第96話 神の前
峠の鞍部を越えると、道は緩やかな下り坂へと変わった。
立ち込めていた濃い朝霧は、完全に晴れ渡っていた。
白地の荒野を二日間歩き続けるあいだ、世界には匂いというものがほとんど存在しなかった。
塩分を噴き出した白い土壌と、立ち枯れた野草の、無臭に近い乾いた空気だけだった。
だが——この谷底へ向けて下る坂道の途中から、懐かしい匂いが一気に鼻腔を突いてきた。
立ち上る薪の煙の匂い、家畜の糞の匂い、そして竈で穀物を煮炊きする温かい湯気の匂い。
谷の下から、風に乗って押し寄せてくる。
人間が確かに社会を営んでいる土地特有の、生々しい生命の匂いだった。
手首の麻縄は、前で緩く結ばれたままだった。
歩行の妨げになるような締め付けでは決してない。
先頭を歩くのは、私より背の低い、十五、六歳ほどに見える少年が一人だけだった。
ときどき立ち止まっては、自慢の鋭い視線で前方の道筋を確認し、再び無言で歩き出す。
視力の優れた若い者を物見の先導役として立てているのだ。
背後にも、四人の村人たちが一定の間隔を保って追従していた。
「振り返るな」と脅されることもなかった。
◆◆◆
明石さんが、私の斜め後ろから、声を潜めて呟いた。
「……道は、この一本きりだな」
「はい」
「背後に四人。先頭に一人」
「全部で、五人です」
「そうだ。その人数で完全に足りると、向こうは計算し尽くしている」
私にも、その意味が痛いほど理解できた。
谷底へ通じる道はこの細い一本道しかなく、両側は急峻な段々畑の斜面で、下からは激しい水路の流れる音が響いていた。
もし脱走を試みるならば、いまこの瞬間しかなかった。
だが——逃げ出したところで、この未知の白地の奥深くに、身を隠せる場所などどこにも存在しなかった。
明石さんは無事な左手を腰のあたりまで持ち上げかけ、そして静かに下ろした。
頭の中で生存確率の数字を計算し、勝ち目がないと判定を下したときの、いつもの統計屋の手つきだった。
「……武器を持たない人間に包囲されるのが、この世でいちばん逃げにくい」
明石さんはそう呟いて、それきり固く口を閉ざした。
由良は、何ひとつ言葉を発しなかった。
縛られた両手を胸の前で慎ましやかに揃えたまま、私の半歩後ろを、寸分違わぬ歩幅で静かについてきていた。
◆◆◆
谷の底へ近づくにつれて、山道の両脇が頑丈な石垣で覆われ始めた。
大昔に組まれた石垣ではない。
あちこちに、最近になって積み直された新しい修繕の跡が残っていた。
崩落した石の隙間に、大きさの不揃いな川原石が無理やり押し込まれ、そこだけ表面の凹凸が不揃いになっている。
石垣の上は、広大な農地になっていた。
山の急斜面を階段状に切り拓き、上から下まで見事な段々畑が築かれている。
数えた。
きっかり、七段あった。
いちばん下の段の畑には、清らかな水が引き込まれていた。
細い水路が段の縁を伝って、次の下の段へと段差を落ちていく。
水が落ちるたびに、澄んだ水音が響く。
それが、規則正しく七回、耳元に届いてきた。
畑の中には、大勢の村人たちの姿があった。
こちらへ視線を向ける者もいたが、農作業の手を決して止めようとはしなかった。
手にした鍬で畝の土を丁寧に掻き、また掻いた。
民家の縁側で、一人の老人が藁を綯っていた。
自らの膝の上で、藁束の端を三つに器用に割り、両の手のひらで擦り合わせて撚り合わせていく。
撚っては新しい藁を足し、撚っては足す。
冬の寒さを防ぐための、冬囲いの縄を作っているらしかった。
軒下には、乾燥させた大豆の莢が、房のまま幾重にも吊るされていた。
その老人もまた、私たちの通過を見つめながら、手を寸分も止めようとはしなかった。
◆◆◆
民家の数は、全部で二十四軒あった。
歩調に合わせて、検数の目で正確に数え上げた。
屋根の崩落した廃屋は一軒も存在しない。
