第84話 守屋の裔
昼過ぎから、納屋の勘定を手伝った。
納屋というより、石造りの頑丈な蔵だった。
冷たい石壁に沿って木製の棚が組まれ、巻かれた太い銅線、碍子、釘の木箱、そして蝋の塊が、寸法の順に整然と並べられていた。
埃だけが、奥の段へ進むほど厚く積もっている。
だが——帳面は、どこにも置かれていなかった。
「……数は、どなたが管理されているのですか」
「手が覚えている」
納屋の男は、自らの節くれ立った両手を持ち上げてみせた。
明石さんが、棚の端から端までを鋭い目で見つめていた。
「紙に書き残さないのか」
「書いた文字は、水で流れるからな」
露草の汁で書かれた文字は、水に浸せば跡形もなく消え去る。
書いて、残さない。
それが、この石上派の人間たちの厳格な帳簿の作法だった。
私は言われた通りの棚を検数の目で数え、その数字だけを男に口頭で返した。
釘の木箱がひとつだけ、棚の規則正しい並びから欠けていた。
「昨夜、扉の蝶番の修理に使った」
男はそう言って、指を三本立ててみせた。
三人でかかる三日分の労働のうち、一日目が終わったという意味だった。
◆◆◆
夕暮れ時、建物の裏手の水桶で両手を洗った。
銅線の鋭い切り口で、私の右手のひらに一本の細い切り傷がついていた。
血が滲むほどのものではない、微かな傷だった。
背後に、足音もなく由良が立っていた。
「……お手を」
私が答えるよりも早く、由良の手が伸びていた。
私の右手を下から優しく支え、手のひらを上へ向けさせ、傷の筋をじっと見つめた。
そして次の瞬間——由良の乾いた、冷たい手の甲が、私の額の上へとそっと当てられた。
熱を確かめる手つきだった。
傷は手のひらにあるのに、由良の手は迷うことなく私の額へと伸びていた。
白い家で看取りの務めを果たしてきた彼女の肉体は、人を手当てする際、無意識にその順序で動くように出来上がっていたのだ。
一拍の間、冷たい手の甲が、私の額に触れたまま静止した。
桶の水面が、夕暮れの風を受けてゆらゆらと揺れている。
水桶の向こう側の通路を、二人の女が竹笊を抱えて足早に通り過ぎていった。
「……熱は、ございません」
由良は静かに手を引いた。
引いてから、その両手を麻の衣の袂の中へと大切そうに包み込んだ。
「昊さ——」
言いかけて、ハッと我に返ったように伏し目になった。
「……兄様。お傷は、冷たい水で綺麗に洗い流してくださいませ」
言い直したときの敬語は、いつもより一段、硬く強張っていた。
◆◆◆
日が完全に沈んでから、中央の大部屋の囲炉裏端へと呼ばれた。
囲炉裏の脇に、乾燥させた麻の茎が太い束で立てかけられていた。
年配の女性がそこから一本を引き抜き、先端に炭火を移し、その細い炎の明かりで竈の下の灰を覗き込んでいた。
灯りを灯すためにも、この人たちは一切の電気や機械を使わなかった。
火の向こう側に、一人の老人が座っていた。
この集団の中で最も古い歴史を知る長老だと、案内してきた男が教えてくれた人物だった。
膝の上に細く裂いた紙を載せ、指先で丁寧に紙縒りを縒り続けている。
弓削もまた、作業台を離れて囲炉裏端に腰を下ろしていた。
手元には短い針金と、あの使い慣れたやすり。
「……訊きたいことがあるそうだな」
弓削が言った。
「石上という呼び名についてです」
私は言った。
「その名が一体どこから生まれたものなのか、南の山で少しだけ耳にしました」
「役所の公文書が、先につけたのよ」
古老の指先は、休むことなく紙を縒り続けていた。
「わしらが自ら名乗ったわけではない。向こうから勝手にそう呼ばれ始めたのじゃ。……もっとも、役所の役人どもとて、何もないところから名付けたわけではあるまい」
縒り終えた一本の紙縒りを、老人は自らの膝の上へと置いた。
「この山続きの尾根の奥に、大昔の神社の跡がある。屋根は疾うに崩れ落ち、いまは古い石垣だけが残っておる。石上さんというのは、その古い神社の名での」
「神社の、名前ですか」
「神社であって、蔵よ」
老人の指が、再び新しい紙を縒り始めた。
「昔々、海の向こうから新しい仕組みがこの国へ渡ってきたのじゃ。あれは要するに、当時の最新の知能機械のようなものよ。国を明け渡せと迫られ、断固として否と言い放った古い氏族があった。……戦に負けた。負けて、一族は散り散りになった。社だけが残った。あれは、その敗れ去った氏族の武具を納めていた蔵なんじゃよ」
