第90話 耳鳴りの果て
白地の領域に入ってから、丸二日が過ぎ去った。
空が、どこまでも異様に広かった。
国家によって管理された都市の空には、常に不可視の薄い膜が存在していた。
無線の電波の膜、気象環境制御の膜、都市知能の交信律動の膜。
だが——この白地の頭上に広がる空には、そうした人工の膜が何ひとつ存在しなかった。
ただ青く高いだけの、何の制御も受けていない原初の空だった。
足元の地面は、白く乾ききっていた。
雑草はまばらで、立ち木は根元から白く立ち枯れたものが大半を占めていた。
土壌に塩分でも噴き出しているのか、一歩踏みしめるたびに、乾燥した土の表層が足の裏で細かくひび割れていく。
人間が文明の時代に築き上げた遺構が、たまに山道の脇に打ち捨てられていた。
倒壊した木製の電柱。赤錆にまみれて朽ち果てた農業機械の残骸。屋根の抜け落ちた廃屋。
そのどれもが、過去二十年間、誰の手によっても修繕されることなく放置されていた。
そのような完全な空白の土地を、私たち三人は、無言のまま北へ向けて歩き続けた。
◆◆◆
私の耳の奥が、日を追うごとに静まり返っていった。
あの北の境界帯で体験した無音とは、決定的に異なっていた。
境界帯では、散布された軍用ダストが空間の電磁律動を能動的に呑み込んで遮断していた。
だが、この白地には、電磁波を呑み込むダストもなければ、呑み込まれるべき機械の交信も、はじめからただの一つも存在しないのだ。
生身の人間が、いない。
国家の知能機械が、いない。
野生の生き物すら、極めてまばらだった。
聞き取るべき対象そのものが、世界から完全に消滅していたのだ。
三日目の昼、私の耳の奥底で、激しい耳鳴りが始まった。
外の世界に聞き取るべき音が何ひとつ存在しないと、耳のほうが、何とかして音を捉えようとして、ありもしない虚構の音を自ら作り出してしまう。
細く、高く、一定の周波数で鳴り続ける金属的な響き。
私自身の脳神経の内側から直接発せられている音だった。
意識して止めようとしても、決して止まらない。
何の音も聞こえない死の土地の中で、いま世界でいちばん大きく鳴り響いているものが、皮肉にも自分自身の耳鳴りだった。
「……顔色がひどく悪いな」
明石さんが、私の顔を覗き込んできた。
「耳のせいです。外に聞くべき電波が何もなく、耳の神経が、勝手に鳴り続けています」
明石さんは、少しのあいだ沈黙してから言った。
「俺の耳は、生まれつき生身のこれだけだ。機械の律動なんぞ、生涯で一度も聞き取ったことがない。……この白地の中じゃ、君と俺は、まったく同じ耳になったわけだな」
慰めの言葉ではなかった。
冷厳な事実を、ただ事実として口にしただけだった。
だが——特別な知覚を失って無力感に苛まれていた私の隣に、最初からその力を持たずに生きてきた男が平然と並び立っていることは、不思議と私の心を軽くしてくれた。
◆◆◆
胸元の胴巻きの中に、あの名のない紙が一枚、残されていた。
〈北の帯、散布が始まった〉——あの一行が、最後の手紙だった。
白地の荒野には、国家の遺産回線の末端などどこにも存在しない。
石上派が利用していた秘密の置き場も、遥か南の境界線に残してきた。
もしKが次に何か警告を送ろうとしたとしても、その紙を届けるための物理的なルートが、この土地には一切存在しないのだ。
これまでは、私がどれほど辺境の地へ追いつめられようとも、Kのほうが先回りして公営端末や置き場へ紙を滑り込ませていた。
だが、その先回りが、ここでは絶対に不可能になる。
手紙を置くべき場所が、存在しないからだ。
情報を送る側にも、確固たる道が必要なのだ。
道そのものが完全に死に絶えた土地においては、いかに全能を誇る送信者であっても、沈黙を守るしかない。
私は、Kからの短信が、これから長いあいだ——おそらく旅の果てに至るまで——二度と届かないことを確信した。
◆◆◆
由良は、常に私たちの先頭を歩いていた。
音の何ひとつない死の土地であっても、由良の足取りは少しも乱れなかった。
看取りの家で死の静寂に慣れ親しんできた彼女の足は、聞き取るべき対象が何ひとつなくとも、決して立ち止まることがない。
立ち止まってしまうのは、常に私のほうだった。
頭の中で鳴り響く耳鳴りに気を取られ、足取りがどうしても遅れてしまう。
由良はときどき足を止め、振り返って私が追いつくのを静かに待ってくれた。
急かそうとは決してしなかった。
人の歩みに寄り添うことに、誰よりも慣れた女性だった。
「……昊さ——兄様」
由良が、珍しく自ら口を開いた。
「音のない静寂の場所が、お辛いのでございますね」
「……はい」
「私どもは、音のない静かな場所で、旅立つ方々をお見送りしてまいりました。慣れてまいりますと、そこが、この世で最も静かで、最も魂の近くにいられる場所に思えてまいります」
由良が語る看取りの静けさと、私が失った知覚の静けさは、決して同じ性質のものではなかった。
だが、由良はそう語りかけることで、耳鳴りに苦しむ私の心の空白を、少しでも埋めようとしてくれていたのだ。
◆◆◆
水は、極めて乏しかった。
白地には、澄んだ川の流れが存在しない。
たまに涸れ沢に水が溜まっていても、白く濁って強い苦味があり、飲むことはできなかった。
由良は、枯れ草の根元の、わずかに土の湿り気のある場所を探し当て、素手で土を掘ってわずかな清水を採取する知恵を持っていた。
白地の縁で生まれ育った人間ならではの、過酷な土地の作法だった。
「……看取りの前の水は、こうして集めるのでございます」
由良は、両の手のひらを小さく丸めて清らかな水を溜め、まず明石さんの乾いた唇へとそっと運んだ。
それから、私のところへ歩み寄り、両手を私の口元へと直接差し伸べてくれた。
由良の掌の肌の温もりとともに、冷たい清水が私の乾いた喉を潤していった。
自分自身の喉を潤すのは、常にいちばん最後だった。
◆◆◆
夜、風の当たらない窪地を見つけ、そこで野営を行った。
火を熾すために、弓削から譲り受けたあの火打ち鎌を使った。
石上派の使い慣れた道具は、私の不慣れな手の中でも、火花を激しく散らして火口へと確実に火を移してくれた。
焚き火の薪が、乾いた音を立てて爆ぜた。
電磁の律動などではない。
ただの、生身の火の燃える音だった。
私は、その素朴な音を長いあいだ聴き入っていた。
何も聞こえない静寂の土地の中で、薪が爆ぜる音だけが、久しぶりに外の世界から私の耳へと届いてくる確かな音だった。
明石さんは、焚き火の向こう側で、古い紙の地図を自らの膝の上に広げていた。
無事な左手だけで、白地の描かれた山道を指先でゆっくりとなぞる。
だが——地図の上に引かれた道は、白地の中ほどでプツリと途切れ、その先は何も描かれていない空白のままだった。
その未知の空白の先へ向けて、私たちは明日も歩みを進めようとしていた。
激しい耳鳴りの向こう側で、私がずっと頼りにしてきた耳は、もう、完全に力を失っていた。