壁の板材が真新しく打ち直された家が、三軒。
数を数え上げる行為は、私にとって染み付いた職能の癖だった。
数を数えているあいだだけは、これから自分たちが何をされるのかという底知れぬ恐怖を、頭の外へと追い出すことができたからだ。
そして——数えているうちに、決定的に周囲の光景と合致しない「異常」がひとつだけ存在した。
この里の人間の中に、武器を手にした者が、ただの一人も存在しなかったのだ。
畑を耕す者も、道端から見つめる者も、背後を護送する男たちも、手にしているのは鍬と、背負い籠と、農作業用の麻縄だけだった。
国家の自動小銃はもちろんのこと、山刀や棍棒の一本すら、誰一人として腰に差していなかった。
港町の第零区でも、白地の検問所でも、人間を捕らえて拘束する側の権力者は、必ず凶悪な武器を手にしていた。
自らが武器を所持しているという事実を、威圧のために誇示してすらいた。
だが——ここでは、誰も何も持っていなかった。
私たち三人を拘束したのは、暴力的な兵器などではなかった。
里の圧倒的な人口と、一本しかない地形の構造、そしてこの閉ざされた谷の地理を私たちが何ひとつ知らないという事実そのものだった。
その三つの条件だけで拘束には完全に十分であると、この人たちは熟知していたのだ。
三人の幼い子供たちが道端の草むらから駆け寄ってきて、私たちを珍しそうに見上げた。
逃げ出そうとはしなかった。
私たちを怖がっている様子すら、少しもなかった。
先頭の少年が、子供たちに向けて短く何かを言った。
子供たちは即座に散開し、民家の奥へと戻っていった。
「……あの、縄は」
由良が、初めて少年の背中へ向けて声をかけた。
少年は振り返ることなく、淡々と答えた。
「自らの手で働く人間の手首を、うちでは縛らん。……あんたらは、まだこの里で一日も働いとらんからな」
◆◆◆
谷の最も奥深い突き当たりに、小さな社が佇んでいた。
社と呼ぶには、あまりにも質素で簡素な木造建築だった。
板葺きの屋根の上に平らな石を幾重にも並べて風の重石にしてある、民家よりわずかに天井の高い建物。
四隅を支える柱は太い丸太だった。
中央を貫く一本の太い親柱だけが、他の柱よりも明らかに新しい木材で据え直されていた。
社の正面に、土を踏み固めて平らに均した前庭が広がっていた。
その前庭の最奥に、石造りの祭壇が据えられていた。
祭壇の台の上に、何かが整然と並べられていた。
素焼きの、大人の掌に収まるほどの大きさの小さな器。
すべて上向きに口を開けて置かれている。
三つずつ、三列。
全部で、九つ。
先導していた少年が、前庭の入り口でピタリと足を止めた。
そして、私の身体の背中を軽く押し、私一人だけを祭壇の前へと進み出させた。
石の台座まで、およそ十歩。
五歩手前まで近づいたその瞬間——
私の両手の甲の内側が、突然、激しく痺れ始めた。
白地の領域に入って以来、一度も起きたことのない異変だった。
耳ではない。
私の耳の神経は、いまだ何の電波も捉えていなかった。
激しく痺れたのは生身の皮膚のほうであり、その電撃のような痺れは、前腕の骨の内側を伝い、私の肋骨の奥底、心臓のすぐ裏側にまで一気に達した。
九つの素焼きの器の底に、灰のような極めて細かい白い塵が、薄く敷き詰められていた。
その塵の表面が、微かに波打つように動いた。
風は、一筋も吹いていなかった。
前庭の地面は完全に乾ききっており、砂粒ひとつ舞い上がっていない。
私の呼吸の息が届くような至近距離でも決してなかった。
だが——器の底の白い塵は、九つの器のすべてにおいて、一斉に私の立つ方角へ向けてスーッと引き寄せられるように偏り始めたのだ。
背後で、由良がハッと息を呑む気配が伝わってきた。
そして。
九つの素焼きの器が、静寂を切り裂いて、一斉に甲高い共鳴音を立てて鳴り響いた。




