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第109話 境界の神々

朝の粥のあいだ、由良は一度も私のほうを見なかった。


椀を出すとき、袖が私の腕に触れかけて、触れる前に引かれた。


引き方が速かった。


私も、見なかった。


見ないでいるのは、思っていたより難しい。


人は普段、見ようとして見ているのではないからだ。


「お代わりは、いかがなさいますか」


「いえ」


「さようでございますか」


それで終わった。



   ◆◆◆



昼前に、社の前庭へ人が集まった。


裁きではない。


莚が敷かれ、その上に桶と、水の入った甕と、たたんだ白い布が置かれていた。


たすきの女が、手を拭きながら来た。


「昨日のことで、年寄りが騒いどります」


「祓いのことですか」


「祓えなんだ、ということです」


女は、莚の上へ座った。


膝の前で手を組まずに、片方の手で桶の縁を触っていた。


この人は、話しているあいだも必ずどこかへ手を置く。


「あの男の祓いが効かんかったのは、器がこちらに寄ったからじゃと、常雄様が言うた。それは、そうです。じゃが、寄ったのは器だけではない」


「と、言いますと」


「あんたのお連れが、うちの送りに口を添えた」


由良のことだった。


六日前、里の老女を土に返したとき、由良は昇天派の送りを唱えた。


里の者は膝をついて土へ向かって唱えた。


二つは、途中まで音が似ていた。


「添えてようございますのか、悪うございますのか。年寄りが割れとります」


「常雄さんは」


「あの人は、割れたままにしておけと言います」


女は、桶の縁から手を離した。


「ですから、並べます」



   ◆◆◆



並べる、というのは、手を並べるという意味だった。


由良が呼ばれた。


莚の反対側に、里の年寄りの女が二人座った。


二人とも、看取りをする側の人だ。


甕から水が汲まれた。


「まず、うちのを見せます」


年寄りの一人が、桶へ水を入れた。


それから、鉄瓶の湯を足した。


「先に水。あとから湯」


「……はい」


「逆には、やらん」


由良は、うなずいた。


「そちらは」


「湯だけを使います。水は、混ぜません」


「湯だけか」


「はい」


「なんでじゃ」


由良の指が、膝の上で一度握られた。


関節のところが白くなった。


「……存じません」


「知らんことを、しとるんか」


「習うたとおりに、いたしております」


年寄りの二人が、顔を見合わせた。


私は、その顔の見合わせ方を見ていた。


責めてはいなかった。困っている顔だった。



   ◆◆◆



次は、拭き方だった。


年寄りが白い布を取って、水と湯を混ぜた桶に浸し、絞った。


絞ってから、莚の上に横たえた藁束を、人の体に見立てて拭きはじめた。


足の先から。次に手の先。最後に顔。


「末から、真ん中へ」


「私どもは」


由良が言った。言ってから、布を受け取った。


「顔から、いたします」


「顔から」


「はい。顔から、末へ」


由良は、そのとおりにやった。


藁束の頭のほうから、腕、腹、脚、足の先。


途中で二度、手が止まった。


肘のところで一度。膝のところで一度。


止めて、その場所を、布ごと少し押さえてから、次へ行った。


年寄りの一人が言った。


「そこで、なんで止まる」


「……そこは、まだ温いことがございます」


「死んどるじゃろ」


「はい。ですが、温いことがございます」


答えになっていなかった。


年寄りは、それ以上訊かなかった。


訊かないかわりに、自分の桶へ手を入れて、湯加減をもう一度確かめていた。


その手つきは、由良が肘を押さえた手つきと、同じ速さだった。



   ◆◆◆



向きの話になって、初めて揉めた。


「頭は、山へ向ける」


年寄りが言った。


「山から来て、山へ返る。日の当たる斜面に穴を掘る。深うは掘らん。土に返るのが早いほうがええ」


由良は、黙っていた。


「そちらは」


「……向きは、決めません」


「決めん?」


「はい」


「どっちへ寝かせるんじゃ」


「どちらでも」


年寄りの一人の掌が、莚の上で一度鳴った。


強くはない。それきりだった。


「そんな粗末なことが、あるか」


「粗末では、ございません」


由良の声が、硬くなった。


「殻でございますから」


言ってしまってから、由良は下を向いた。


前庭が、静かになった。


殻、という語は、この里で通じる語ではない。



   ◆◆◆



常雄が、莚の外から言った。


いつ来たのかは分からない。


私は集まった人の頭数を数えていて、増えたことに気づかなかった。


「殻でも、土は要る」


「常雄様」


「置き場のない物を、この里は持たん」


老人は、莚の縁へ腰を下ろした。


「向きを決めんのは、置き場を決めんということじゃ。それだけは、うちの掟に合わん。じゃが」


そこで、間を置いた。


「合わんことを、間違いとは言わん」


年寄りの二人が、何か言いかけた。


常雄が手を上げて、止めた。


「わしは、割れたままにせえと言うた。並べたのは、揃えるためじゃない。どこが違うかを、皆で一度、見ておくためじゃ」


「では、どこが同じで」


私が言った。


言ってから、少し驚いた。訊くつもりはなかった。


常雄が、こちらを見た。



   ◆◆◆



「同じところが、一つあります」


私は続けた。


「六日前に、私は外から見ていました。二つの詞は、途中まで音が似ていました」


「似とる、というだけじゃろ」


「いえ。似ている場所が、同じでした」


莚の上の年寄りが、こちらを向いた。


「どちらの詞にも、途中で、音が一度だけ短くなるところがあります。そこだけ、節がつきません」


「……」


「あそこに、名前が入るのではありませんか」


たすきの女の手が、桶の縁で止まった。


しばらく誰も言わなかった。


やがて、年寄りの一人が、低い声で唱えはじめた。


里の送りだ。土へ向かう、語尾の下がる詞。


途中まで来て、節がつかなくなった。


そこに、六日前に死んだ老女の名が入った。


一度だけ入って、また節がついた。


唱え終わってから、その人は言った。


「入る」


「そちらは」


たすきの女が、由良に訊いた。


由良は、唱えなかった。


唱えるかわりに、うなずいた。


うなずいてから、掌を上へ向けて、膝の前に置いた。


「……入ります」


「同じ場所にか」


「存じません」


「唱えてみい」


由良が唱えた。


顔を上げて、上へ向かう詞を、途中まで。


節が、つかなくなった。


つかなくなった場所は、同じだった。



   ◆◆◆



唱え終わったあと、たすきの女が、長いこと由良を見ていた。


見ながら、桶の水へ手を入れて、出した。水が指から落ちた。


「あんた」


「はい」


「その詞は、どこで習うたと言うたな」


「白い家で、ございます」


「白い家の前は」


「……存じません」


女は、うなずいた。


それから、指の水を莚の外へ払った。


「あんたの詞はの」


そして、言った。


「送っとらん。呼んどる」

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