第87話 見た顔
北の境界帯を完全に抜けると、世界に本来の音が蘇った。
蘇った私の耳が捉えた足音は、尾根のすぐ手前でピタリと停止していた。
止まって、左右へ散開し、再び規則正しく整列した。
人間たちが、統制された列を組み直している音だった。
弓削が、地面に素早く身を伏せた。全員が、それに倣って草むらへ伏せた。
尾根の頂から窪地を見下ろすと、谷底に白い軍用天幕が三つ設営されていた。
地面に無数の杭が打ち込まれ、頑丈な縄が張り巡らされ、その縄に沿って、旧式の自動火器を手にした武装兵たちの姿が行き来していた。
国家の、臨時の検問所だった。
「……役所の荷だ」
明石さんが、草の根元から低く呟いた。
「五日前、荷継ぎ場から北へ向けて出荷された、最後の一口の荷物だ。縄と杭と天幕。……人間が食えるものなどひとつもないと、帳場の関口さんがぼやいていた。これに、化けたわけか」
杭の整列は、尾根の山腹を東から西へ向けて、まっすぐ水平に横切っていた。
国家の管理境界線が、以前より遥かに北のこの地点まで、力づくで引き直されていたのだ。
弓削は、その防衛線をじっと見つめ続けた。
「……以前は、もっと南の街道筋にあった」
男は、低く唸るように言った。
「検問線が、北へ上がってきている」
◆◆◆
私は、両耳の生体感覚を研ぎ澄ませた。
兵士たちの手にする旧式火器からは、何の電磁律動も発せられていない。生身の人間が構え、人間が撃つだけの単純な金属の塊だ。
だが——中央の天幕の奥深くに、ただひとつだけ、極めて精密な電磁律動が存在していた。
細く、寸分の狂いもなく規則正しい。
兵士たちの照準を補助し、周囲の空間を監視するための、随伴型の知能機械の律動だった。
「……機械が、ひとつだけあります」
私は報告した。
「中央の天幕の、奥です。それ以外は、すべて生身の人間です」
「個人の識別読取装置か、光学照準の補正機だろう」
明石さんが言った。
「人間の照準のブレを、電磁的に補正する機械だ」
弓削が、腰の帯から残されていた二本の鉄の筒を抜き取った。
そのうちの一本を、荷を背負っていた若い男へと手渡した。
若い男は駆け出す前に、自らの草履の紐を結び直した。
片方の結び目だけが、山道で緩んでいたらしかった。
「……東側へ迂回する。あの縄の切れ目から一気に突破するぞ。勘づかれたら、遮二無二走れ」
◆◆◆
縄の切れ目までの中間地点に達した瞬間、中央の天幕の奥の電磁律動が、不意に跳ね上がるように加速した。
こちらの接近を、完全に捉えたのだ。
「気取られたぞ!」
窪地の底から怒号が上がった。
杭の列のあちこちから、兵士たちが一斉に銃口をこちらへと向けた。
谷底の静寂を切り裂いて、乾いた衝撃音が二度、鋭く鳴り響いた。
——手を、二度、打ち合わせる音。
あの峠で遭遇した、柏手の男だった。
手を叩いてから、正確無比に撃ち殺す男。
旧式火器が、激しい火花と硝煙を噴き上げた。
石上派の人間たちは、誰一人として伏せようとはしなかった。
一斉に散開した。
一人の男が腰の刃物で防壁の縄を払い、別の男が天幕を支えるロープを切り裂き、若い男が背負っていた荷物を力任せに投げ捨てて、電磁パルス筒の針金を中央の天幕へと向けた。
土煙が激しく跳ね上がった。
立ち込める硝煙の匂い。誰かの短い苦鳴。
弓削は、走らなかった。
手前にあった太い杭の一本を根元から蹴り倒し、倒れた杭で縄を巻き取りながら、兵士の一人が構えていた火器を縄ごと手元へ引き寄せた。
引金を引く人間の指先よりも、縄を手繰り寄せる男の腕のほうが速かった。
石上派の人間は、知能機械を持たない。
持たないからこそ、その肉体の両手が、道具以上の恐るべき反応を記憶していたのだ。
窪地の底は、激しい砂煙と怒号、そして火薬の焦げる異臭に満たされた。
誰が味方で誰が敵なのか、電磁の律動だけでは判別できない。
火器にも、兵士たちの生身の肉体にも、電磁波のシグナルなど存在しないからだ。
