第95話 山の向こう
乳白色の霧の中に立つ無数の人影は、微動だにしなかった。
私たち三人を取り囲んだまま、静寂を保っていた。
あの狂暴な軍用追跡犬は退却した。
だが——その犬に向けて退けと命じた者たちが、今度は私たちを完全に包囲していたのだ。
獣の牙よりも遥かに静かで、逃げ場のない包囲だった。
やがて、その人垣の中から一人の人物が霧を分けて前へと進み出てきた。
小柄な、腰の曲がった老いた男だった。
長く伸びた白い髪を、後頭部で麻紐を使って無造作に束ねている。
その両手には、何も握られていなかった。
武器もなければ、人を縛る縄すら、まだ携えていなかった。
老人は、私の顔をじっと見つめた。
正確には——私の顔の表面ではなく、私の頭蓋の内側、あの耳の神経が意識を伸ばしたり引いたりしていた奥底の領域を、正確に見透かすように見つめていた。
老人の背後に、いくつもの人間の姿が、霧の中で静かに立ち並んでいた。
若い男も、女性も、幼い子供の姿すら混ざり合っているようだった。
武器を手にした者は、誰一人としていなかった。
国家が「完全な無人の空白」と断定して切り捨てた白地の最深部に、これほど多くの生身の人間たちが、独自の社会を築いて生き続けていたのだ。
◆◆◆
「……来たか」
老人が、低く掠れた声で言った。
白地の古い土地に伝わる、独特の素朴な方言の訛りがあった。
「来た、というよりは……自ら辿り着いた、と言うほうが、筋が通っておるかの」
私は、何ひとつ言葉を返すことができなかった。
この白地の荒野に足を踏み入れて以来、私の耳の奥底に絶え間なく応答を返し続けてきたあの未知の律動は、間違いなくこの人たちのものだったのだ。
私が意識を伸ばせば近づき、引けば引いた、あの知覚の双方向性。
向こう側の人間たちは、私がこの地へ足を踏み入れた瞬間から、私がここまで歩んでくることをすべて予見していたのだ。
これまでの人生で、誰も私という人間を正しく読み解いてはくれなかった。
港町の能力検定は、私を「非認証の零点」と読み捨てた。
国家の治安機関は、私を「生体通信の実験場」と読んだ。
山奥の昇天信仰は私をただ「素通り」し、大河の産霊信仰は私を「神聖な源」と崇め、そして石上派の教団は私を「機械を殺す兵器」として利用しようとした。
この老人が、いま私の内側に何を見出しているのかは、まだ分からない。
だが——この老人の濁りのない瞳だけが、私の外見の記号ではなく、私の内側で息づくあの生体の応答を、真っ直ぐに捉えていた。
◆◆◆
明石さんが、私の前へ半歩身を乗り出した。
無事な左手の中に、先刻拾い上げた川原石を固く握り締めている。
「……明石さん、やめてください」
私は、明石さんの肩に手を置き、静かに制止した。
これまでの逃避行の中で、私が明石さんに対して、命じるような口調を使ったのはこれが初めてだった。
「勝ち目はありません。……それに」
それに、何を言えばいいのか、自分でも言葉が見つからなかった。
この場から逃げ出したいという衝動は、私の胸の奥から湧いてこなかった。
港町を追われてから丸二ヶ月間、私はひたすら北へ向けて歩み続けてきたのだ。
その最果ての地の奥底に、私の耳の知覚に確実に応答を返してくれる存在がいた。
その応答の主たちの目の前に、いま、自らの足で辿り着いてしまったのだ。
ここから背を向けて逃げ出すことは、これまで歩んできた過酷な旅路の意味のすべてを、自らドブに捨てることと同じように思えた。
明石さんは、握り締めていた石を地面へと静かに落とした。
由良は、私のすぐ隣で、静かに両膝を折って地面に正座した。
敵に対する降伏の姿勢ではない。
