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第97話 悪魔の心臓

鳴り響いた音は、耳をつんざくような大音量では決してなかった。


素焼きの器の底が、微かな共鳴によって一度だけ、低く震えた。


ただ、それだけだった。


だが——前庭を取り囲んでいた里の人間たちは、その微かな震動音の意味を正確に聞き分けていた。


段々畑から、鍬を手にした農夫たちが続々と下りてきた。


民家の板戸が開き、たすきを掛けた女性たちが出てきた。


遊んでいた幼い子供たちは、母親たちに鋭く呼ばれ、家屋の奥深くへと匿われた。


数えた。


全部で四十人を少し超えたところで、前庭へ集まってくる人の数は頭打ちになった。


明石さんは、庭の隅の木柵のそばに直立したまま、身じろぎひとつしなかった。


その瞳だけが、私の背中と、社の正面の板戸、そしてこの庭から外へ脱出できる二箇所の出口を、順番に観察し続けていた。


庭の片隅では、二人の年配の女性が竹笊の中の稗(ひえ)を指先で黙々と選り分けていた。


これほど大勢の人間が集まってきても、その手作業だけは寸分も止まらなかった。



   ◆◆◆



社の分厚い板戸が、内側から重い音を立てて開いた。


中から姿を現したのは、一人の筋骨逞しい老人だった。


背筋が異様に高い。


六十歳をとうに超えているはずなのに、腰の曲がりがひとつもない。


白髪を後頭部で頑丈に束ね、額に白い麻の鉢巻をきつく巻き締めていた。


両の手のひらが異様に大きく、指先が太く節くれ立っている。


爪の隙間に、畑仕事の黒い土が擦り込まれたままだった。


その老人は前庭の土間を堂々と横切り、迷うことなく祭壇の石台の前まで歩み寄ってきた。


私を一瞥すらしようとはしなかった。


老人は、台の上に並ぶ素焼きの器のひとつを、太い指先で静かに持ち上げた。


目の高さまで持ち上げ、水平からゆっくりと器を斜めに傾けた。


中の白い塵が、器の縁のほうへと滑り落ちた。


傾けた以上、重力に従って粉塵が滑るのは当然の物理現象だった。


だが——老人が器を元の水平の位置へと戻したとき、異変が起きた。


器の底の白い塵は、中央へと戻ろうとはしなかった。


私の立っている方角へ向けて、偏ったまま完全に静止していたのだ。


老人は、もう一度器を逆方向へと大きく傾けた。


そして再び水平へと戻した。


まったく同じ現象が繰り返された。


老人は、そこで初めて私の顔を真っ直ぐに見据えた。


細く鋭い眼光だった。


その瞳の奥底に、決して揺らぐことのない冷徹な意志が宿っていた。


新参者を値踏みしているというよりは、獲物の皮を一枚ずつ刃物で剥ぎ取り、その肉の奥底に潜む骨の形を検分しているかのような冷酷な視線だった。


その視線が、私の胸元からピタリと動かなくなった。


私は、自らの呼吸の息を数えた。


三十回まで数えて、途中で数えるのをやめた。


老人は、依然として完全な沈黙を保ち続けていた。


この男にとって、沈黙そのものが相手を測るための絶対的な道具なのだと悟った。



   ◆◆◆



「……出雲常雄(いずも・つねお)という」


低く引き締まった声だった。


庭のいちばん奥の隅々にまで明瞭に届くのに、少しも声を張り上げてはいなかった。


「この白地の里を、預かっておる」


私は、自らの偽名を名乗ろうと口を開きかけた。


だが、常雄は無言で右手を胸の高さまで掲げ、私の言葉を即座に遮った。


「おまえの名など、後でよい」


常雄は、手にした器を祭壇の石台の上へと戻した。


伏せて置くのではなく、口を上に向けたまま、静かに置いた。


「この器に敷かれた塵はの……本来、神聖な祭礼の日にしか動かん。里じゅうの者が集まり、祝詞を厳かに奏上して、初めて微かに応えるものじゃ。……何の詞(ことば)も捧げておらん平日の昼間に動いたことなど、わしがこの社を預かって十五年のあいだ、ただの一度たりとも起きたことはない」