この混沌とした戦場の中で、私は何の物理的武器も持たない、最も無力な存在だった。
◆◆◆
私は、中央の天幕の奥にある機械の律動へ向けて、自らの意識の神経を限界まで伸ばした。
人間が引き金を狙い、機械がその照準の誤差を補正する。
補正が行われるたびに、機械の電磁律動が一拍、綺麗に整列する。
その整列の瞬間を捉えれば、内部の回路を狂わせることができると直感した。
だが——いま私が介入すれば、あの若い男が放つ電磁パルスの衝撃と干渉が重なってしまう。
若い男の筒は、一度きりの使い捨てだ。
若い男の放った電磁パルスが、中央の天幕を直撃した。
奥の機械の律動が一度激しく乱れ、しかし、再び自律修復して同期を取り戻そうとした。
——仕留めきれていない。わずかに傾いただけだ。
私は、その歪んだ隙間へと、己の生体干渉を一気に伸ばした。
自分の身体のどこからその力を放っているのかは、いまも分からなかった。
ただ、後頭部の奥深く、あの幼少期の傷痕のあたりが、焼けるような熱を帯びる。
そこから不可視の細い針のような生体信号が、機械の律動の継ぎ目へと一直線に突き刺さっていく感覚だけがあった。
再同期しようとする通信の継ぎ目へと、指先を力づくで割り込ませるように、強い意志を送り込んだ。
継ぎ目は、二度と閉じなかった。
機械は、照準の補正処理を完全に放棄して沈黙した。
杭の列に並ぶ兵士たちの火器が、一斉に狙いを失って暴発し始めた。
弾丸は地面の土をえぐり、虚空の空を撃ち抜き、同じ標的に二度と命中しなくなった。
「……照準補正が、完全に外れているぞ!」
明石さんが叫んだ。
「いまだ! 全員、一気に駆け抜けろ!」
◆◆◆
後頭部の古い傷痕が、内側から締め上げられるような激痛に襲われた。
鼻腔の奥が急激に熱くなり、温かい血が上唇へと流れ落ちた。
由良が、私の右腕を両手で抱き寄せるようにして掴み、縄の切れ目へ向けて力強く引っ張った。
走りながら、自らの麻の衣の袂を私の鼻の下へとそっと押し当ててくれた。
駆け抜けながら、私の流す血を他人の目から隠すための、献身的な手つきだった。
私は必死に足を動かした。
走りながら、いま自分が機械に対して何をしでかしたのかを、誰にも明かさずにいた。
あの若い男は、私のすぐ後ろを走っていた。
投げ捨てた荷物の代わりに、腰の帯から次の道具を手探りで探していた。
その背中で、乾いた鈍い音がひとつ鳴り響いた。
若い男は道具を探す手を止め、二歩ほど大きくよろめいた。
それから、走る速度をほんの少しだけ落とした。
被弾したことを、男は一言も口にしなかった。
石上派の人間は、痛みを決して言葉にしない。
言葉にしないというその過酷な掟を、私はこのとき、まだ知らなかったのだ。
◆◆◆
縄の切れ目を突破するその瞬間、中央の天幕の前に、一人の男が直立していた。
手にした火器の銃口を、下へと降ろしていた。
迫り来る石上派の男たちへ向けては容赦なく引き金を引いていたのに、私の姿を捉えた瞬間、男は銃口を下げたのだ。
男は、両の手のひらを胸の前で二度、打ち合わせた。
柏手だった。
火器が、再び持ち上がる。
だが、その照準を補助する知能機械は、すでに私の力によって沈黙していた。
生身の人間の手のブレだけによる、不確かな狙いだった。
私は、走る足を決して緩めなかった。
男の構えた火器の銃口が、私の顔の高さで、ピタリと静止した。
静止したまま、二度と動かなかった。
引金は、最後まで引かれなかった。
通信の符牒でもない。地図の座標でもない。
この男は、私の生身の【顔】を、いまこの瞬間に初めてその目に焼き付けていたのだ。
あの峠の検問所では、私は深く俯いていた。
役所の名簿の上では、私はただの無機質な記号に過ぎなかった。
国家の追跡者が、私の真実の顔を手に入れたのは、二十四年の歴史の中で、この一瞬が正真正銘の最初だった。
男の唇が、微かに動いた。
硝煙の漂う谷底に、男の乾いた声が低く響き渡った。
「——ああ。あの、いい字の」