白い家で培われてきた、最も慎ましやかな看取りの座り方だった。
この少女は、他人と争い、傷つけ合うための姿勢など、最初から持ち合わせていなかったのだ。
◆◆◆
老人が、背後の霧へ向けて右手を小さく掲げた。
人垣の中から二人の若い男が進み出てきて、手にした麻縄で私の両手首を前で縛った。
逃げ出すことができない程度には固く締め上げられた。
だが、生身の皮膚を傷つけるような乱暴さは少しもなかった。
人間を罪人として縛ることに慣れた手つきではなかった。
山野で捕獲した獲物や、重い荷物を丁寧に括ることに慣れた、生活者の手つきだった。
明石さんも、由良も、まったく同じように前で両手を縛られた。
石上派の人間たちのように、誰一人として罵声を浴びせたり、乱暴に小突き回したりする者はいなかった。
縄を打たれた後、私は胸の中で、もう一度だけ耳を澄まそうとしてみた。
耳の神経を北へ向けて伸ばし、あの未知の律動へと意識を集中させた。
——やはり、届かなかった。
私に届いてくるのは、向こう側がこちらへ向けて開いてくれる波長だけであり、私自身の側から力づくで相手を捉え、干渉することは、この死滅した白地の中ではどうしても不可能だった。
◆◆◆
私たちは、北の山奥へ向けて歩かされた。
乳白色の霧の中を、山道に沿って登っていく。
前後を、国津派の村人たちが無言のまま護送するように挟み込んでいた。
斜面を登るにつれて、私の両耳の奥底に届く電磁律動の束が、次第に太く、力強く重なり合っていった。
一つだけの独立した波形ではない。
無数の細い生体律動が、山の奥深くの一点へ向けて、静かに整然と重なり合っている。
あの白地山奥の産霊の儀式で体験した、無数の人間たちの脳波の重なりと酷似していた。
だが——あの狂乱の儀式より、遥かに静謐で、澄み切っていた。
狂気じみた法悦の叫びもなければ、他者を無理やり巻き込もうとする暴力的な勧誘の気配もない。
ただ、数え切れないほどの生体律動が、山の向こう側の一点を見つめながら、何十年もの歳月をそうして過ごしてきたかのように、静かに、寸分の乱れもなく調和して存在していた。
あの産霊の儀式では、重なり合った他者の意識が私の生体律動を呑み込もうとなだれ込み、激しい電磁の悲鳴を上げさせた。
だが——この山の奥の調和は違っていた。
こちらの意識へとなだれ込んでくることもなく、私の存在を呑み込もうともしない。
ただ、山向こうの絶対的な中心において、無数の律動が、最初からそこに在るべき姿として息づいていたのだ。
私の耳は、生まれて初めて、相手から応答を返されても少しも脅威を感じない、真の静寂の領域へと近づいていた。
あらゆる人間から読み違えられ、誤読され続けてきた二十四年の果てに——私という人間の本質を、正しく読み解いてくれるかもしれない者たちが、この山の奥深くに確かに存在していた。
その者たちの前へ向けて、私はいま、両手を縄で縛られながら、それでも自らの生身の両足で、一歩ずつ大地を踏みしめて登っていた。
国家から逃げるためではなく、自らの存在の真実を確かめるために歩んできた旅路の、これが、正真正銘の最奥の地だった。
風が吹き抜け、深い朝霧が急速に晴れ渡っていった。
私たちは、二つの山の尾根が交差する、鞍部の峠の上へと抜け出た。
先頭を歩いていた白髪の老人が足を止め、峠の向こう側に広がる広大な盆地を見下ろした。
そこに、一体何が存在しているのかは、私の位置からはまだ見通すことができなかった。
だが——あの無数の調和した律動は、間違いなく、その谷底の中心から放たれていた。
老人は、一度も振り返ることなく、静かに告げた。
「——神の前へ」




