第110話 勝ち鬨のあと
その晩、里は火を焚いた。
社の前庭ではなく、下手の広場だ。
石を丸く積んだ場所があって、そこが火の場所だと決まっていた。
薪は、疎開の道の普請で出た根株だった。
捨てるはずのものを、運んできたという。よく燃えた。
粟餅が焼かれた。
灰の上に並べて、片面に焦げ目がついたら裏返す。
裏返す役は子供で、二人で交代していた。
数え方は鍛冶場の鞴と同じで、五十ずつだった。
椀に、濁った酒が盛られた。
私も出された。断らなかった。
一口飲んで、舌に残ったのは甘さだった。
酒の味を、私はよく知らない。港でも飲まなかった。
◆◆◆
歌が起きたのは、火が落ち着いてからだった。
誰かが一節うたって、そこへ別の誰かが重ねる。
合わせようとしていない。合わないまま、勝手に重なって、勝手に離れる。
歌詞は、聞き取れなかった。
聞き取れる部分だけ拾うと、山の名前と、水の名前と、数の言い方が入っていた。
数え歌に近いのかもしれない。
「何の歌ですか」
隣にいた少年に訊いた。
「知らん」
「いつも歌うんですか」
「祝いのときだけだ」
「祝いは、いつ」
少年は、片手を出して、指を二本折った。
残った指は、一本だった。
「今年は、これで一つ目だ」
一つ目、というのは、今年一度目という意味だ。
十二か月の里で、祝いが一度しかなかった年に、私が来た。
◆◆◆
火の粉が上がった。
上がっては、風のあるほうへ流れて、消える。
子供が三人、しゃがんで数えていた。
数えているのが分かるのは、途中で声を上げて数え直すからだった。
明石さんは、輪の外にいた。
石積みの外側、火の当たらないところで、方眼紙を膝に載せている。
膝の上に載せているのに、手は左だけだ。右腕は、いまも使わない。
近づくと、印が三つ打ってあった。
五日前に囲炉裏の灰へ打った三つの点と、同じ配置だ。
それを紙へ写して、下のほうへ、もう一つ打っていた。
「これは」
「峠まで送った、っていう男の帰り道だ」
明石さんは、顔を上げなかった。
「南へ二日か三日で、いちばん近い煙のところへ着く。着けば、報告を出す。出したものは上へ行く。上へ行ったものは、束になって戻ってくる」
「戻るまでに、どのくらい」
「知らん。だが、あの男が歩いた日数より短いことはない」
紙の下の四つ目の点は、まだ何も囲まれていなかった。
「君は、正しいことをした」
明石さんが言った。
「顔を知ってる人間を、生かして帰した。あれは、正しい。血が出てないからな」
「はい」
「正しいことをすると、そのぶん早く来る。それだけの話だ」
私は、うなずいた。
うなずいてから、火のほうを見た。歌はまだ続いていた。
◆◆◆
常雄は、火の正面に座っていた。
飲んでいなかった。椀は持っていたが、置いたままだ。
祝われているのは、私だった。
正面から誰かが礼を言いに来ることはなかった。
かわりに、通りすがりに椀へ酒を足していく者があり、餅を私の膝へ置いていく子供があり、私の前を通るときだけ足を止める年寄りがあった。
礼を言わない礼の言い方が、この里にはある。
訊かないかわりに手のほうを出す、というのと同じ作法だった。
十五日前、私はここで、悪魔の心臓と呼ばれた。
◆◆◆
歌が、切り替わった。
切り替わったというより、大きくなった。
誰かが立ち上がって、両手を上げた。それに合わせて、輪の何人かが手を打ちはじめた。
手を打つ音が、揃った。
揃った瞬間に、私の背中の内側が固くなった。
同じ音だ。
打った回数も、間の取り方も、まったく別のものだ。
それでも、掌と掌が合わさる音は、同じだった。
朝の霧の中で、あの男が二つ打った音と。
私は、椀を置いた。
置いた手が、震えていなかった。震えていないことのほうが、後で気になった。
誰も気づいていない。里の者は、手を打っている。
一人だけ、こちらを見ていた。
◆◆◆
由良が、輪の外から立ち上がった。
火のほうへ歩いて、私の前でも、常雄の前でもなく、手を打っている人たちのそばまで行った。
そして、唱えはじめた。
鎮めの詞だ。
白い家で、それから道で、私は何度か聞いている。
今日の昼に前庭で唱えたものとは、別の詞だった。
声は、大きくない。
歌のほうが、はるかに大きい。
それでも、二節目に入ったところで、手を打つ音が一つ減った。
三節目でもう二つ減った。
誰かが気づいて、誰かが隣を肘で突いて、隣がまた隣を突く。
歌は、終わらせられたのではない。ほどけていった。
最後の一人が手を止めたとき、火の音だけが残った。
生木の混じった根株が、時々、内側で小さく割れる。
由良は、唱え終えて、頭を下げた。
輪の誰も、何も言わなかった。
そのまま、由良は座っている場所へ戻った。
戻る途中、私の前を通った。
通るとき、目は合わなかった。
合わせようとして合わなかったのではない。合わせなかったのだ。
私も、合わせなかった。
昨夜のことが、そこに一拍ぶんだけ挟まった。
歌は、そのあと、もう起きなかった。
◆◆◆
火が小さくなってから、私は広場を離れた。
段畑の縁まで登った。
ここからは、南が少しだけ見える。
昼のうちは、尾根が三つ重なって、その向こうが白く霞んで見える方角だ。
夜だった。
何も見えないはずだった。
低いところに、点があった。
一つではない。
数えた。
七つ。
等しい間で、横に並んでいた。間の狂いが、一つもない。
山の上にも、川沿いにも、人はそういうふうに火を置かない。
置いたところで、燃え方が違うので、必ず不揃いになる。
不揃いにならない火は、火ではない。
七つは、動かなかった。
長いこと見ていたが、一つも消えず、一つも増えなかった。
背後の広場で、餅を裏返す子供が、五十を数え終えた声を上げた。




