第85話 隙間
夜半に届いたあの名のない紙を、朝一番に弓削の前に差し出した。
〈北の帯、散布が始まった〉
弓削は、その一行の文字を二度、静かに読み返した。
紙の巻きが機械の定規のように均一に揃っていたことには、何ひとつ触れなかった。
「……これで、待つ理由がなくなったな」
弓削は紙を私へと返し、そう言った。
昨日まで、待機することには確かな理由があった。
扉の蝶番の修理が三日分残されており、何より、北の境界帯にいつ工業ダストが散布されるか時期が読めなかったからだ。
だが、散布が始まったと確定した以上、いま待つということは、次の二重散布によって完全に道が閉ざされるのをただ座して待つことと同義になってしまう。
「……今夜、出るぞ」
◆◆◆
弓削は、鉄の火掻き棒で土間の地面に一本の線を引いた。
石上派の人間たちは、紙の地図を一切持たない。
まっすぐな縦の直線を一本、土の上に深く刻みつけ、それが北の境界帯の全貌だと告げた。
「……幅は、生身の足で半日歩く距離だ。帯の内部は、一面が機械の砂で満たされている」
棒の先端を、線の上で右から左へとゆっくり滑らせた。
「散布を行っているのは、国家の知能機械が一台だ。端から端まで進んで、折り返し、また戻ってくる。行進と復行の単純な往復だ」
棒の先を、直線の右端でピタリと止めた。
「機械が折り返して戻ってくるまでのあいだ、散布されたばかりの端の領域は、まだ砂の密度が薄い」
「その薄い隙間を突いて、一気に駆け抜けるわけですね」
壁際に控えていた明石さんが、低く問いかけた。
右腕は、依然として藍染めの三角巾で首から吊られたままだ。
「一台の散布機械が、端から端まで移動するのに、どれだけの時間がかかる」
「うちの者たちが、夜ごとの音を何度も数えて確かめた。行きで、丸一晩だ」
「戻りは」
「次の、丸一晩だ」
明石さんは、左手の指先を膝の上で二度、静かに滑らせた。
統計の数を頭の中で組み立てるときの、いつもの手癖だった。
「……なるほどな。散布された直後の端の密度が薄いのは、機械が反対側から戻ってくるまでの間だけだ。制限時間は、きっかり一晩」
「そうだ」
明石さんは、それきり重い沈黙を守った。
計算の数字が寸分違わず合致したときの、男の納得の沈黙だった。
◆◆◆
「……境界の入口まで、あんたの耳が要る」
弓削が、私の顔を真っ直ぐに見据えた。
「撒く機械が、いま直線の右と左のどちらの端にいるのか。それが分からなければ、どの瞬間に飛び込むべきかの判断が下せん」
「聴き取ります」
私は答えた。
「境界帯の外側であれば、機械の律動は正確に知覚できます。ただし、ひとたび砂の帯の内部へ足を踏み入れれば、私の耳は一切利きません。ここへ至る山道で、自分自身の身体で確認しました」
「百も承知だ」
弓削は、火掻き棒を竈の脇へと静かに立てかけた。
「帯の中に入れば、あとは人間の足と目だけで抜ける。道具はそのあいだ、ただ背負われていればいい。あんたの耳の力は、入口の突破口を見極めるために使う」
「使うのは、外側だ」
昨日の朝と、まったく同じ原則を男は口にした。
◆◆◆
出立のための支度は、太陽が高く昇っているうちにすべて済ませた。
竈の脇で、年配の女性が焼いた芋を清潔な布で包んでいた。
一人につき、三つずつ。
「冷えると皮が割れるから、割れたものから先に口へ運べ」
案内の男が言った。
私は布の包みの中を、いつもの検数の癖で無意識に数え上げた。
九つ。
三人分で、九つ。正確に揃っていた。
それから女性は、北へ向かう私たち三人のために、小さく折り畳まれた紙を一枚ずつ手渡してくれた。
開いてみると、青い露草の汁で、何か文字が走り書きされている。
私には、その見慣れない筆跡を読むことはできなかった。
「……名前だ」
案内の男が、傍らから教えてくれた。
「石上派の置き場を見回る者が、誰がこの道を無事に通過したのかを記憶しておくための符号だ。露草の汁で書かれているから、ひと雨降れば綺麗に流れて消える。……紙の上に何も残らないのが、一番安全なんだよ」
由良はその紙を両手で恭しく押しいただき、それから麻の衣の袂の奥深くに大切に収めた。
「……私には、この文字を読むことは叶いません」
由良は女性に向けて、静かに頭を下げた。
「ですが、心を込めて書いてくださったことだけは、痛いほど伝わってまいります」
女性は言葉を返さず、ただ次の紙を膝の上で静かに折り畳んでいた。
私は自らの紙を、胸元の胴巻きの中、あの黄詩文へ宛てた三通目の手紙のすぐ隣へと滑り込ませた。
読める文字と、読めない文字。
二枚の紙が、私の腹の同じ温かい場所で、静かに重なり合った。
◆◆◆
日が暮れ、山あいが闇に沈んだ頃、弓削が奥の部屋へとやって来た。
腰の革帯に、短い鉄の筒を提げていた。
筒の口から、細い二本の銅線が垂れ下がっている。
「……これは、何ですか」
「線を殺すための道具だ」
弓削は、筒の金属の側面を指先で軽く叩いた。
「至近距離の機械の通信回路を、一発で焼き切って黙らせる。一台につき、一度きりの使い捨てだ。二度目は絶対に効かん」
手作りの、小型電磁パルス発生装置だった。
かつて国家が押収目録に「発生器一台」と記していた、あの系統の武器だ。
石上派は、それをいまも密かに温存していたのだ。
「手持ちは、全部で三つだ」
弓削は言った。
「撒く機械と、周囲を警戒する見張り機械は、完全に別系統で動いている。撒く機械が遠くの端へ離れているあいだに、必ず見張りのドローンが飛来する。来たら、この筒で一台ずつ沈める。その隙に一気に駆け抜ける。……筒が三つだから、対処できるのは三台までだ。もし四台目が現れたら、あとは生身の足で逃げ切るしかない」
「見張りは、何台くらい出現しますか」
「現場へ行ってみなければ分からん」
弓削は、垂れていた銅線を筒の隙間へと手早く押し込んだ。
話しているあいだも、その両手は寸分も止まらなかった。
◆◆◆
建物の外へ出ると、冷たい山風が北の方角から吹き下ろしてきた。
その風の中に、金属の粉塵や砂の匂いはまだ混じっていなかった。
散布された境界帯は、ここから半日ほど北へ進んだ尾根の向こうにある。
弓削が、私のすぐ隣に立った。
「……耳の知覚を開けろ」
私は、北の漆黒の闇へ向けて、全神経を集中させた。
冷え切った夜の底の、最も遥かな遠方。
その空間の深淵に、極めて規則正しい電磁の律動がひとつ、確かに息づいていた。
進んで、折り返し、進んで、折り返し——その一定のリズムを保ちながら、波形の中心が少しずつ、少しずつ、右から左へと移動していく。
散布機械は、いま、直線の右端から左端へ向けて進行している最中だった。
「……左へ向かって、動いています」
「よし。なら、右の端がいちばん薄い」
弓削は、不可視の境界線の右端の方角を鋭く見据えた。
「そこから一気に突入する。出るのは今夜だ」
男は、低く引き締まった声で言った。
「隙間が開いているのは、今夜の一晩きりだ」