(——武具の、蔵)
「……その氏族の家名は、何というのですか」
「物部よ」
囲炉裏の薪が、一度だけ小さく爆ぜた。
私は自らの膝の上を見つめ、それから静かに顔を上げた。
「……物部と申します」
鉄を削るやすりの音が、完全に止まった。
弓削の手が、静止していた。
「田村は、山を抜けるための道中の偽名です。私の家名は、物部です。……嘘を申しておりました」
古老の指先もまた、ピタリと止まっていた。
縒りかけの紙縒りが、老人の指の間から解け落ちかけた。
「……守屋様の、末裔か」
「分かりません」
私は答えた。
「手習い塾の養父から受け継いだ姓です。それより前の本当の血筋のことは、私には何ひとつ分かりません」
古老が、弓削のほうへと視線を向けた。
弓削は、視線を返そうとはしなかった。
手の中で、再びやすりが静かに動き始めた。
「……その姓は、この山の中にいるあいだは厳重に仕舞っておけ」
弓削は、手元の針金の先端を見つめたまま言った。
「うちの連中には、掲げる旗など要らんと腹を括った者しかおらん。……だが、その名は、どんな旗よりも古い」
「はい」
「仕舞っておけ。北の境界を完全に抜けるまでだ」
年配の女性が、麻の茎をもう一本、囲炉裏の火へと静かに足した。
◆◆◆
奥の部屋へ戻ると、木製扉の外側の閂が綺麗に外されていた。
外された太い木材は、壁の隅に立てかけられている。
扉には、ただ金属の掛け金が残されているだけだった。
昨日と同じ薄暗い部屋で、昨日と決定的に違っていたのは、その閂の不在だけだった。
明石さんは、すでに藁の上で横になっていた。
由良は壁際で膝を揃えて座り、静かに目を閉じていた。
私は手記の帳面を開き、白紙のページを一枚切り取った。
黄詩文への手紙を書くのだと、心の中で決めていた。
これで、三通目になる。
鉛筆を握る前に、私は自らの右手の人差し指の背を、そっと額へと当ててみた。
夕暮れの水桶の脇で、由良の冷たい手の甲が触れていた、まさにその場所だった。
私は、手紙の中にその出来事を一行も書き記さなかった。
書いたのは、ただの二行だけだった。
〈北へ、まだ歩いています。
体は、動いています。
昊〉
この手紙を街へ届けるための手段は、いまの私には何ひとつ存在しなかった。
それでも私は手紙を小さく折り畳み、胸元の胴巻きの奥深くに大切に仕舞い込んだ。
◆◆◆
夜半を過ぎた頃、木製扉が静かにノックされた。
立っていたのは、あの案内の男だった。
背後に弓削が控えており、その手の中に、小さく丸められた一本の紙が握られていた。
「……置き場を見回っていた者が、拾ってきた」
弓削は紙を渡す前に、まずその外見を私の目の前にかざしてみせた。
石上派の人間が縒る紙は、巻き手の指の癖によって太さがすべて異なっている。
だが、その紙は、どの人間の手によるものでもなかった。
まるで機械の定規で測りながら巻いたかのように、端から端まで寸分の狂いもなく均一な太さを保っていた。
「表に、【田村】と書かれている」
弓削が紙を回し、墨で書かれた二文字を見せた。
「あんたが名乗っていた、あの偽名だ」
私が紙を受け取ると、弓削は低い声で言った。
「誰がいつ置き場へ滑り込ませたのか、うちの誰も見届けておらん。うちの縄張りの内側で、うちの知らん手が勝手に動いている。……ひどく気に入らんな」
二人はそれだけ言い残すと、暗い廊下の向こうへと去っていった。
由良も明石さんも、目を覚ますことはなかった。
私は閂の開いた扉をそっと開け、囲炉裏の消えかけた炭火の明かりのそばで、その紙を静かに広げた。
人間の手で書かれたように見える筆跡だった。
だが、どの文字も、まったく同じ正確な寸法を保っていた。
署名は、どこにも書かれていなかった。
署名がなくとも、この広大な世界のどこから送られてきたものなのか、思い当たる相手はただ一人しかいなかった。
——K。
昼、古老から「名を仕舞え」と命じられた。
そして夜、この名のない紙が手元に届いた。
紙に刻まれていたのは、たった一行の文面だった。
〈北の帯、散布が始まった〉




