第86話 無音区
右の端から、境界帯の内部へと足を踏み入れた。
一歩、その見えない境界線の内側へ進んだ瞬間、私の両耳の奥底が完全に静まり返った。
いつもなら、どれほど遠く離れた山奥であっても、空間のどこかに微細な律動が存在していた。
街の巨大な交通網の律動、機械の交信の律動、生きた人間や野生動物の足音の律動。
濃淡の差はあっても、完全な「無音」という状態は、これまでの私の二十四年間の人生で一度も経験したことがなかった。
だが——この帯の中は、完全なる無音だった。
散布された工業用スマートダストが、空間の電磁律動をすべて呑み込んで無効化しているのだと、明石さんが教えてくれた通りだった。
軍用ダストの微粒子は、生身の人間の神経を避けて飛ぶこともなく、いかなる応答も返さない。
だからこそ、私の身体の側からは、何ひとつ聞き取ることができないのだ。
耳の中に、固い綿をぎっしりと詰め込まれたかのような重い圧迫感があった。
耳が聞こえなくなったのではない。
空間の中に、聞き取るべき対象が何ひとつ存在しないのだ。
その決定的な違いが、足の裏から背骨を駆け上がってくる言いようのない心細さとなって、私の全身を包み込んだ。
何かを聞き取ろうとして、耳の奥底の神経の筋だけが、無意味にピンと張り詰める。
一歩進むたびに、自分の履く地下足袋の踵が土を踏みしめる鈍い音だけが、やけに生々しく耳元で鳴り響いていた。
◆◆◆
弓削が、先頭を歩いた。
踏み分け道など、どこにも存在しなかった。
あるのは、政変前の古い森林軌道の廃線跡だけだった。
山から木材を運び出すために敷設された線路の残骸で、黒く腐食した枕木が、湿った土から半分だけ頭を覗かせている。
「……枕木を、頭の中で数えて歩け」
弓削が、背後へ向けて低い声で指示を出した。
「枕木の間隔は、一定の寸法で刻まれている。足を踏み外せば、歩幅の間隔が狂う。狂ったら、即座に言え」
私は、土から浮き出た枕木を一つずつ数え上げた。
一、二、三。
腐り落ちて土に埋もれた場所も、地面のわずかな窪みの感触で正確に判別できた。
その窪みも、欠番の「一」として数に加える。
二十を超えたあたりで、耳の奥を苛んでいたあの底のない心細さが、少しずつ薄らいでいくのを感じた。
数えるべき対象が目の前に存在していれば、私は自分という人間の境界を失わずに立ち続けることができる。
弓削は、ときどき足を止めて身をかがめ、廃線跡の路肩の土を手で撫で回した。
埋没した碍子の破片だと言った。
かつて電線を支えていた給電柱の、地中に残された根元だ。
夜の闇の中では、肉眼で見分けることなど到底できない。
だが、弓削の指先は、暗闇の中に埋もれた遺物の間隔を、自らの手の幅で正確に読み取っていた。
「線は死に絶えても、敷設された間隔の骨格だけは、土の中に永遠に残る」
行く手の斜面に、二本の鉄柱が斜めに傾いで立っていた。
昔、山の上から荷を吊り下げて運搬していた、古い索道の支柱だと弓削が言った。
赤錆に覆われ、もはや荷を吊る機能は失われている。
だが、その二本の柱が並び立つ直線の向きが、狂いなく正確に北の方角を指し示していた。
道は完全に死に絶えていた。
だが、道の骨格だけが、いまも北の方角を記憶し続けていたのだ。
◆◆◆
行程の半ばで、私たちは一度だけ窪地に身を潜めて腰を下ろした。
年配の女性が持たせてくれた焼いた芋を、皮の割れたものから順番に口へ運んだ。
冷え切って、石のように固くなっていた。
塩気など一切ない、ただの素朴な土の味がした。
