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第94話 犬と霧

深い朝霧が、大地を白く覆い尽くしていた。


白地の荒野では、夜明けとともに濃い霧が立ち込めることがあった。


地表の塩分を噴き出した冷たい土壌が、朝日の熱に温められることで、乳白色の濃厚な水蒸気を立ち上らせるのだ。


その朝の霧は、とりわけ深かった。


前方の視界が、わずか十歩ほど先までしか利かなかった。


私たちは、火を焚かなかった。


昨夜のうちに背負い籠に残されていた最後の木の実を分け合い、食料は完全に底をついていた。


由良が竹筒を回し、三人で一口ずつ水を喉に流し込んでから、重い足取りで再び北へ向けて歩き出そうとしていた。


耳は、静かなままだった。


この白地の荒野の中では、私の耳は、ただの生身の人間の耳に過ぎない。


野生動物の脳波も、機械の通信律動も、この空間では何ひとつ拾い上げることができなかった。


だからこそ——その【脅威】がすぐ目の前まで迫っていることに、私は最後の瞬間まで気づくことができなかった。


かつて港町や山道にいた頃の私であれば、百歩も手前の距離から、その接近を確実に捉えていたはずだったのに。



   ◆◆◆



低い地鳴りのような唸り声が、霧の底から響いてきた。


音のした方角へ視線を向けると、濃い乳白色の霧の切れ間に、四足の獣が身を低くしてうずくまっていた。


大型の犬だった。


だが——私の知っている民家の飼い犬などとは、体躯の骨格がまるで違っていた。


肩の高さが、大人の腰のあたりまで達している。


毛並みは短く硬い灰色で、朝霧に濡れて、冷たい鉄のような鈍い光沢を帯びていた。


その暗い両目だけが、濡れたように光りながら、私たちをじっと見据えていた。


太い首の周りに、頑丈な革の首輪。


その帯に、国家の識別番号を焼き付けた金属プレートが、ひとつ取り付けられていた。


「……軍の、追跡犬だ」


明石さんが、凍りついたように直立したまま、口元だけを微かに動かして囁いた。


「知能機械の入れない白地の土地へ、生身の生き物を送り込んできたわけだ。鼻の嗅覚だけで、人間の匂いを追う。……電気も要らなければ、認証の電波も要らん。この犬にとっては、白地だろうとただの平地と同じだ」


あの峠で対峙した、柏手の男が解き放った追跡犬だった。


私の生身の顔を直接視認したあの男が、機械による追跡が不可能と悟るや否や、生体兵器による追跡へと即座に手を切り替えてきたのだ。


顔を覚えられたという事実が、いま、最も過酷な暴力となって私たちの前に立ちはだかっていた。


通信の符牒でも、地図の座標でもない。


私の身体の匂いを、この獣は記憶し、ここまで追い詰めてきたのだ。



   ◆◆◆



犬は、じりじりと足元の間合いを詰めてきた。


一歩、間合いを詰めては静止する。


静止して低く唸り、再び一歩を詰める。


極限まで訓練された軍用獣特有の、獲物を確実に追い詰める歩幅だった。


私は、必死になって耳の神経を伸ばした。


——何も、応えない。


犬の生体律動を掴み取ろうと意識を集中させても、指先が虚空を掻くように、何のシグナルも手応えを得られない。


この白地の空間の中では、私の耳は何も拾えなかった。


かつて地下水道でも、山奥の検問所でも、生きた人間の脳波や動物の神経であれば確実に捉え、介入することができた。


だが——この死の大地の霧の中では、目の前で牙を剥く一匹の犬の律動すら、私の耳は知覚することすら叶わなかった。


私は、ただの、何の武器も持たない無力な男だった。


二十四年のあいだ、私の耳は、常に危険な存在を誰よりも早く察知し、私を救い続けてきた。


駅の自動改札も、国家の監視車両も、空から急降下する観測ドローンも、電磁の律動によって飛来する前にすべて見抜くことができた。


その耳が——太古から存在する最も原始的な獣の前で、何ひとつ役に立たなかった。


機械を殺すために生まれたような私の特異な体質が、ただ匂いを追って牙を剥く一匹の生身の犬に対して、何一つ為す術を持たなかったのだ。


後頭部の古い傷痕は、微かな疼きすら見せなかった。


それを呼び起こすべき電磁の波長が、この霧の中には存在しなかったからだ。


明石さんが、無事な左手で足元の川原石を拾い上げた。


だが、負傷した身体で片手で投げつけたところで、この屈強な獣を仕留められるはずもなかった。


由良が、私の前へと身を乗り出した。


武器も持たない小柄な身体を投げ出すようにして、私の前に立ちはだかり、自らの両手を広げて私を庇う位置に入った。


犬が、前脚を深く沈めて身を低くした。


獲物の喉笛へと飛びかかる、直前の跳躍姿勢だった。



   ◆◆◆



その瞬間——霧の奥深くから、乾いた音が響き渡った。


人間の怒声ではない。


犬笛の高周波でもない。


硬い石と石を打ち合わせるような、澄んだ打撃音だった。


一つ。


間をおいて、もう一つ。


二拍の、規則正しい打撃音。


跳びかかろうとしていた犬が、ピタリと動きを止めた。


前脚を深く沈めた姿勢のまま硬直平伏し、それから、両耳を霧の奥の方角へと鋭く向けた。


まるで、私たちの存在をその場で完全に忘れ去ったかのように。


霧の奥から、もう一度、同じ石の音が響いてきた。


寸分違わぬ間合いで刻まれた、二つの拍動。


犬は身を低く保ったまま、一歩ずつ後ずさった。


喉の奥の唸り声を完全に止め、私たちから視線を逸らし、音の響いてきた霧の深淵へと向き直った。


そして——音もなく、白い霧の向こう側へと去っていった。


国家の軍用追跡犬が、自らの飼い主でもない見知らぬ者の、ただの石の合図ひとつによって退却したのだ。


その二拍の間合いには、確かな聞き覚えがあった。


昨夜、私の耳の奥底に応答を返してきた、あの未知の律動を持つ者たちが、犬に向けて「退け」と命じていたのだ。


軍用犬は、国家の命令よりも、この土地の主たちの声に従ったのだ。



   ◆◆◆



乳白色の濃い霧が、ゆっくりと風に流れて動いた。


石の音が響いてきた方角に、複数の人影が直立していた。


一人ではなかった。


霧の底から、いくつもの人間のシルエットが浮かび上がっていた。


身じろぎひとつせず、沈黙のまま私たちを見据えている。


その輪郭だけが、白い視界の中に、濃く黒く滲み出ていた。


昨夜、石を積み上げて祠を築き、捨てられた白地の中で道だけを絶やさず、私が意識を伸ばすと呼応するように近づいてきた、あの未知の律動の主たち。


その者たちが、いま、霧の奥から無数の人影となって現れ、私たち三人をぐるりと取り囲むようにして立ち並んでいた。


近寄ってくる気配はなかった。


逃げ去る気配もなかった。


ただ、私たちを完全に包囲する隊列を組んだまま、静かに立ち尽くしていた。


霧の中に、無数の人影。


ひとつでは、なかった。

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