第89話 工具箱
白地の縁に達したところで、石上派の足が止まった。
「……ここまでだ」
弓削が言った。
「うちの縄張りは、送電線の死んだ土地の境界までだ。白地の中には、手紙の置き場が存在せん。置き場のない土地は、うちの土地ではない」
その境界線の先には、雑草も立ち木も極端にまばらな、白く乾いた斜面が広がっていた。
石上派の男たちは誰一人として、その白い領域へ足を踏み入れようとはしなかった。
◆◆◆
弓削は、肩に担いできた頑丈な木箱を、足元の地面へと静かに下ろした。
使い慣れた工具箱だった。
目の細かいやすり、太さの異なる針金、電線の被覆を剥ぐための小刀。
石上派の保線道具が、寸法の順に几帳面に収められていた。
その木箱の、いちばん上の浅い仕切りの中に、小さく巻かれた紙が何枚か、静かに寝かされていた。
「……機械を通さん手紙は、すべて工具と一緒に運ぶ」
弓削は、その中から一枚の紙を指先で抜き取った。
「置き場から置き場へ、生身の人間の手から手へとリレーして渡していく。宛先の住所など書かん。置く場所そのものが、宛先なんだ。……あんたらが知る、役所のまっとうな郵便制度とはわけが違う。だが、機械の通信を通さない手紙である限り、うちの縄張りの中を確実に通る」
弓削は抜き取った紙を、私の前へと差し出した。
「あんた宛ての手紙が、一枚、南から上がってきていた。これは、うちの知っている正規の道を辿ってきたものだ」
紙の裏側に、墨で【田村】と書かれていた。
巻きの太さは、石上派の人間の指の癖で巻かれた、あの手作りの太さだった。
昨夜、置き場に滑り込んでいたKからの定規のような均一な巻きとは、手触りが明らかに違っていた。
◆◆◆
朝の澄んだ光の下で、私はその紙をゆっくりと広げた。
書かれた文字の筆跡を見た瞬間、それが誰の手によるものか、寸分の迷いもなく理解できた。
紙の表面に直接触れることなく、人差し指をわずかに浮かせて文字の輪郭を静かになぞる——あの黄詩文の手が書いた文字だった。
〈手紙は、届きました。
三行目まで、文に見えました。
でも、わたしには、署名に見えました。
字が、少し痩せましたね。
替えの紐は、急ぎません。
書き続けて。読むのは、わたしの仕事。〉
あの山小屋からトメさんに託した、一通目の手紙が、確かに彼女の手元へ届いていたのだ。
三行目に記した——〈日はまた、天に昇ります〉という一文。
検閲の役人や他人の目には、ただの自然な挨拶文にしか見えないように工夫して書いたあの一行を、彼女だけは、私の名前を割った真実の署名として正確に読み解いていた。
——読むのは、わたしの仕事。
あの港の検定試験の日から変わらない、彼女自身の言葉を、そのまま私へと返してきていた。
二十四年の人生の中で、私は常に他人から一方的に「読まれる側」の人間だった。
能力検定の数値に読まれ、国家の保安監視に読まれ、いまは新興宗教の教理によって勝手に読まれている。
そのすべてが、私の意思とは無関係な場所で、私の思いも寄らない都合の良い解釈で、一方的に消費されてきたのだ。
だが——この小さな紙に記された一行だけは違っていた。
私が自らの意思で差し出した文章を、私が最も読んでほしかった通りの意味で、彼女だけが完璧に読み解いてくれていた。
手紙の中には、街で起きている不穏な事情のことは何ひとつ触れられていなかった。
彼女自身が胸の奥深くに隠している秘密のことも、一文字も書かれていなかった。
ただ、私の書いた文字が以前より少しだけ痩せたことだけを、彼女は正確に読み取っていたのだ。
◆◆◆
由良が、私の手元の紙をじっと見つめていた。
文字は、読めない。
教育を受けずに育った彼女にとって、紙の上の文字はただの黒い幾何学模様と同じだった。
だが——その模様を読んでいる私の顔の表情を、由良は痛いほど真っ直ぐに読み取っていた。
「……よい、お便りでございましたか」
「はい」
私は、紙を丁寧に折り畳んだ。
「遠く離れた街の、大切な知り合いです」
由良は、それ以上何も訊こうとはしなかった。
他人の事情を詮索しないことに、誰よりも慣れ親しんだ女性だった。
ただ、自らの麻の衣の膝の上で、両手の指先をギュッと強く握り締めた。
指の関節が、血の気を失って白くなっていた。
文字の読めない少女が、遠い街に自分の知らない「文字を完璧に読み解く女」が存在していることを、いまこの瞬間に直感したのだと分かった。
私には、そう見えた。
だが、由良がその胸の奥底で何を思い、何を祈っていたのかは、私には推し量ることしかできなかった。
◆◆◆
明石さんは、白く乾いた斜面の先を見つめていた。
懐から、一枚の黒いプラスチック板を取り出した。
国家が交付した、T1の第一級人格証明カードだった。
「……この板も、ここから先へ進めば、ただの硬いゴミだな」
明石さんは、指先でカードの角を軽く弾いた。
「認証を行う知能端末もなければ、身分を買い取ってくれる闇市場の人間もいない。……薬を買うために居場所を国家へ売り渡すことすら、もはや不可能になった」
高熱に苦しむ肉体のために抗生剤を買える最後の切り札を、明石さんは、とうとう一度も切ることがなかった。
切らないまま、その札は、二度と切ることのできない死んだ板へと変わったのだ。
明石さんはカードを再び懐の奥深くに仕舞い込んだ。
捨て去りはしなかった。
「……もし生きて文明の街へ戻ることがあれば、また、ただの板に戻るだけだ」
◆◆◆
弓削が、工具箱の木蓋に手をかけた。
「……あんたの手紙は、南へ向かう置き場へ預けておく」
私は胴巻きの奥から、昨夜したためた三通目の手紙を取り出した。
書いたものの、届ける術がなかったあの一枚だ。
「宛先は」
「裏に、彼女の職場の符号が書いてあります」
弓削はその紙を受け取り、工具箱のいちばん上の仕切りの中、他の紙と並べて丁寧に寝かせた。
やすりと針金と小刀の冷たい金属の上に、宛名のない手紙が、また一枚、静かに加わった。
それから弓削は、箱の底から細身の火打ち鎌と、火口の詰まった小さな竹筒を取り出し、私の掌の中へと力強く握らせた。
「白地の荒野に入ったら、火の一つくらい自分の手で起こせ」
弓削の掌は、鉄を削ったやすりの粉で、ざらざらと固く擦れていた。
「うちには拝むべき教典などない。旅立つ者に渡せるのは、生き残るための道具だけだ。……もっとも、あんたに本当に必要なものも、教典などではなかろう」
弓削は、木蓋を閉じた。
「いつ相手の手元へ届くかは、保証できんぞ」
あの白地の老婆、トメさんと同じ言葉を男は口にした。
「構いません」
石上派の男たちは、白地の境界線の手前で踵を返し、南へと引き返していった。
弓削は、一度も振り返らなかった。
重い工具箱を肩に担いだ男の背中が、送電線の死に絶えた土地の向こうへと、ゆっくり遠ざかっていく。
白く乾いた斜面を一歩ずつ登りながら、私は両耳の神経を研ぎ澄ませた。
ここまで微かに届いていた生きた人間たちと、古い機械と、大地の電磁律動が、歩みを進めるごとに細く薄れていく。
耳に届くべき世界の音が、急速に減っていく。
私と世界とを繋いでいた微細な共鳴が、遥かな彼方へと、静かに遠のいていった。




