第93話 応える闇
白地の領域に入ってから、四日か、あるいは五日が過ぎ去っていた。
見渡す限り寸分違わぬ白一色の大地の中では、日数の経過すら正確に数えることが難しくなっていた。
数えるべき基準となる風景の変化が失われると、暦の感覚すら、現実の輪郭を失って曖昧に溶けていく。
◆◆◆
その日の夕暮れ時、私の耳の奥底で鳴り続けていたあの金属的な耳鳴りの奥に、耳鳴りとは明らかに波長の異なる微細な音が混ざり込んだ。
電磁の律動だった。
自分の感覚の聞き間違いかと思い、私は我が耳を疑った。
白地には、いかなる通信の律動も存在しないはずだった。
国家の知能機械も、遺産回線も、生身の人間の街も存在しない、完全な空白の死滅地帯だからだ。
だが——それは、確かに存在していた。
極めて細く、薄い電磁の律動が、北の遥かな山並みの深淵から、こちらへ向けて微かに届いていた。
これまで二十四年間聞き取ってきた、どの国家機械の律動とも似ていなかった。
人の息づかいとも、野生動物の足音とも決定的に異なっている。
私は、その未知のシグナルの方角へ向けて、両耳の神経を慎重に伸ばしてみた。
すると——伸ばした私の耳に対して、その律動が、明確な応答を返してきた。
こちらが意識を伸ばすと、向こうの律動も、まるで手招きするようにこちらへ向けてわずかに波長を近づけてくる。
私が恐怖を感じて耳を引くと、向こうもそれに合わせてスーッと波長を引いた。
これまで街や山奥で知覚してきたあらゆる機械は、決してこのような反応を示さなかった。
都市の巨大な管理網も、国家の軍用兵器も、こちらが知覚を伸ばそうが引こうが、完全な無関心を保ったまま、定められた手順通りに律動を刻み続けていただけだった。
だが——この北の律動は、決定的に違っていた。
こちらの耳の知覚の存在を、向こう側の何者かが、完全に把握していた。
意識を伸ばすたびに、後頭部の古い傷痕の奥が、微かな熱を帯びて疼いた。
白地に入ってからずっと深い眠りについていたあの生体の痕が、この正体不明の律動に呼応して、静かに目を覚ましかけていたのだ。
私は、慌てて意識の神経を引き戻した。
これ以上深く探りを入れることが、本能的に恐ろしかった。
深く探れば探るほど、向こう側の何者かもまた、私の肉体の秘密をより深く暴いていく——そういう得体の知れない戦慄が、背筋を駆け上がったからだ。
意識を引き戻した後も、その律動は完全に消滅することはなかった。
針のように細く、だが一度も途切れることなく、漆黒の北の闇の奥底から、こちらへ向けて微かな応答を送り続けていた。
◆◆◆
乾いた山道の脇に、人為的に石が積み上げられていた。
自然に崩落した石の山ではない。
大人の背丈ほどの高さに、平らな川原石が几帳面に何段も積み重ねられ、その頂点に、切妻屋根の形に削られた平たい石が厳かに載せられていた。
石造りの、小さな祠だった。
誰一人として住むはずのない死の白地の真ん中に、誰かが自らの手で石を積み上げ、神聖な祈りの形を維持していたのだ。
石と石のわずかな隙間に、枯れかけた野の花が一本、丁寧に挿し込まれていた。
この乾ききった白地には、花など一輪も自生していない。
どこか遥か遠くの、水の湧き出る秘密の水場から、誰かがわざわざ手で摘んでここまで運んできたものだった。
花弁は、まだ完全には干からびていなかった。
祠の前の地面の土に、無数の踏み跡が残されていた。
一つや二つの足跡ではない。
何人もの人間が刻みつけた、極めて新しい踏み跡だった。
靴底の厚い軍靴ではなく、素足に近い、植物の繊維で編まれた薄い履物の跡。
ここへ、ごく最近になって複数の人間が訪れ、この石の前に跪いて祈りを捧げていたのだ。
明石さんが、土の上の足跡を検数の目で数え上げた。
「……五人か、六人。いや、もっと大勢いるな。同じ人間が、何度も繰り返しここを行き来して踏み固めている」
白地の山道は、過去二十年間誰にも利用されないうちに、雑草に埋もれ、白い粉塵に流され、地図の上から自然と消滅していくはずだった。
だが——この祠の前の一区画だけは、幾重にも重なる人間の足によって、土が黒く固く引き締まっていた。
消滅へと向かう死の大地の中で、その場所だけが、消え去ることを頑なに拒絶し続けていたのだ。
◆◆◆
由良は、その石の祠の前でピタリと足を止めていた。
頭を下げて拝もうとはしなかった。
白い家の昇天信仰の巫女が、見知らぬ異教の祠へ祈りを捧げることはない。
だが、由良の横顔には、いつもの静謐な落ち着きとは異なる、微かな緊張が浮かんでいた。
「……ここには」
由良が、低く呟いた。
「留まっている人間たちが、生きております」
「人間が……」
「機械の光の中へ昇ることを拒み、この過酷な大地に頑なに留まり続けている方々でございます。……私どもの信じる教えとは、完全に真逆を往く人たちです」
私は、あの白地の老婆、トメさんの語っていた言葉を思い出していた。
——土地の古老たちは、国津派と呼んでいる。
その名を、私はこれまで噂としてしか聞いたことがなかった。
だがいま、その噂の主たちが、この荒涼とした大地のすぐ先に確かに実在していた。
石を積み、道を絶やさず踏み固め、そして私の耳の知覚に呼応するあの不気味な律動を放ちながら。
噂によれば、国津派の人間たちは、機械文明を完全に捨て去った土地の、その最も奥深い秘境に集落を築いて生きているという。
国家が「白地」と名付けて切り捨てた死の大地に、自らの意思で捨てられることを選び取った者たちが、いまも隠れ住んでいるのだ。
私たちは、その夜の分の乏しい食料を、暗がりの中で三人で静かに分け合った。
背負い籠に残されていた乾いた木の実も、もはや指で数えられるほどしか残っていなかった。
◆◆◆
その夜、私たちは焚き火を一切熾さなかった。
闇の中に、微かな火の光すら漏らしたくなかったからだ。
この静寂の白地の中に、私たちの他にも、生身の人間たちが潜んでいる。
その者たちが、いまの私たちの存在に気づいているのかどうかは、誰にも分からなかった。
明石さんも、由良も、一切の言葉を発しようとはしなかった。
三人で狭い岩陰に身を寄せ合い、冷たい夜の闇の中でじっと息を潜めていた。
飢えは限界に達していたが、食料を探すことよりも、自らの気配を完全に消し去ることのほうが遥かに優先された。
だが——私の両耳の奥底に届いていたあの細い律動だけは、私がここに存在しているという事実を、完璧に把握していた。
私は目を閉じることなく、どこまでも続く夜の闇を見つめ続けた。
その闇は、ただの静寂の闇ではなかった。
この広大な暗闇のどこかで、見知らぬ誰かが、私と同じように闇の中で静かに目を開いている。
その不可視の視線の気配だけが、細い律動となって、私の耳へと絶え間なく届き続けていた。
漆黒の闇の奥深くで、そのたったひとつの存在だけが、私という人間の真実を知っていた。
——この土地は、決して空っぽの荒野などではない。




