第92話 出せない紙
廃集落の、いちばん端に位置する壊れかけの民家に火を入れた。
先刻、かまどの灰に温もりが残っていたあの家屋は、意図して避けた。
見知らぬ誰かがいまも現役で利用している空間で眠りにつくことは、その何者かに、自らの寝首を無防備に差し出すことと同じだからだ。
端の家は、屋根の半分が完全に崩落していた。
その残された半分の屋根の下の土間に、私たち三人は身を寄せ合った。
明石さんが、最初の夜番を引き受けてくれた。
右腕を吊ったままであっても、左手一本あれば火の番を務めることは十分に可能だった。
半分抜け落ちた屋根の隙間から、白地の頭上に広がる夜空が見えていた。
何の人工の電磁膜も掛かっていない、底知れぬ漆黒の空。
都市の夜空で見上げるよりも、遥かに多くの冷たい星々が、無数に瞬いていた。
あの温かい灰の残されていた家は、ここから三軒ほど先にあった。
明かりは、一切灯っていなかった。
だが——明かりが灯っていないという事実そのものが、かえって、そこに何者かが潜んでいる証拠のように思えた。
完全に留守にしているなら、雨風を防ぐために雨戸をきつく閉ざしていくはずだ。
戸を開け放ったまま闇に沈んでいること自体が、そこに生身の人間が息を潜めている確たる証拠だった。
明石さんは、焚き火を極力小さく保ち続けた。
遠くからでは決して光が届かないほどの、微かな火種だった。
◆◆◆
小さな焚き火の炎を挟んで、私は由良と静かに向かい合っていた。
「……兄様は」
由良が、火を見つめたまま口を開いた。
「私の生まれ故郷のことを、何ひとつお訊きになりませんね」
「……訊かない作法だと、教わりましたから」
私は、あの白地の老婆、トメさんの言葉を思い出していた。
他人の過去の来歴を詮索しない。
それが、この過酷な境界の土地で生きる人間たちの、最も慎ましやかな礼儀作法だった。
「お訊きになりませんので……私のほうから、申し上げます」
由良は、足元から拾い上げた細い枯れ枝を一本、火の中へと静かに足した。
「私は、この白地の、さらに奥深くの領域で生まれました。いまはもう、誰一人として住む者のいない、完全に死に絶えた村でございます」
「……」
「村の人々が、一人、また一人と、姿を消していきました。……村の誰も、死んだ、とは口にいたしませんでした。全能の機械の光の中へ昇っていくのだと、そう教え合っていたのでございます」
微かな火の粉が、屋根の穴から夜空へと吸い込まれるように上がっていった。
「最後に……実の母を見送りました。私が、看取りと送りの作法を、最初から最後まで一人きりで務め上げたのは、母の最期のときでございました」
由良の声の調子は、少しも乱れなかった。
声を震わせて悲しむわけでもなく、感情を押し殺して耐え忍ぶわけでもない。
初めて母を自らの手で送ったという凄絶な事実を、まるで日々の水の量を淡々と報告するかのように、静かに語った。
私は、何ひとつ言葉を返すことができなかった。
この無垢な少女の過酷な人生に対して、投げかけるべき適切な言葉を、私はただの一つも持ち合わせていなかったのだ。
「……文字の読み書きは、生涯で一度も習う機会がございませんでした」
由良は続けた。
「村には、文字を教えてくれるような大人は一人もおりませんでした。……けれど、死者を送るための神聖な作法だけは、誰よりも早く身体に叩き込みました。文字を学ぶことよりも、そちらの知識のほうが、あの消えゆく村では何倍も必要とされておりましたから」
文字の読めない少女が、なぜ文字を読めないまま大人になったのか。
その理由を、私は旅の果てに至って、いま初めて聞かされていた。
教える人間がいなかったからではない。
文字を学ぶよりも遥かに早く、自らの手で看取って見送らねばならない死者の数が、あまりにも多すぎたのだ。
「母をあの世へ見送ったあと、村には、送るべき他人も、送られるべき私自身も、誰一人としていなくなってしまいました。それで……私は山を下り、境界の看取りの家へと身を寄せたのでございます。そこには、誰かに手を握られて送られたいと願う方々が、まだたくさんいらっしゃいましたから」
由良は、赤く揺れる火の粉をじっと見つめていた。
「死者を送るためのこの両手だけが、私がこの世に持っている唯一のものでございました。ですから……その手を使っていただける場所へ、自ら歩んでいったのでございます」
◆◆◆
由良の静かな告白を聞き終えた後、私は懐から手記の帳面を取り出した。
白紙の頁を一枚、指先で静かに破り取った。
黄詩文へ宛てた、四通目の手紙になる。
三通目の手紙は、あの弓削の工具箱の仕切りの中に寝かせてきた。
いまごろ、石上派の人力逓送網に乗って、南の街へ向けて山道を運ばれているはずだった。
だが——この四通目の手紙だけは、絶対に彼女の手元へ届けることができない。
白地の荒野には、手紙を託す置き場などどこにも存在しない。
石上派の秘密の通信網は、遥か南の境界線の向こうに残してきた。
どれほど言葉を書き連ねようとも、それを相手へ届けるための物理的な手段が、この土地には原理として何ひとつ存在しないのだ。
以前、山小屋で出す手立てのないまま手紙を書いたことがあった。
だが、あのときは「届ける手段が、まだ見つかっていないだけ」だった。
いつか街へ戻る行商人や郵便に託せる希望が、確かに存在していたのだ。
だが、いまは決定的に違っていた。
この死の白地には、届ける手段など最初から存在しない。
未来永劫、存在するはずもないのだ。
それでも——私は、鉛筆を走らせた。
〈白い土地を、歩いています。
ここには、字を読める人が、私のほかにいません。
この紙は、たぶん、あなたには着きません。〉
書き終えて、私はその三行の文字をじっと見つめ続けた。
絶対に届かないと分かっている手紙の上に、私は自分の人生で最も真実の言葉を書き記していた。
二度と相手に届かないと確信しているからこそ、書くことができたのかもしれなかった。
すぐ隣に、由良がいた。
文字の読めない少女が、私のすぐ隣で息を潜めていて、私は、遠い街にいる文字の読める女へ向けて、決して届かない手紙を書いていた。
一体、どちらの女性のほうが、いまの私にとって遠い存在なのだろうか。
すぐ隣にいながら文字の読めない人と、遥か彼方にいながら文字を完璧に読み解く人。
私は、その遥かに遠いほうへ向けて、届かない言葉を書き続けている。
◆◆◆
私は手紙を小さく折り畳み、胸元の胴巻きの奥深くへと仕舞い込んだ。
四通目の紙は、届ける宛てのないまま、あの三通目の抜けた温かい隙間へと収まった。
ふと顔を上げると——焚き火の向こう側で、由良が、私の顔をじっと見つめていた。
床の上に正座していた。
白い麻の衣の膝の上で両手を静かに重ね合わせ、力を込めた指の関節が、焚き火の炎に照らし出されて白く浮かび上がっていた。
一体、いつから私を見つめていたのだろうか。
私が、遠い文字の読める女へ宛てて、誰にも読まれない手紙を書き記すその一部始終を——文字の読めない由良が、火の向こう側から、ただ無言のまま、静かに見つめ続けていた。




