厚みがあった。
あることが分かって、自分の腹がどこまでかが分かった。
腹が分かれば、胸が分かる。胸が分かれば、背中が分かる。
背中の向こうに、私ではないものがある。
「由良さん」
私は、その名前を、はっきり言った。
声が薄くなっていたので、二度言った。
「離れてください。お願いします」
由良の手が、止まった。
止まってから、少し力が入った。それから、抜けた。
背中の重さが、なくなった。
冷えた空気が、また一度だけ入って、閉じた。
◆◆◆
由良は、藁の端まで下がって座った。
膝を揃えていた。
襟を直す手が、二度、同じところを直した。二度目は直す必要のない場所だった。
顔が、崩れていた。
この人は、照れると顔の作りが全部落ちる。それまでの静けさが、どこにも残らない。
泣かなかった。泣かないことに慣れた人の座り方をしていた。
隙間の三筋から入る月の白いものが、由良の首から下へ、細く一本かかっていた。
首のところだけ、色が違った。
長いあいだ、二人とも何も言わなかった。
私は数を数えていた。十まで数えて、また一から数えた。
今度は、輪郭のためではなかった。
やがて、由良が息を吐いた。
震えていた。
「……あたたこう、ございました」
そう言った。
それだけ言った。
朝まで、どちらも眠らなかった。
私は板戸のほうを向き、由良は隙間のほうを向いていた。
二人とも一度も寝返りを打たなかったので、互いに起きていることが、朝まで分かっていた。
◆◆◆
——ここから先を、私は三度書き損じている。
一度書いて、消した。もう一度書いて、消した。三度目は、書きかけて、途中でやめた。
墨を塗ったので、下の字は読めない。
読めないが、押した跡は残っている。
紙を斜めにすれば、溝の形で、何行あったかだけは分かる。
三行だった。
夜が明けてから、由良が湯を運んできた。
「おはようございます」
と言われて、同じ言葉を返した。
「お召し替えを、お持ちいたしました。お済みになりましたら、お声をおかけくださいませ」
敬語が、一段硬くなっていた。
桶は、昨夜のまま隅にあった。
縁に掛けた布が、乾いていた。絞ったときの形が、そのまま残っていた。