由良が、私の作業着の袖を指先でそっとつまんだ。
「……昊様」
吐息のような、小さな囁き声だった。
「ここには、音が何ひとつございません。昇る音も、下りる音も……」
「そうだな」
私は答えた。それ以外の言葉が見つからなかった。
「……怖いか」
「いいえ」
由良は、私の袖から指先を静かに離した。
「静けさには、幼い頃から慣れ親しんでおります。……看取りの務めを終えた後の部屋は、いつも、このような静寂で満たされておりましたから」
闇の中を先導して歩く由良の背筋は、少しも揺らいでいなかった。
人間の生の最後の静寂を見届け続けてきた彼女の足取りは、音のない死の土地であっても、少しも迷うことがなかった。
◆◆◆
突然、明石さんが足を止めた。
右腕を藍色の三角巾で吊ったまま、無事な左手だけを横へ素早く突き出した。
全員が、即座にその場にしゃがみ込んだ。
「……前方だ。規則正しい打撃音がする」
明石さんの声は、地を這うように低かった。
私の耳には、何も聞こえなかった。
だが、明石さんの耳は、スマートダストに侵されない生身の人間の聴覚だ。
金属の脚が硬い土を叩く規則正しい足音を、私よりも遥かに早く聞き取っていたのだ。
「見張り機械だ」
弓削が言った。
闇の奥底から、四角い金属の塊が、等間隔の歩幅でゆっくりと近づいてきた。
四本の細い金属脚。
一歩の歩幅が、機械の計算通りに寸分違わず揃っている。
土を撒き散らす大型の散布機械ではない。
その周囲を警戒するために配備された、自律型の監視ドローンだった。
弓削は、腰の革帯から鉄の筒を一本静かに抜き放った。
先端から伸びる二本の銅線を、前方の金属の塊へと向けた。
「……限界まで引きつける。待て」
◆◆◆
四角い塊が、私たちの十歩手前まで迫った。
弓削が、筒の金属の腹を自らの掌で強く叩き込んだ。
破裂音は、一切しなかった。
目に見える閃光も、火花も出なかった。
だが——四脚の機械の歩行が、次の一歩で決定的に乱れた。
右の前脚だけが土を踏みしめるタイミングを大きく外し、四本の脚の重量バランスが瞬時に崩壊した。
金属の塊はゆっくりと横へと傾ぎ、そのまま地面へと膝を折るように倒れ込み、完全に沈黙した。
通信と制御の規則が、内部で完全に焼き切れたのだ。
「……一つ、使った」
弓削は空になった筒を捨てず、静かに腰の帯へと戻した。
「残りは、あと二つだ」
機能を停止した機械の残骸の脇を、私たちは一列になって通り抜けた。
由良はその機械の傍らを通過する際、倒れた四角い塊へ向けて、自らの掌を上へ向けて静かに差し出した。
白い家で、死者をあの世へ見送るときの、慈愛の手つきだった。
相手が、心を持たないただの機械であることに途中で気づき、由良はそっと手を下ろした。
◆◆◆
北の境界帯の左端が、次第に近づいてきた。
両耳を圧迫していたあの綿のような重みが、少しずつ、少しずつ薄れていく。
無音の底から、私の耳の奥に最初に戻ってきたのは、自分自身の血管を流れる血液の拍動の音だった。
次に、草木を揺らす風のざわめき。
そして——
尾根の向こう側の斜面から、規則正しい足音が聞こえてきた。
機械の金属脚の足音ではなかった。
生身の人間の、固い軍靴の足音だった。
何人もの屈強な人間が、完全に歩幅を揃えて、こちらの方角へ向けて山を登ってきている。
私は、足を止めた。
「……聞こえたか」
弓削が低く尋ねた。
「はい」
私の耳の感覚は、完全に蘇っていた。
そして、感覚を取り戻した耳が最初に捉えたものこそが、その迫り来る軍靴の足音だったのだ。