前庭が、張り詰めた静寂に包まれた。


片隅で稗を選り分ける擦過音だけが、淡々と響いていた。


「動いたのではない、とも言えるかの。おまえの方角へ向けて、引き寄せられた……というほうが、理にかなっておる。……一体、おまえの身体の何に引き寄せられたのじゃ」


常雄は、私の顔ではなく、私の胸の真ん中、心臓のあたりを凝視していた。


「……悪魔の、心臓じゃ」


その声の調子は、最初から最後まで寸分も変わらなかった。


怒鳴り散らされたほうが、まだ恐怖を紛らわせることができたかもしれなかった。



   ◆◆◆



前庭の後方に控えていた村人たちの列が、ざわめいて揺れた。


誰かが短く叫びかけ、別の誰かがその口を手で制止した。


由良が、私の前へと身を乗り出そうとした。


ほんの一歩だけ、足を踏み出しかけた。


だが——庭の境界に立っていた四十歳ほどの、たすきを掛けた女性が、由良の右肩の上へとそっと掌を置いた。


力任せに押さえつけているわけではなかった。


ただ、静かに触れるように置いただけだった。


「……ここから先へは、入らんのじゃよ」


女性は、由良に向けてそれだけを静かに告げた。


由良は、その場に足を止めた。


足を止め、そして地面に両膝を静かに折って、自らの両手を膝の前へとついた。


あの、最も慎ましやかな看取りの座り方だった。


土についた指の関節が、血の気を失って真っ白になっていた。


由良は、何ひとつ言葉を発しなかった。


いまのこの絶望的な状況において、口にできる言葉など、この少女はひとつも持ち合わせていなかったのだ。


私は、その姿をただ見つめていることしかできなかった。


手首を縄で縛られているからではない。


いまこの場で私が何を弁明しようとも、それはすべて「悪魔の口から吐き出された虚偽」として処理されるだけだと分かっていたからだ。


明石さんは、微動だにしなかった。


木柵の脇で、二箇所の出口の方向を、ただ目で静かに確認し直していた。


常雄が、集まった村人たちのほうへと向き直った。


「……殺しはせん。器の塵が引き寄せられたという理由だけで、人を土に埋めて命を奪った先例は、うちの里にはない」


常雄は、言葉を一度だけ区切った。


「じゃが……ここから放免することもしない。社の裏の納屋へ入れておけ。三人ともじゃ」



   ◆◆◆



社の真裏に、頑丈な板張りの納屋が建てられていた。


古い農具と、穀物の俵、そして乾燥させた藁束の濃密な匂いが充満していた。


出入口は厚い板戸が一枚あるだけで、窓はひとつも存在しなかった。


板と板の継ぎ目に、細い明かり取りの隙間が三筋だけ刻まれており、そこから外の風景が細長く見えていた。


納屋の中に押し込められた後も、私たちの手首の縄は解かれなかった。


明石さんが板壁の隙間へそっと近づき、外の様子を覗き込んだ。


「……戸の前に、見張りが一人立っているな」


由良は、板戸のすぐ内側の土の上で、再び膝の前に両手を揃えて座り込んでいた。


「……兄様。お怪我などは、ございませんでしたでしょうか」


由良の敬語が、いつもより一段、硬く強張っていた。


この少女は、極度の恐怖や悲しみを耐え忍ぶとき、言葉の丁寧さのほうが極端に増してしまうのだ。


「怪我はありません」


私は答えた。


答えてから、私は由良に対して、「私は悪魔などではない」という否定の言葉を口にしていないことにハッと気づいた。


口にすれば、済む話だった。


たったの二言で、由良を安心させることができたはずだった。


だが——私は言葉を発する代わりに、板壁の隙間から差し込む三本の光の筋を、ただ無心で数え直していた。


重い板戸が、外側から重い音を立てて閉ざされた。


完全に閉ざされる寸前、出雲常雄の低い声が、板の隙間を通り抜けて私の耳へと届いてきた。


「……明日、神に訊く」

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