第88話 鎮め
若い男は、夜明けまで命がもたなかった。
朝、荷を下ろして息を整える岩陰で全員が立ち止まったとき、その若い男の姿だけが列から消えていた。
通ってきた山道を少し引き返すと、大きな岩の陰に、自ら腰を下ろすようにして倒れ伏していた。
背中の、あの乾いた衝撃音がしたあたりが、黒く濡れて作業着に張りついていた。
走りながら徐々に落としていた速度の限界が、そこだったのだ。
両膝を自ら抱え込むような姿勢だった。
荷物を投げ捨てたあとの両手は開かれたままで、腰の帯から次の道具を探し出そうとした指の形のまま、完全に静止していた。
弓削が、地面に片膝をついた。
首筋の脇へ指先を二本そっと当て、そのまましばらくのあいだ、沈黙を守った。
弓削は、指を離した。
「……済んだ」
それだけを低く告げて、静かに立ち上がった。
夜明けを迎えた山あいの空気は、肌を刺すように冷え切っていた。
吐き出す全員の息が、白く立ち上る。
若い男の口元からだけが、もう、二度と白くならなかった。
◆◆◆
石上派の人間たちは、誰一人として涙を流さなかった。
一人の男が、若い男の履いていた草履を足から脱がせた。
片方の紐が、山道で再び緩んでいた。
先刻、出立の前に結び直したほうではない、反対側の足だった。
「……名前は、何というのですか」
私が尋ねた。
尋ねてから、訊く相手を間違えたことにハッと気づいた。
書いた文字は水で流れると、この人たちは言っていた。
名前を、紙の上に決して残さないのだ。
「うちの連中は、名を書かん」
弓削が言った。
「名は、生きて呼ぶ者がいるときにだけ要るものだ。……こいつの名を呼ぶ者は、もう、この世のどこにもおらん」
私は、この若い男の本当の名前を、とうとう一度も耳にすることはなかった。
私の記憶に刻まれたのは、名前などではなかった。
あの荷物を力任せに投げ捨てた手つき、中央の天幕へ向けた電磁パルスの筒、そして駆け出す前に丁寧に結び直した草履の紐の感触。
それだけを、記憶した。
名前を持たない人間を、私には、そうやって手触りだけで記憶することしかできなかったのだ。
◆◆◆
由良が、若い男の枕元へと静かに膝をついた。
白い家で培われた、最も尊い看取りの座り方だった。
だが——これは看取りではない。
看取りとは、これからあの世へ旅立つ人間の傍らに寄り添うための作法だ。
この男は、すでに、息を引き取った後だった。
由良は両の手のひらを、若い男の冷たい胸の上で静かに組んだ。
それから、かすれた低い声で、送りの詞を詠い始めた。
「……お昇りなさいませ」
昇天派の、伝統的な送りの詞だった。
肉体はただの殻であり、殻を脱ぎ捨てて、全能の機械の光の中へ昇っていく。
そういう教理に基づく、死者を見送るための詞だった。
だが——この男は、生涯をかけて機械を憎み、機械を破壊することに命を捧げてきた人間だった。
機械の光の中へなど、昇るはずがなかった。
昇りたいと願うはずも、絶対にないのだ。
由良の詠が、途中でフッと途切れた。
言葉が止まり、続きが、喉の奥からどうしても出てこないようだった。
由良の喉元が、二度、微かに上下した。
次の言葉を懸命に探しながら、どこにも見つけられないときの、苦しい呼吸の動きだった。
神聖な送りの詞の文句は厳格に決まっているはずなのに、その決められた言葉が、目の前に横たわる男の肉体の上には、どうしても重ならなかったのだ。
由良は、組んでいた両手を静かに解いた。
そして——若い男の、冷え切った両手を、自らの温かい両手で優しく包み込んだ。
昇る、とは、二度と言わなかった。
あらかじめ定められた送りの詞の代わりに、いまも生きている愛しい人間の手を握り締めるように、力強く包み込んでいた。
死者の肉体をただの「殻」と見なすよう教え込まれてきた巫女が、その肉体の温もりを惜しむように、生々しく握り締めていたのだ。
死者を天へ送るための手が、この世へ引き留めるための手へと、変わっていた。
光の中へ昇れと命じられてきた女が、どこへも昇るなと懇願するかのように、命の温もりの失われた冷たい指先を、自らの両手で必死に包み込んでいた。
そのあいだ、誰一人として由良を急かそうとはしなかった。
石上派の男たちも、明石さんも、私も、ただ静かに待った。
由良は、最後まで涙を見せなかった。
決して泣かない人間の凛とした座り方のまま、若い男の冷たい手を、いつまでも温めるように握り続けていた。
◆◆◆
弓削たちは、若い男の遺体を、大きな岩の下の浅い窪地へと安置した。
土は、被せなかった。
周囲の川原石を拾い集め、遺体の上に一段ずつ丁寧に積み重ねていった。
「……土は痩せていてすぐに流れる。石を積んだほうが、野の獣に掘り返されずに済む」
弓削はそう呟きながら、無言で石を積み上げていった。
明石さんは、石を積む作業を手伝うことができなかった。
右腕を首から吊ったままだからだ。
明石さんは、無事な左手一本で持ち上げられる手頃な石をひとつだけ拾い、塚の頂点へとそっと載せた。
載せてから、その左手の指先で、薬指の付け根を静かに擦った。
若い男の草履は、片方だけが、石の塚の脇にポツンと残された。
出立の前に、丁寧に結び直したほうの草履だった。
持って帰ったところで、それを履く人間は、もうどこにもいなかった。
石をすべて積み終えて顔を上げると、朝の太陽が、尾根の東の稜線からまっすぐに差し込んできた。
その鋭い光の中に、北の山並みの、木々が極端にまばらになった先の、白っぽい地面がぼんやりと浮かび上がっていた。
雑草も、立ち木も、その境界線を境にして、急激に姿を消していた。
「……白地の、縁でございます」
由良が、祈りの後の少しかすれた声で、静かに告げた。
私は、その白く乾いた地面を、長いあいだ見つめ続けた。
若い男を眠らせた石の塚と、これから私たちが足を踏み入れる白地の土地とのあいだに、私たちの小さな隊列があった。
その隊列の長さは、昨日の朝よりも、きっかり一人分、短くなっていた。
ここから先は、人間も、機械も、極めてまばらな沈黙の荒野だ。
耳を傾けるべき対象が、これから少しずつ、確実に減っていく。
私の耳が、だんだん、遠くなる。




