第98話 古い詞
夜のあいだも、手首の麻縄は解かれなかった。
朝、板壁の継ぎ目に刻まれた三筋の隙間が、一斉に白く明るくなった。
一筋目の隙間からは、斜面に広がる七段の畑と水路が見えた。
二筋目の隙間からは、集落の中央にある共同井戸のあたりが見えた。
三筋目の隙間からは、社の分厚い裏壁しか見えなかった。
隙間を通して視界に入るのは、それぞれ細い光の帯一本分の風景だけだった。
その帯の外側の死角で何が起きているのかは、耳に届く音の気配だけで補うしかなかった。
隠れ里は、朝の光とともに静かに動き始めた。
まず、水だった。木桶を手にした村人たちが、次々と井戸のほうへ行き交う足音が響く。
しばらくして、薪の煙の匂いが立ち込めてきた。火だ。
それから、山道を下りて段々畑へと向かう足音が一気に増えていった。畑だ。
水、火、畑。
一日の作業の順序が厳格に決まっているらしく、誰一人として大声で指示を出し合う者はいなかった。
明石さんは、板壁に背中を預けて座り込み、木目の節の数を黙々と数えていた。
「……板の隙間から射す日の光の筋が、二寸ばかり東へ動いたな」
明石さんはそう呟いて、再び静かに目を閉じた。
時計の存在しない白地の土地において、この男は隙間から差し込む光の角度を、正確な時計の代わりに使っていたのだ。
由良は、藁俵の脇で両膝を慎ましやかに揃えて座り続けていた。
昨夜から一度も横にならず、身じろぎひとつせずに朝を迎えていた。
◆◆◆
太陽が高く昇った頃、納屋の板戸が開いた。
昨日のあの物見の少年が、湯気の立つ粥の木椀を三つ、土間へと静かに置いた。
「……出雲常雄様は、どうされているのですか」
私が尋ねた。
少年は椀の縁を指先で揃え直しながら、抑揚のない声で答えた。
「社の中に籠もっておられる。今夜まで出てこられん」
「神に、問いかけているのですか」
少年は、私の顔を見ようとはしなかった。
「問いかけておられるんだろう。おれのような若造には、そういう神聖なことは分からん」
板戸が、再び外側から閉ざされた。
置かれた三つの木椀には、寸分違わぬ量の穀物の粥が注がれていた。
悪魔の心臓と断罪された私に対しても、他の二人とまったく同じ量の食事が出されていた。
明石さんは、縛られた両手で器を挟み込んで持ち上げようとし、傷んだ右腕の痛みに顔を歪めて、二度ほど粥をこぼしかけた。
◆◆◆
昼前、再び板戸が開いた。
入ってきたのは、あのたすきを掛けた四十歳ほどの女性だった。
昨日、前庭で由良の肩へそっと手を置いて制止した女性だ。
女性は、私と明石さんの姿を冷徹に見つめ、それから由良へと視線を移した。
「……あんた、井戸の水を汲み上げることができるかの」
由良が、静かに顔を上げた。
「汲めます」
女性は腰の帯から小さな鎌を抜き、その刃ではなく分厚い背の部分を使って、由良の手首の結び目を器用に押し解いた。
手つきに迷いがなかった。
縄を切断することなく、生身の皮膚を傷つけることもない、熟練した解き方だった。
「……自らの手で働く者の手首は、縛らん。この里では、昔からそう決まっておる」
女性は、私と明石さんのほうへは一歩も近づこうとはしなかった。
「そっちの男は、右腕が負傷して使えん。そっちの男は、外へ出すわけにはいかんからの」
それだけを言い残した。
三人の中で、いまこの里で働ける手は、由良のふたつだけだった。
私に出せるものは、ただ配給された粥を胃袋に流し込む口だけだったのだ。
由良は、立ち上がる前に私の前で両手を土間へとそっとつき、一礼してから女性の後について出ていった。
◆◆◆
私は二筋目の隙間へと素早く顔を寄せた。
共同井戸の全景が見えた。
丸く積み上げられた石造りの井戸で、上部に木製の枠と、滑車が頑丈に架け渡されている。
由良が、井戸の前に立ち、太い麻綱を手繰っていた。
釣瓶が井戸の底へと落ちていく。
わずかな間をおいて、水面を叩く鈍い水音が響いた。
それから、木製の滑車が鈍い軋み音を立てながら、規則正しく回転を始めた。
水を満たした木桶が、ゆっくりと地上へと引き上げられてくる。
上がりきったところで、桶の底が井戸の石枠の縁へと鈍く当たり、揺れが止まった。
由良は、同じ動作をもう一度繰り返した。
釣瓶が落ち、水を打ち、滑車が軋み、縁に当たる。
そして——三度目の釣瓶を引き上げる途中、由良の唇が、微かに動き始めた。
声は極めて小さかった。
隙間を通って私の耳へ届いてくる音は、井戸の滑車の軋みのほうが遥かに大きかった。
それでも、私にはその唇の動きが正確に読み取れた。
あの看取りの巫女が、死者を送るときにいつも口ずさんでいた、あの古い神聖な詠唱の最初の節だった。
あの送り火の夜も、山奥の石の塚の前でも、由良は常にこの一節から祈りを始めていた。
〈ひふみ、よいむなや、ここのたり〉
その言葉の真の意味は、私には何ひとつ分からなかった。
由良自身にも、意味など分かっていないのだ。
以前、山小屋でその詞の意味を尋ねたとき、「幼い頃から習った通りの音で申しております」と答え、それ以上の説明はできなかった。
文字を一切習わずに育った由良にとって、神聖な詞は紙の上の文字として存在するのではなく、幼少期に耳で聞き覚えた「純粋な音の記憶」としてのみ、その身体の奥底に刻み込まれていたのだ。
だからこそ——水を汲み上げるという重労働の中で、その詞は由良にとって、呼吸を整えるための無意識の口ずさみのようなものだったのだ。
◆◆◆
井戸の向こう側の小道から、あのたすきを掛けた女性が別の木桶を提げて歩み寄ってきた。
女性は、由良のすぐ隣に自らの桶を下ろした。
そして——突然、その両手をピタリと止めた。
井戸の綱へと伸ばしかけていた両手が、空中で凍りついたように静止した。
女性の唇が、小さく動いた。
〈……ふるべ、ゆらゆらと、ふるべ〉
由良の引き上げていた釣瓶が、石枠の縁に触れたまま、それ以上持ち上がるのを止めた。
木製の滑車が、最後に一度だけ鈍い軋み音を立てて、完全に静まり返った。
女性が口ずさんだその一文は、由良がまだ口にしていなかった、あの詞の【続き】そのものだった。
由良は綱を握り締めたまま、隣の女性のほうへ顔を向けようとはしなかった。
向けられなかったのだ。
由良の両肩が、一度だけ大きく震えて跳ね上がり、そして深く落ちた。
女性は桶を足元に置いたまま、由良の横顔を、射抜くような鋭い視線で見つめ続けていた。
「……あんた」
女性が、低く静かな声で問いかけた。
「その古い詞を、一体、どこの誰から習い覚えたのじゃ」




